エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#いのちの光体験

2021-01-20 06:53:29 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
 
#聖書の言葉 #単独者の恵み #上手くできてる

  #聖書の言葉  #単独者の恵み #人生の楽しみ #電気ショック治療 #ヴァンデコーク教授ショック インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 人生の愉しみの秘......
 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  
  ① EnpediaをGoogle検索
  ② 「Enpedia内の検索」で「発達トラウマ障害」を検索
 の二段階の検索が必要です。
 (Google検索では、「発達トラウマ障害」は検索しにくい操作【おそくら、内閣府情報調査室の仕業、でしょう】が施されています)
をご参照ください。

 
 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』 は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。
 p.124,ブランク後の,発達トラウマ障害治療の核心部分の,2度目の翻訳も終了。
 p.131の第2パラグラフの5行目から。

 

 

 子どもの頃に粗末にされた大人でも,仲良しになり,信頼し合う善さが分かる様になりますし,晴れ晴れとした世界に広がるスピリットの深い体験もできます

 

 聖書の神様のいのちの光体験をすれば、どなたでもこうなります。

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#スビリット は #結界生まれ

2021-01-20 06:47:30 | エリクソンの発達臨床心理
 
 
#一生を決めるのは抱っこ?

 #ニューロフィードバック効果その③ #どうして効果が出るかはいまは謎 #脳が見える #宗教の復活 聖書の言葉: ἐλπίς 希望の源の噂   ルターが教えてく......
 

 

 「発達トラウマ障害  Enpedia」
  ① EnpediaをGoogle検索
  ② 「Enpedia内の検索」で「発達トラウマ障害」を検索
 の二段階の検索が必要です。
 (Google検索では、「発達トラウマ障害」は検索しにくい操作【おそくら、内閣府情報調査室の仕業,です】が施されています)

 をご参照ください。

 Childhood and Society から。 p.71,第2パラグラフを残します。
 今朝は、p.74の,最後から。



 私どもが地図にしようとしているのは,いのちの家が目の前に出来ることを賛美することです。それは,人と相対して一心同体に成ることに気付く気付きによれば,内的な促しは,「心から優しい聖書の神様」の響きが共に働いてくださることや,周りの大切な人たちの反応と共に,打てば響く出会いを作り出す時です。

 

 3. 帯,善い振舞い と 感覚

  A. 口と五感

 

 いのちの家が目の前に次第に出来ることを賛美して、打てば響く出会いの最初が起こるのは,生まれたばかりの赤ちゃんが,お母さんの身体と一体だったところからお別れして,お母さんの胸に置かれた時です。お口で身体に取り入れるという,生まれながらに身に着けている,大なり小なり,「聖書の神様のいのちが一巡する結界の置かれた」力は,お母さんの胸一体になりますし,その赤ちゃんにおっぱいをやり,赤ちゃんを快く迎える,大なり小なり,「聖書の神様のいのちが一巡する結界の置かれた」力2人を1つにする心の働き一体になります。母子が一体になる時,赤ちゃんは,お口で生き延びますし,お母さんを大切にしますし,お母さんは,胸で生き延びますし,赤ちゃんを大切にします。お母さんにとって,こうするのは,自分が他の人達から手ごたえを感じている,(訳注:①)相手を大事にする生き方と,相手を大事にすることに伴う(訳注:➁)誇りと,(訳注:③)キリストが繰り返し下さる約束とに忠実に従うことなんです。しかしながら,赤ちゃんにとって,お口のあたりは,歩み寄って隣人に成るという最初の創造的な生き方,すなわち,お母さんと一体になるという最初の創造的な生き方が,三昧になる唯一の場です。赤ちゃんはいまここで,自分が心響かせることを大事にすることを感じ取る入口に,あらゆる心からの優しさを「お母さんが」運んでくれるのを頼りにしています。というのも,少なくとも数週間,赤ちゃんが反応できるのは,あ母さんが目の前に居る場合その時だけだからです。創造に相応しく下に立つおっぱいを赤ちゃんが歓んで吸い、また、吸うことが出来るにつれて、お母さんたちが出す気を飲み込むに連れて,間もなく、赤ちゃんは視野に入るものを目で見る様になります(それはまるで,出会いにしがみ付くことができるようなれば,正しい促しがあると,手を広げたり閉じたりするみたいに)。赤ちゃんは,肌がいいぞと言うものを取り入れているように思います。しかし,こういったすべての五感の感度はとても脆いものです。赤ちゃんの最初の体験が単に赤ちゃんが生き続けることが出来る様にするのではなく,赤ちゃんの敏感な息吹のリズムと消化のリズムと循環器のリズムの息を合わせるのに役立つことを確かにするためには,赤ちゃんの感性にそのままでいいよと伝えることは,ちょうど善い強さと善いリズムがなくてはならない,ということです。ちょうど善い強さと善いリズムがなければ,赤ちゃんが下に立ち母親を敬う気持ちは,たちまち,全てに壁を作ってしまいます。ハッキリするのは,赤ちゃんが死んだり,発達ができなかったりしないように,赤ちゃんが生きていくうえでなくてはならないことと,あってはならないことですが,思うまま自由にやれることは増えてきます。様々な子育てでは,役立つことや必要な仕事を勝手に決める特権を悪用されます。赤ちゃんは一歳になるまで,1日の大部分,おくるみにすっかり包まれていなくちゃと思う人もいるでしょう。でも,赤ちゃんは、自分の眼を掻き出さない限り,泣きだした時にはいつでも,あやされ,おっぱいを与えるべきだと考える人もいるでしょう。また,出来るだけ早い時期に素晴らしい手足を自由に動かせると実感すべきだと思う人もいれば,文字通り赤ちゃんの顔が青ざめるまで,ご飯は待つのが当たり前と思う人もいます。子育てに対する見方全ては,子どもを創造するのは何のためであり,子どもと共に心から自由になるにはどうするのか,という問いに私どもがどう応えるのかに拠ります。次の章で申し上げますが,内的に促す英知があるみたいです。曖昧模糊にみえる子育ての条件の中に,無意識の(訳注:実に不可思議な)計画があんですよ。聖書の神様の結界では,同じものを生み出す子育ては,子どもの頃に呼び覚ました願いと恐れと激しい怒りが、晩年、バランスをひどく失うことになります。「子どもにとって、善いこと」や,子どもに起こるかもしれないことは,その子ども自身が何になろうとイメージしているのか,どこに行こうとしているのか,に拠りますね。

