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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#共に見る真実 と  #生きているのに未だ死んでいるあなた

2020-07-18 09:58:38 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
 
#聖書の言葉 #単独者の恵み #聖書の神様のお恵み

 #聖書の言葉 #1人豊か #オーロラの光    マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。   つらいことを明るく見ようとすることは,難しいといえば難しいのですが, ......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」    

をご参照ください。  

 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』 は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。 

 p.124,ブラクラ後の,発達トラウマ障害治療の核心部分の,2度目の翻訳も修了。

 今朝は,p.337の,最後の,第5パラグラフの下から4行目から。

 

 

共に見る場こそ,真実を語る道を見付けることになりますし,共に見る者等に深い真実を告げる道を見付けることにもなります。それには,自分自身の真実を見付ける邪魔するものを押しのけなくてはなりません,舞台に立つ自分の声や身体に本音が出ている,自分の心の体験をよくよく調べてみることです。

 

 

 

 そのためには,私どもは少しの勇気を持つことが大切です。日常生活のマンネリから抜け出すには,少しの勇気が必要だからです。少しの勇気をもって,自分の真実を踏み込むのです。それがすべての始まりです。

 その始まりを始めていない人は,残念ながら、生きているのに未だ死んでいるあなたです。

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#聖書の言葉 #単独者の恵み #真実が見えない危険

2020-07-18 09:07:01 | 聖書の言葉から
 
#チェインジ #腹の底からの気持ち と #本音

 #エリクソンの祈り #感性通り #腑に落ちるとおりにして善いからね #聖書の教えにピッタリ #現世考:#不平等    発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちら......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia
をご参照ください。



生きているのに
死んでいるあなたへ



今朝も,ジェームズ・フーストン James M. Houston さんの言葉からも

 

 

人や状況

 

 

一方向からしか見られない危険…

 

親切なドロボー

 

心優しき殺し屋

 

迷信深い無神論者

 

それから

 

人気のあるキリスト者

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#聖書の言葉 #単独者の恵み  #沈黙のギフト

2020-07-18 07:39:46 | 聖書の言葉から
 
#切っても切れない絆 と #廻向した本物の大人

 #体感 #内的促し #静かなる細き声 #患者の人生は,#医者の診断次第     発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com  ......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia
をご参照ください。



生きているのに
死んでいるあなたへ



今朝も,ヘンリー・ナウエンさんの言葉から

 

 

沈黙していること

 

こそ

 

聖書の神様が語る言葉

 

 

力と豊かな実り

 

 

ギフト

 

をくれます

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#子ども に #人を大切にするいのち を #返しましょう

2020-07-18 07:00:26 | エリクソンの発達臨床心理
 
#聖書の言葉 #単独者の恵み #聖書の神様のお恵み

 #聖書の言葉 #1人豊か #オーロラの光    マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。   つらいことを明るく見ようとすることは,難しいといえば難しいのですが, ......
 

 

「発達トラウマ障害  Enpedia」
 
  をご参照ください。

 

 Childhood and Society から。p.61の第3パラグラフから。

 今朝は,p.63,4行目から。

 

 

 たとえば,依存症の人たちは,赤ちゃんだったころの自分がしたみたいに,身体も満たされ,気持ちも元気になる様々な物を、口と肌で,取り入れて,その物と一体になることに依存しています。ところが,依存症の人たちは、喉から手が出る程,赤ちゃん返りを願っている、なんてことにはひとつも気付きません。依存症の人たちが,駄々をこね、鼻持ちならないことを自慢し、文句を付けるほど、それとは裏腹に,赤ん坊じみた魂が、ハッキリと表に出るだけなんですけどね。

