エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#聖書の言葉 #単独者の恵み #子ども

2019-05-17 07:13:25 | 聖書の言葉から




「発達トラウマ障害」Enpedia

をご参照ください。



生きているのに

死んでいるあなたへ



マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。





子どもだって



人間

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#深い井戸 #最高の光の在り方

2019-05-17 06:58:41 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの






「発達トラウマ障害」Enpedia
 をご参照ください。


 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。



 昨日,一昨日のつづき。p.239の,第3パラグラフ,下から2行目。今朝は第4パラグラフの3行目からも。



 トラウマは人々を根っこから変えてしまいます。というのも,トラウマを負わされた人は,もはや自分ではないからです。

 自分を生きていない感じを言葉にするのが,猛烈に難しいんです。言葉が発達するのは,「あそこにあるもの」を分かち合うためにあるのが中心です。言葉が発達するのは,自分のいろんな気持ちを人に伝えて分かち合うためにあるのが一番じゃない(言葉を司る脳は,自分が生きている実感を司る脳から,場所的にひどく離れていますから)。たいていの人は,自分のことより,人をとやかく言いますものね。昔、ハーヴァード大学の心理学者,ジェローム・ケーガルが言ってましたっけ、「一番内に秘めた経験を言葉にすることは,深い井戸に繋がっていて,分厚いミトンの手袋をしたまま,小さな壊れやすい宝石を摘まみ上げる事になっていますからね。」って。



エリクソンが紹介する創造物語と,ピッタリ同じ!

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#唯一の最高の関わり方 #改訂版

2019-05-17 06:01:05 | エリクソンの発達臨床心理


「発達トラウマ障害」Enpedia

 をご参照ください。





 Toys and Reasons 『おもちゃ と 賢慮』から, p.173,最後の第2パラグラフ。6年ぶりの改訳の続きです。今日は,p.175の6行目から。もう一回,翻訳し直しました。





 もしも,ひとりびとりの生涯にわたって,イキイキと子どものキリストが生きることは,陽気で楽しい歓びを生きることですが,生涯に渡って発達する一本道の途中で日々行う,あの毎日礼拝の中で,繰り返し確実に中心軸となる自分,すなわち,生きている実感が不動にされて自由でい続けることになるのならば,ハッキリさせることがことさら大切なのは,

(訳注:①)過去において,お父さんお母さんたちが,中心軸となる自分が不動にされて自由でい続けることに,どんな塩梅で役立ったのかということですし,

(訳注:➁)いまここで,お父さんお母さんが,子どもの中心軸となる自分が不動にされて復活することに役立つことが,お父さんお母さんが子どもに心響かせることに共に集中することでますます気高くされるあの道を,明らかにすることに集中して自分を空っぽにすることです。

子どもが創造にピッタリ合った不動の善き良心ができるのは,大人たちが毎日礼拝の司祭になる時だけです。毎日礼拝の司祭は,聖書の神様の命が一巡する神の支配に与る心の習慣の中で,我よりも聖書の神様を心底信頼することに,理性的に共に確信を持っているものです。しかし,聖書の神様の命が一巡する神の支配に与る心の習慣は,聖書の神様が創造する道から生まれるやり取りから,繰り返し振り返ることで,初めて,この世に自由自在に打ち勝ち続けることができます。1つのやり取り,それは,人と人の間を聖書の神様の命が一巡して人を不動に自由にしてくれる「光」を運んできてくれますし,聖書の神様の創造にピッタリと一致する,心の習慣と,人生の習慣とを,確立することに役立ちます。あるいは,1つのやり取りは,あの「キリスト」が聖書の神様の命が一巡する場を繰り返し整えてくれることで,心から自由にできるようになります。キリストも,日曜礼拝の犠牲になります。日曜礼拝は,自分と人の目を誤魔化す言い訳をする強情と,ねばならないと思う悪い良心とを代わりばんこでもたらし,お金やモノで子どもの歓心を買ったり,子どもに厳しくしてみたりすることを,代わりばんこにもたらし,居ても立ってもいられず,どこか遠くに飛んでいきたい気持ちと,その気持ちから甘えに陥るカラクリに捕らわれることが,交互に現れます。

 子どものころにしてもらった毎日礼拝で体得した,互いに大切にし合う関係の強さと関係の仕方が試練になるのが,若さならば,ぜひともハッキリさせることが大切な事情とは,世の中で生き残ることができるような,心新たにされた陽気で楽しい歓びを編み出す,生みの苦しみを伴う実験を試す情熱です。それから,大人になって,創造に与る方向に手を貸すようになれば,心から自由になることを通して,ますます共に心響かせて,子ども等を手塩に掛けて育てることになるのが,まさに,聖書の神様の創造に与ることになる点で,未来を手塩に掛けて拵えることになります。