 身体に中に入れる習慣がこの舞台で幅を利かせている間、口を聖書の神様の結界にする身体の働きは,お役に立つ習慣として,あらゆる音色がいまここにあることを繰り返し求めます。こうして,この身体に中に最初に入れる習慣には顎と歯の締め付けがあります(取り入れる第2の習慣です)。それに、吐き出す場合もありますし(出す習慣です),唇が閉まる場合もあります(取っておく・我慢する習慣です)。元気のいい赤ちゃんの場合,頭や首を突っ込んできやすいことさえ、あると分かります。頭や首が乳首に,いわば,胸に釘付けになりやすいんです(最初に心魅せられたこと)。人を助ける生き方は全て,お母さんにいつも共に居て貰った子ども等の中に生まれるものです人を助ける生き方は,他では,見つかりませんから。それでも,人を助ける生き方も,最深欲求が欠けたりバラバラになったり,食べ物の源であり,初めの歓びの源の母親と互いに大事にし合うことが欠けたりバラバラになったりすることもあります。

 1つの帯が全ての習慣と眼には見えないやり取りをしていることは,図表にして一番下に示しました(図1)。図1の一つ一つの大きな円は,まっとうに心響かせることが出来る生物を示します。その円の中に、私どもは3つの帯を区別します。(a)「最初の実感」って,表情にも,聖書の神様のいのちの流れ下に立ち心響かせることにも,含まれます。(b)「お尻」は出すのに心響かせます。(c)性器(身体の位置が近いというんではなくて,反応が一貫しているところが強調されます。たとえば、尿道は、排せつ機関であると同時に、性感帯でもあり,内なる力がどう動くかで働きが決まります)。

 一つ一つに小さな円が心響かせる生き方を示す

   1=とりいれ 1

   2=とりいれ 2

   3=我慢

   4=出す

   5=強く出す

 

 最初の口の舞台では,(Ⅰ)最初に取り入れる生き方が,口の一帯を差配します。しかしながら,この舞台は,むしろ,「最初にスピリットを取り入れたと感じる」時期と呼びましょう。最初にスピリットを身体に取り入れる生き方は,時に適って,聖書の神様が見守って下さる結界の行動を司ります。五感の響きと皮膚は感じやすいし,ドンピシャリの内的促しが必要です。最初にスピリットを身体に取り入れる生き方を創造する創造は,初めの場に集中する所から身体の表面の感じ取る場全てに至るまで,図1のⅠ₁の大きな円の線で示されます。