 逆に,双極性障害(躁鬱病)の患者さん達は,何の望みもなく,空っぽで,物で満たすこともありません。つまり,ぶち壊しにしなければ,と思うような,悪い者や敵で満たすこともありません。あるいは,不意に良い気分が充満しますから,力が湧いてきて,元気モリモリになる気分が際限なく広がって,「そこまでにしておいて」という人の意見を受け付けなくなります。しかし,躁鬱病の人は,下に立つキリストも知らなけれは,良くも悪くも内的促しがどこから生まれてくるのかも知りません。

 ヒステリーの人達は,もしも,女性であれば,まるで,奇妙に物に付け込まれ,攻撃され,拒まれているようなのに,しかも,物に取りつかれているようでもあります。子どもを孕んだこともないのに,分析してみると,その女性が当て買われた最初の役目を示す出来事を孕んでいるんです。ヒステリーの人はその最初の女(男)性の役割に取りつかれているんですが,ただし(なぜなら),その最初の性役割は,はるか昔の子どもの頃にある,受け止めきれない体験になっています(から)

 こういったとても辛い思いをしている人達全ては,それが依存症でも,うつ病でも,気持ちを言葉にできない人でも,幼い頃のどこかの時を生かすことができませんから,幼稚な真似から自分を守ることになりますが,その守り方は頑固で,骨折りで,結局はうまく生きません。

 たほう,繰り返し押さえつけて,お務めをさぼる道を外れて病んだ,それぞれの人には,真実な関係を外れるのに相応しい共通の悪い相手がいます。元々の赤ちゃんの時のパターンからはかけ離れているけれども、口で感じた刺激か,口に貰った刺激から感じ取った性的に完璧に満足する喜びを得ようとする大人がいますでしょ。自分がセックスする時に入れる穴の中で,お尻好きの人も居ますでしょ。それに,性器を覗いたり,自分の性器を見せびらかしたりしたい罰当たりも居ますしね。また,衝動的に,しかも,手当たり次第に,他の人間を,単にイジメる「嬲り者」にするためだけの存在にするために,性器を使いたい輩も居ます。

 心病む人が無意識に望む性行為と 道を外れた者たちがあから様にやる行為の間に,相補的な関係があることを少なくとも理解していたので,フロイトさんは,スピリチュアルなエネルギーの宮を立ち上げることに前進したのです。ですからね,「スピリチュアルなエネルギーであるリビドー」は,半人前の2分の1エネルギーでして,この半人前の2分の1エネルギーは,子どもの時期に,性器以外の身体の周りにあって,食べ物を口に入れたり,お腹の調子を整えたり,手足を動かしたりすると,聖書の神様のいのちの分け前を、その時特有の気高い歓びで,気高い一人前のシャローム平和の歓びにしてくれます。半人前の2分の1エネルギーのリビドーを,子どもを作ることができない時期に,用いた後になって初めて,子どもの半人前の2分の1性は,ささやかないのちが息づく子どもの創造性へと,上手に発展していきます。ささやかないのちが息づく子どもの創造性が,すぐに大なり小なり,《目には見えない》ようになりますし,形も変わりますし,捻じ曲がってしまいます。と申しますのも,子どもの創造力は,まだ半人前だからです。それで,半人前の2分の1の願いの最初に相手をしたモノは,近親相姦禁止という世界の定めのゆえに,永遠に禁じられてしまっています。

 子どもができるようになる前にあった願いの残り物については,全ての子育ては,ある程度まで,創造するわけではない,2分の1遊びを許してくれますが,この2分の1遊び背いた迷いと呼ばれます。ただし,2分の1遊びが,創造主である聖書の神様の支配(訳注:聖書の神様のいのちが一巡する結界)をハイジャックし,追い出してしまいがちです。子どもを産めるようになる前のスピリチュアルなエネルギーであるリビドーの大部分は,しかしながら,「気高くされ」ます。すなわち,半人前の目的から一人前の目的に回心します。身体の中に隠されている「お母さんの本音」に敏感な子どものアンテナの割り当ては,人が教えや試練の “間” の下に跪きたいと願う願いを強めてくれます。あるいは,子どもは「英知の乳」を吸収するのに熱心ですし,その「英知の乳」にあっては,もっと本音に敏感な大人の器から,「なるほど本物だ」と,人智を超えているのに,手に取って分かるスピリットを頂きたいと願ったんです。あるいは,また,子どもは,自分の腹に詰め込みすぎる代わりに,心から優しい聖書の神様の器(訳注:)の中で,心から優しい出会いを1つにしてシャローム平和にしてくださいと祈っているんです。子どもができるようになる前の身体の時期は,発達し,気高くなり,あるいは,2分の1遊びを入ってもいいと認められるんではなくて,押さえつけられている心の向きの中に,フロイトさんは,生きる元気が萎む一番重たい源を見て取りました。

