子育てが豊かであれば、その社会は「原始」社会でも豊かです。子育てが貧困であれば、近代都市社会であっても、貧困の極みと言わなくてはなりません。もちろん、現在の日本社会は、その貧困の極み社会です。
The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p35の第2パラグラフ7行目途中から。
もともとスー族の子育てにあったものを再現してみて、信じるようになったことですが、それは、後ほど議論することになる、赤ちゃんの時期の根源的信頼が最初に確立されるのは、子育てをしている母親が、無制限といっていいほど、気配りをしてくれるばかりではなく、物惜しみしないで関わってくれるおかげだ、ということです。歯が生えてきた時期の間もまだオッパイを含ませながら、その母親は、潜在的な凶暴性を目覚めさせかねないやり方で、その赤ちゃんの身体的にはすでに準備が整った激しい怒りを、陽気に悪化させるようになるかもしれません。これがのちのち、いつものあそびに、その後は仕事にと道をきらくことになったことは明らかです。それは、餌食や敵に対する十分な攻撃性を求めることになる、狩りの仕事や戦争の仕事になります。このようにして、私どもが結論を得るのは、原始的な諸文化というものは、赤ちゃんの頃の身体の経験と対人関係の経験に対して、身体の部位の働きや対人関係のやり方の「正しさ」を強調するために、特定の意味を与えることを遥かに超えて、細心の注意を払って、しかも、体系的に、目覚めたのは良いとしても歪められてきたエネルギーに道を開くように思われる、ということです。原始的な諸文化は、赤ちゃんの不安に、継続的に自然界を超越する意味を与えることになります。この赤ちゃんの不安は、このような激しい怒りに付け込まれてきたものでした。
赤ちゃんの不安に対して、癇癪を大人が起こさないための仕掛けが、原始社会にはチャァンとありました。それは、赤ちゃんの不安にチャァンと皆が納得できる意味を与えていたおかげでした。だから、赤ちゃんが不安な表情をしたり、泣きだしても、寛容に、気前よく母親が対応することが、社会的に認められていました。そして、人間にとって必要不可欠な、エッセンシャルな根源的信頼を、赤ちゃんの時に豊かにすることができる社会に、「原始的」社会はなっていたわけでした。近代都市に住み、あらゆる文明の利器に囲まれた私どもと、「原始的」社会の住む彼らのどちらかが豊かなのかは、もう議論の余地がない、と私は考えますね。
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