 その他の円(図1の2,3,4,5)は,副次的な生き方を示しています。それぞれが,第2の初めにスピリットを取り入れる生き方(噛み切る生き方),最初に入れたままにする生き方,最初に出す生き方,最初に強く吐き出す生き方です。これらの生き方は,ひとりびとりの善い状態に応じて,適宜大切になります。しかし,これらの生き方は,初めにスピリットを身体に取り入れる生き方の下にあります。ただし,赤ちゃんの身体のある部分が,世話をするお母さんとが互いに育て合うことが妨げられなければ、のお話しです。妨げられるのは,赤ちゃんが心身の仲をコントロールできない場合と,お母さんが赤ちゃんに心響かせない場合です。

 

 赤ちゃんが身体の内側でコントロールできない一例は,幽門けいれんです。幽門けいれんになると、オッパイを飲んでもすぐに吐いてしまいます。このような場合,最初のスピリットを取り入れる生き方は,聖書の神様のいのちが一巡する結界が2人を招き入れるところで生まれます。

 

 

 スピリットを最初に取り入れる生き方になるは,「神の国」と呼ばれる聖書の神様のいのちが一巡する結界が生まれるところです。

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#魂が自由になる = #新しい人が生まれる

2021-01-20 06:19:36 | エリクソンの発達臨床心理
 
 
#いのちの一巡

 #聖書の言葉  #単独者の恵み #人生の楽しみ #電気ショック治療 #ヴァンデコーク教授ショック インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 人生の愉しみの秘密......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」
 ① EnpediaをGoogle検索
 ② 「Enpedia内の検索」で「発達トラウマ障害」を検索
 の二段階の検索が必要です。
 (Google検索では、「発達トラウマ障害」は検索しにくい操作【おそくら、内閣府情報調査室の仕業、です】が施されています)    
をご参照ください。  
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 ,第2章第3節「毎日礼拝」の件が終了。
 第4節「毎日礼拝の復権」も、終了。
 第Ⅲ部の初め、「中垣に関する様々な見通し(壁にかかったいくつかの風景)」は,日常生活のいまここにキリストの光があることを教えて下さいましたね。