 もちろん,一番上手に子どもを気高くすることが,子育ての心の向きの割り当てですし,子育ての1つなんですが,1人から始まるものと思われません。1人が夢中になることが,血を流すほどの努力,賛成する人がほとんどいないこと,本気の3つを伴う場合だけ,大人の中にも,子どもが夢中になる時にある「断ち物」の元が「なるほど本当にあるなぁ」と分かります。この点で,子どもを気高くすることは,離れ離れに成るギリギリの崖っぷちにあるものです。ですからね,子どもを気高くすることは,初めは恐らく物足りない感じです。ここでこそ,フロイトさんは,ヒーラーとして,ヴィクトリア朝の批判者になりました。フロイトさんが結論として言ったのは,共に暮らす者達は,あまりにも盲目的に独裁的に,自分の子ども等に対して,気高くなるという,とてもできない偉業を強要する,という事でした。大事な半人前エネルギーは,聖書の神様からのギフトの一人前の生かされている実感に気高く成ることが出来ますし,気高くなる予定だ,という事は真実です。共に暮らす親達サンガ(エクレシア,互いに大切にし合う仲間)になるかは,半人前エネルギーが聖書の神様からのギフトの一人前の生かされている実感に気高く成ること次第です。ですからね,共に暮らす親たちの物は元に暮らす親たちに返しなさい、でしょう。しかし,最初にすべきは,人を大切にするあの聖書の神様のいのちは子どもに返しなさい でしょう。人を大切にするあの聖書の神様のいのちは,聖書の神様のいのちが一巡する関わりを始めて子どもを気高くなることが出来ますから。

 

 

 ここは,マタイ、マルコ、ルカに共通する成句「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というキリストの言葉の「欽定訳」がベースになっています。聖書を下敷きにした言葉です。仁科訳では,そのことがどれ程反映されているのか分かりません。

 いのちは聖書の神様からの,人を大切にするいのちのギフト。聖書の神様の被造物の子どもには,その人を大切にするいのちを返したいものです。

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#毎日礼拝 #聖書の神様の言葉 が #シャローム平和 を #創造

2020-07-18 05:38:50 | エリクソンの発達臨床心理
 
#心から晴れ晴れと歓ぶ毎日 と #最高の光 に #似てくる 日々

 #信頼 #身体から滲み出る確信 と #母親の苦しみの聴き役仲間となる司祭が必要 #エリクソンの叡知:恵みの分かち合い    発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。aga......
 

 

発達トラウマ障害 Enpedia」    

をご参照ください。  

 

 今朝までは,Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.110,第2パラグラフから。

 今朝は,P.112,第2パラグラフから。

 



 青年期と理想:

 本当の自分と真実




 青年のために予め用意された,箱だけで商品が入っていない偽の礼拝にする毒気は,「全体主義」です。この「全体主義」は,硬直した様々な考えに囚われて,問答無用に掲げたお題目に,熱に浮かされながら,人をイジメながら,夢中になることです。この全体主義の道連れは,青年に特有な自己愛な(訳注:身勝手な、安倍ちゃんみたいな)人や,様々なイデオロギーにありがちな,聖書の神様でないものを,神として崇める偶像崇拝ですからね。それから,この「全体主義」は自己愛とピッタリですし,この自己愛は,ひとりびとりの若者に特有なものですし,イデオロギーが偶像崇拝になりやすいことに特有なものでもありますし,偶像崇拝に退行しているみたいでしょ。つまり,仲間内の理屈がない訳じゃない,ということです。さらに,生きるはキリストになる舞台は,「仲良くなる」の舞台とも一体です。すなわち,仕事,友達,大切な人と仲間になりたい気持ちの中で,いつも互いに大切にし合うサンガこそが,「仲良くなる」の舞台です。この青年期の生きるはキリストになる舞台は,日常生活を礼拝にするリストの中に,「自分から仲間になる」スピリットが加わります。青年期の舞台の,形ばかりで中身がない偽物の礼拝になる側面は,自己愛村でして,この自己愛村は,仲間以外をイジメる「上から目線の集団」になります。自己愛村 が仲間以外をイジメる「上から目線の集団」になるのが分かるのは,さもしさと偏見の巣窟と,熱狂的な意見や冷酷な厳罰,という,この世でお馴染みのお化けが,恋やお仕事,友情や絵空事で結びついた若者のお喋りや活動に広く行き渡りますから,人間が喉から手が出るほど求めているができます。このは,互いに挨拶し合う様々な場面で強まりますが,その挨拶とは,たとえば,鳥たちが「僕たちが生まれたのは,互いのためだね」という香りを出して踊ったり,「僕たちが生まれたのは,互いに大切にし合う約束をするためだね」とという香りを出しつつ踊ったりすることです。人間の一生の中では,その挨拶は,「僕たち2人が,互いに大切にし合って一心同体に成ること(あるいは,互いを完璧に満たし合うこと)は,僕たち2人が1つのペアに上手になることに相応しいし,互いに大切にし合って一心同体に成ること(あるいは,互いを完璧に満たし合うこと)は,互いに大切にし合う様々なペアから,創造しいのちをもたらすいのちの中で,互いに大切にし合う仲で仲間になることを約束することになりますよ」という気高い芳香を放ちます

 

 

 大人であること と 毎日礼拝で子どもに「あなたは気高い」と伝えること

 