 今回は,p.130の,最後の、第2パラグラフから。
 今朝は、p.136の,第2パラグラフから。
 


 夢が究極的に試すのは,患者さんが幼い頃に体験した心の病と、人品が育つことをハッキリさせるのに、役立つ計画です。夢はどうして「心から自由になる場」になるのかなぁ? と問えば,創造の「初め」に向き直らなくてはなりません。(訳注:ドイツ語を話し、イタリア語やフランス語などロマンス諸語にも通じる若い女性)彼女が初めての面接に来た時,私が彼女に伝えたことは,「ソファーに横になって,私とは反対側に面してくださいね、それから,いろんな思いを自由に,その思いをありのままにイメージにしてください,どんなに痛くても、どんなに恥ずかしくても」ということでした。もう,その女性は私に夢を示している中で,「貴方の遊びを遊ぶ準備ならできてるわ」と言うかのように,私に挑戦状を叩きつけているようでした。夢が行き来する結界がハッキリと示しているのは,キリストの子どもの苦しい立場と彼女自身の苦しい立場は、仰向けに寝て下さい,と指示され,私を見ることはできないけれども,私の仕事では、話し言葉で様々な思い出を「思うままに」語る語りと呼んでいることが出来る,治療的礼拝に似ている,ということです。話し言葉で様々な思い出を「思うままに」語ってくれるおかげで,私は,自分が何で自分を恥じているのか分からずにいた様々な思いを覆っていたベールをはぐことが出来ます。とにかく,流れのままにと言う想いは,川のイメージと繋がっていますし,この女性の思い出がおしっこに集まっていることやこの女性を癒す結界の必要なこととも繋がっています。
 激しい怒りと恥と言う2つの気持ちの組合せができるのは,()の中の文字Eの意味に最後には辿り着く,とっても意味深い結界のお陰です。()の中の文字Eは,私のイニシャルですから,「感情転移」のカラクリを示していました。感情転移とは,すなわち,子どもの頃の大切な人に元々くっ付いていた,コンガラガッタ気持ちを,心から自由にしてくれる人にぶつけることです。この意味では,感情転移は,さらに深い思いに覆う覆いが取り払われる様に見ることもできます。そのさらに深い思いとは,「形勢逆転」して,「私をさらし者にし」たいという、この女性の願いでした。つまり,救い主の苦難と自分自身の苦難を共に,嘲りながら私にぶつけたんです。それで,いまここで,この女性が苦しめられた,自分がさらし者にされた受け身の体験を,よく知られている逆回転に従って,歩み寄って観るのが善いとする視点で,能動的に私に逆に回してきたんです。聖書の神様のいのちの結界では、歩み寄って観るのが善いとする視点が,子どもが生き生きと生きる舞台が出来るために創造されます。こういった理解の仕方をする場合だけ,この女性患者の恥を一層辱めることになりますが,それだけではなしに,無意識の悪戯を超えて,一緒に笑うことにもなりました。無意識の悪戯は,1つの言葉に込められたあらゆる意味を,カットして捨ててしまいます。
 ところが,ここで,私がこれまで従ってきたのは,この苦しい思いをしている女性が夢見る,多言語の夢のナゾナゾの中に示されている,イメージが持っている力強い志です。フランス語を話す読者の方は,少なくとも、言語連想からは,見逃していることに気付くだろうことは,seinという言葉に繋がっている,ということです。すなわち,sein 胸ですね。その次に,真実に,この苦しめられている女性がやり取りする中で思い出したのが,ショックを受けたもう1枚の絵でしたね。その絵はルーベンスの手に成るものですが,6つの胸のある女神を思い出したんです。明らかに「割礼」と正反対でしょう。というのも,この女神は,最高の豊かさという場を付け加えたからです。最高の豊かさという場では,他の場はすぐに立ち消えになります。しかし,最高の豊かさという場は,若い女性にとっては,女性の身体を「とても善い」と肯定することだったんですね。若い女性,当時は,女性の服装(【訳注:バストと背中を見せるように襟ぐりの深く取った】デコルテ)や,パリ市民の性を謳歌した習慣に、戸惑いながらも魅力を感じていたんです。それに,最初の絵は,仲間を作る赤ちゃんの頃に苦しんだ赤ちゃんのトラウマを指していましたが,第2の絵は,若い女性がのぞき見したいし,見せびらかしもしたいと願う願いを嵩じさせる、文化的な気を象徴していましたから、こうして、トラウマ全体に対する心からの優しさを求める音色と,いわば,繰り返しその求めをはねつけられたことが,心から自由になる結界で,いまここで,再現したんです。
 聖書の神様のいのちの家2つ返事で赴く「最高の」恵みに与る最初の夢の中で,私どもが見て分かるのは,赤ちゃんの頃や思春期の頃のトラウマが,心から自由になる聖書の神様のいのちの家に行き来することです。このように直ちに光を放つほど互いに相手の隣人に成ることは,もちろん,めったにないことです。互いに隣人に成り合うことを,繰り返し共に大事にし合うことは,道徳的に怪しくバラバラになった沢山のことでも、長い時間を掛けて,陽気で楽しい歓びにすることから生まれます。この若い女性の割り当てが善しとしているのは,次々に自然に湧き上がるイメージに患者さんが三昧になるようにしてもらう時,陽気で楽しい歓びにすることは自分で自分を真っ当にする唯一無二の「創造的な」道をめげずに深める、ということですね。このことについて,バートラム・レビン(訳注:アメリカの精神分析医)が次の様に言っています。
 
メージのままのになっている過去を取り戻すことは,夢のイメージとして,(訳注:フロイトさんが言った)忘れ去られた子どもの頃の悲しい体験のイメージや、抑圧された子どもの頃の心の傷に対する新たな記憶などか否かに関わらず,ことをハッキリとさせて,自分を真っ当にしようとする試みも同然です
 
 フロイトさんは,さらに上を行ってましたね。
 
「患者さん達の幻は,私には,自由にされ,陽気で楽しい歓びを味わう中で創造されるいのちの家も同然です、ことをハッキリとさせて,自分を真っ当にしようとする試みも同然です
 