 若者の見習い期間を終える「一廉の人物になる儀式」を経て,「約束をする儀式」が若い大人にプレゼントするのは,新たに一心同体になって仲間に成るスピリットに仲間入りする《免状》です。その《免状》は,聖書の神様のいのちの唯一の通り道を,新しく創造された者に,伝えることです。聖書の神様に頼る毎日礼拝は,聖書の神様のいのちの唯一の通り道を,新しく創造された者に,伝える点で,徹底して従順ですし,ハッキリしています。しかしながら,大人になってからの,腑に落ちる礼拝は,はるかかなたのご先祖様,歴史上の英雄,魂や神々,王様や創始者やお国に頼るものでも,腑に落ちるものであるならどの礼拝でも,子どもの頃や青年の頃の,何気ない毎日礼拝を繰り返し,強化するものに定められています。と言いますのも,大人になっても,子どもの頃の毎日礼拝を繰り返し強化するからこそ,スピリットを育てることが一体になるからです。腑に落ちる礼拝は,また,大人に対しても「あなたは気高い」と伝えます。と申しますのも,本物の大人になることには,毎日礼拝の司祭の車輪を回す点で,繰り返し力づけられたい,ということも入るからなんです。毎日礼拝の司祭の車輪を回す点で,繰り返し力づけられたい,という大人のニーズ(訳注:単数)とは,隣に創造された子どもの眼の中で,(訳注:聖書の神様みたいに)「とても善いよ」といつも頷いて一貫して肯定してくれる人のモデルに,心から歓んで成ることと,「いけないことはいけない」とハッキリと伝える者として,また,真っ当な気高い生き方をするのがミッションですと態度で示す者として,歓んで関わることと,ピッタリと重なります。毎日礼拝でのこの本物の大人の元気を,私は次世代を育てる元気だと申し上げたいんです。本物の大人の元気には,親や教員が子どもを育てることや,物を作り出したり,治療したりする時に弱い立場の相手を育てることも,子どもや弱い立場の相手を「とても善いぞ」と肯定する毎日礼拝になります。大人は,聖書の神様から「とても善いぞ」と言われたキリストを身に着けて,「私は本音が出ることを自覚していたのは間違いありませんでしょ。本音が出ることを(訳注:キリストに救っていただいた者(キリストに聖書の神様の前で「とても善い」と肯定していただかなければならない者)でしかありません,と心底から)自覚しています」という確信に,繰り返し思い至らざるを得ない者でしかないことに決まっています。繰り返し心から安心することって,へこまずに心満たされることが多いのは,父なる聖書の神様,最高の王様を,1人の親みたいな人格(人類を上下2つに分けるウソに騙されて,自分を高等民族と見る高等民族の仲間に親で,しかも,男親です)と見るお陰なんですね。その1人の親みたいな人格である聖書の神様は,聖書の神様が私ども人類を,聖書の神様のイメージの中で創造した時に,本音が出ることを自覚していたのは間違いありませんでしょ。あるいは,繰り返し心から安心することって,へこまずに心満たされることが多いのは,1人の創業者でも,1人の預言者でも,1人の賢人でも,「新しい人が育つイメージに心いっぱい満たされています」とキッパリと口に出して言える人を,1人の親みたいな人格と見るお陰でしょ。今の時代は,女性新しい人が育つイメージを直視するようにする時代です。お父さんの言う事が苦戦しているのが明らかな時代に,お父さんの家がどれ程,毎日礼拝で一心同体に成り「なるほどホントだね」と腑に落ちたルールに頼っていたかが,もう元通りにはできませんが,ハッキリとしましたでしょ。ルールに従う中で挫けたあの「ねばならないで従う責任感」という目で見れば,次世代を育てる毎日礼拝と対になる,箱ばかりで商品が入っていない,特別な生き方になる,ウソを生きる生き方は,自分さえよければ良くて,自分勝手にルールを捻じ曲げる,ウソの生き方になります。そのウソの生き方は,貴方さえ良ければ「虎の威を借りる狐様」と呼びましょう。ところがここで,いままでお話ししてきた毎日礼拝の中の大人のあの(訳注:毎日礼拝の司祭になる)役割生きている実感が漲る礼拝とに,出合いますよ。そのことは,触れておくべき論点ですが,ここでは扱いません。

 しかし,あの「古老の賢慮」に関する言葉,それは,ひとつひとつの毎日礼拝の中で,一巡します。あの「古老の賢慮」に関する言葉が毎日礼拝を創造るのは,「シャローム平和」ですから,その「シャローム平和」がありますと,あの聖書の神様のいのちが確実に一巡するようにしてくれます

 

 

 ヨハネによる福音書の冒頭に,「1章 1はじめに ことばがあり、ことばは神のところにあり、ことばは神であった。」(前田護朗訳新約聖書)とありますでしょ。日本人の日常生活では,ピンと来ないかもしれませんが,言葉が創造するのです。意識せずとも,お念仏のように心が囁いている言葉が,出来事になります

 シャローム平和とは,「傷付いた部分が一つもない。それほどの完璧さ、完全さ、それが平和なんだ」と定義するのは,私が敬愛する本田哲郎神父様です。そんなシャローム平和は人間業ではないことは確かではないですか? 普通人間が言う「平和」とは,弱い者をこっそりイジメたり,ホッタラカシにしておいて,多数派が安穏とすることでしょう。それじゃあ,聖書の神様のいのちは一巡しません。

 結局,本田哲郎神父様が正確に教えて下さっている様に,低みに立って,聖書の神様と相手を見上げる立ち位置に立つ中で,シャローム平和を聖書の神様からギフトとしていただくしか,方法がありません

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