 終わりに私どもの間にあるのは,夢は,「壁に関する見方」2つに導いてくれる,ということですし、なかんずく,私どもの「身体に宿っているキリスト」がしてくださるのと同様,聖書の神様の息吹に共に吹かれる結界に居る1人にしてくれる,ということです。この2つの見方は、あの私どもの同じ心の中にあんですからる。壁に関する2つの見方の中で,私どもの自分の本音が本当にどっちを見てるかが分かります。自分の本音が本当にどっちを見るかの視座がいまここで私どもの間に授けるのは,すなわち,人は創造され発達するという見方とやり取りの中にある,心の中の私ならではの志です。私ならではの志ができますと,様々な体験に,人生のハビット生かされている意味もできます。必ずハッキリするのは,その患者さんが「割礼」という一番遠いイメージにトラウマによる反応したことは,キリストが幼い頃に苦しんだその幼子とこの患者さんが一体になる心構えから来ていた、ということでしたし,聖書の神様のいのちの家では,キリストのいのちと死が示す共に創造し発達する見通しの中からも来るものです。この女性が不安症になったのは,苦しむ幼い頃のキリストと一心同体に成ったために,理に適わない点も多いけれども,深く傷つけられると歓ぶ見通しを抱くようになった事実によって,来るものです。この女性が思春期後半において,キリストが幼い頃に苦しんだその幼子とこの患者さんが一体になる見通しが,パリ市民の空気の中で満開になった別の見通しと強烈な葛藤を引き起こしていたんです。すなわち,パリの空気に開花した見通しとは,エッチな誘いを,さらけ出したり、のぞき見したりするのを大目に見ることです。こういった(訳注:相対立する)2つの見通しがあったからこそ,その女性は,2つの待ったつ相いれない一心同体に成る相手がかわるがわる心に浮かんで,心乱されていたんです。この女性が広場恐怖症になったおかげで,2つの見通しの間で迷わずに済んだんです。しかし,心から自由になって大我になるという約束のお陰で,3番目の見通し,すなわち,光の約束です,光の約束は,2つにバラバラな2人とスピリットを繋いで,2人を一心同体にしてくれるキリストです。夢のスクリーンに映し出されたこの遊びが示すユーモアピタリと腑に落ちる感じが明らかにしてくれる真実は,無意識の悪戯な力だけではなくて,夢見る者にはみ言葉の特別なギフトがあるということですし,また,ユーモアピタリと腑に落ちる感じが示すのは希望です。父親の束縛から,心から自由になるおかげで,自由になった新しい女性に成れば,光を見通すだろうし,そうすれば,心から自由に日々感謝感激感動し,聖書の神様のいのちの一巡するのを見守り,自分の思いを楽しめる,いう希望です。その希望があれば,昔のキリスト者の見通しにも,いまのフランス人の見通しにも,フロイトさんたちの光の見通しが付け加わります。
 私どもの事例が示しているのは,夢でさえ,見通しを共に見ることになる,ということです。すなわち,「2人が共に約束し合う」ということです。私たちが知っているもう1つの夢は,まるで,やり取りしているみたいで,あたかも前に見たことがあるなぁ,って感じる場合が多いんです。ところが,決して分からないのは,自分の夢は例外ですけれども,人に伝えることができない夢と,熱心に伝えたいと願ったり,教えてほしいと思われたりする夢の違いです。さらには,自分自身の夢を研究しだせば,私どもが夢見る目的は,夢を研究して,大事なが見通しあり,その大事な見通しを伝えるためにあると腑に落ちるためだと分かります。フロイトさんは夢には大事な見通しがあると気高く示した様に,苦しめられている者たちは,自分の夢を語るものですし,自分の夢を語るはずだと知ってんです。すなわち,自分の夢を語ることは,人を育てる奉仕の生き方で,しかも,聖書の神様の結界を共に拵える生き方の中にあるんです。たとえば,ユング派が診る患者さんとフロイト派が診る患者さんが,根っこから違って見えるのは何故かと言えば,手に取って分かるのイメージが違うからです。こういった夢は,聖書の神様の結界の中では,それぞれの「学派」の見通しを振り返って,思い出しているように見えますね。ですから,癒し合う仲間は,人に優しい「結界」の香りがするんでしょうか? しかし,聖書の神様の聖なる創造は全は,腑に落ちれば,合点がいくのは,夢はウソを申しません,ということです。
 1つの例が否応なく示しているのは,私ども魂を自由にするお手伝いをする者は,それほど明確ではない文脈の中で,相手を心から自由にしなくちゃならんことです。つまり,心から自由になる「最高の」場は,聖書の神様に通じています。つまり,思うままに自由に話すことができれば,意識に新たなゆとりが生まれ,今まで気づかなかった聖書の神様にいのちに与る結界があることに気付き,過去を目の前に置くこともできます。しかし,また腑に落ちるもう1つは,気高く背筋を伸ばして立つ信頼iによって,培ってきたことです。すなわち,聖書の神様を信頼する信頼が深まれば,2人は,顔と顔を合わせて省み合い,聖書の神様のいのちが一巡して2人が感謝感激感動すること,お互いにやりとりする生きた習慣の中に自分から歩みゆる自由が豊かにある って,アーメン本当だねと腑に落ちて分かります。もしも,聖書の神様の結界では,礼拝を工夫することが「礼拝する者が対等」という特色があるかどうかで研究…すれば,聖書の神様の結界は、「壁を作って、自分を上にする」行動は最小限にするものだという結論に達しなくてはなりません。共に不動にされて自由にされるようにするからです。それに,(アドラーさんが長年抗議したように)人が「壁を作って、自分を上にする」行動をしがちな側面があることが,歴史的に資本家と労働者の2つに分極化することで人の苦労も大きく二分する中で,マルクスは,苦労に苦労を重ねて,物が母親の様に子どもを育むイメージを作り出したんです。
 私はこれまで声高に様々な流れの中で申し上げたのは,「壁を作って、自分を上にする」行動の様な自惚れ・自己愛の場には,両手いっぱいに心から自由になることです。心から自由になる心構えは,内なる結界の恵みに夢中になることです。聖書の神様のいのちが漲る結界の中では,心から自由になる心構えは,私どもが「内的促し」と呼ぶものと心からの約束することって、こういうことなんだと腑に落ちることです。あるいは,「心の習慣」と呼ぶものと心からの約束することって、こういうことなんだと腑に落ちることです。たとえば、日ごろ私と思っている小我と、その小我の上に立つ悪い良心の関係とかね。仲間内の習慣は,「外で自分が育つ」一部になります。仲間内の習慣は,心に去来することを映し出す馬鹿デカいスクリーンなんです。私が驚き感動しながら,殊更に申し上げたいのは,心の習慣と仲間内の習慣が,聖書の神様のいのちが一巡する結界の中で,補い合い,互いに相手の為に共に居る生き方なんですね。聖書の神様のいのちが一巡する結界の中で、補い合い、助け合って生きる歓びの時,患者さんの心の中で起きたことが示すのは,成育歴はひとりびとりが生きるのは人類皆兄弟・山川草木悉仏性という見方のお陰ということ事実以上のことを教えてくれる,ということです。この成育歴は、ひとりびとりが知っていることや告白したことを遥かに超えている場合がほとんどです。人類皆兄弟・山川草木悉仏性という見方は,宗教的な世界の見方の中でも、政治的な世界の見方の中でも、文字通りイデオロギーやら,輝かしいニューディール政策やらと意識的に見えても、なんとなく、一つの「生き方」に見えても,ひとりびとりが。聖書の神様の創造を信頼して共に不動になり根っから自由になっているのか、大なり小なり、心の中で、あるいは、世間で、狡賢いクモの巣にやられて身動きが取れないままでいるかです。
 このような研究のお陰で私どもがよりよく理解できることは,魂が自由になる,という名にふさわしい革命的な治療法は,その名の通り新しい人が生まれるというヴィジョンをもたらしてくれます。
 
 
 
 新しい人が生まれると,どなたでも完全に心から繰り返し自由になれます
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#聖書の言葉 #単独者の恵み #いのちに至る道

2021-01-20 05:28:42 | 聖書の言葉から
 
#最初のメモリ

  #生きている実感 は #ギフト #互恵的に相手と認め合う黄金律 #聖フランシスコの祈り #聖書の勧め インターメッツォ: エリクソンの叡智 : セラピストの......
 
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生きているのに
死んでいるあなたへ



今朝も,ヘンリー・ナウエンさんの言葉から。

 
 
 
 
いのちに至る道
 
 
スピリットの仲
 
 
みっつ
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#聖書の言葉 #2つ目

2021-01-20 05:20:49 | 聖書の言葉から
 
#毎日礼拝の漲り溢れる歓び

 #人生を生きることを測る唯一の秤 = #生きている実感 #うまくできてる #全体像の向き と #魂の眼 #本当の自分の在り処 #自ら始める晴れ晴れとしたやり取......
 

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生きているのに
死んでいるあなたへ

今朝も,ジェームズ・フーストン James M. Houston さんの言葉からも。

 

 

キリストを生きる者

 

 

2つ目

 

恥をかくと高揚し

 

弱いと強くされ

 

自分を空っぽにするとキリストが生き生きと生きて下さる

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