 日々のお勤めで,相手に寄り添って心から自由になる毎日礼拝によって,世にも珍しい素晴らしい光がピカリと照らす道は,同じ夢(その夢が,信仰,確信,審判,空想,あるいは,幻のいずれでも)を共に見ることが,ひとりびとりが相手と一心同体になる役目になる道になります。というのも,どんな夢でも,同じ夢を見れば,試練を経て体得した気高い関わりを始める勇気をやり取りの中で,相手の心に吹き込みむことになります。さもなければ,互いに分かり合えないないまま育つ場の中で,自分から人に関われず,自分からも人からも,生きている実感を奪い去る心の習慣を,子どもの心に吹き込むことになります。生きている実感が奪われる時に,目に見えてくるのは,人生のとある舞台で,ひとりびとりの人間の中の起きてくることは,その歴史的時間の中で,人間の発達に関する見方で主流になっている人達の人生の習慣が危機に瀕していることに深く関係している,ということです。同じ夢を共に見るのか,それとも,思いが自己愛的でそれぞれバラバラなのか,いずれの場合でも,心が一致するかどうかで,市民生活の現実が決まってしまいます。というのも,一心同体になる体験の基盤となる,独立する核となる自分に目覚めた時にだけ,相手に息を合わせることができない心の壁と,忖度ゴマカシとが結びついていると気付くようになります。この忖度とゴマカシは,権力のおこぼれ頂戴につきものですし,すべての全うな人にも,一心同体体験を分かち合う仲間にも,繰り返し脅威になります。その忖度とゴマカシは,スピリットを生きる感激を見失っているのに馴れ合いにもたれ合う悪い習慣によって起こります。気高くされるはずの人にとって,聖書の神様の命が一巡する予定の相手が,「隠れ蓑」になってしまいます。歴史のおいても,人生のおいても,過去に囚われていることが未来の見通しを隠し,光の中にある陽気で楽しい歓びと,内的促しに従って生きる生き方を蔑ろにするやり口を,ハッキリさせることが,心から自由になることがお役に立つことならば,聖書の神様が心響く者に育つ見方がその使命を実現するやり口を詳しく調べるのにも役立つはずです。つまり,聖書の神様の心響かせる人を創造する創造のやり口は,唯一の最高の関わり方を実現します,その唯一の最高の関わり方とは,聖書の神様からの新しい約束である,互いに大切にし合う関わり方の中で聖書の神様の命が一巡する関係を繰り返すと,互いに大切にし合う2人が心底からの落ち着きと自由を得て,心底から独立する独立心が繰り返し得られる,ということですし,逆も真なりで,独立心を繰り返し確かめると,聖書の神様の命が一巡する関係を繰り返すことになります,ということですからね。





 クライマックスです。
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#聖書の創造物語 = #森羅万象悉仏性 → #不動で自由な独立心

2019-05-17 05:35:28 | エリクソンの発達臨床心理





「発達トラウマ障害」Enpedia

をご参照ください。

 The life cycle completed 『聖書の神様の命が一巡することができた』 p.87。 第2パラグラフ,下から7行目途中から,です。今朝は,p.88の第3パラグラフの4行目から。  



生きている実感があまりにも,驚きと感激に満ち溢れたヌミノースなものなんで,「生きている実感」は,結局は,晴れ晴れと生きる心の習慣になりますし,さらには,生きている実感がリアルに自分を生きていることの不可欠の条件になります。同時に,2人か3人,心響き合う人間に発達するイメージと言葉を分かち合う者達だけがそれぞれの「生きている実感」から唯一の「共に生きている(共に居る)実感」の中で一心同体になります。…。

 「共に生きている(共に居る)実感」に関して,フロイトさんも,もっと言ってますからね。「間違いなく,ひとりびとりの人がキリストと一心同体にする絆が,ひとりびとりの人が互いに一心同体になる絆のはじめです」(1921)って。しかし,すでに触れましたように,フロイトさんがこう言ったのは,教会や軍隊のような「一心同体になる集団」についての話の中でしたね。しかしながら,人類皆兄弟姉妹に至る一心同体となる仲間全ては,親や創始者から,神々に至るまで,とても善いと感じる大好きな人と一心同体になる体験がなければ,ありえません。ですから,シナイ半島の上に現れた聖書の神様は,自分に語り掛けたのは誰か,を応えなければならなかったモーセから問われて,「私は,今ここで生きている者だ」と自己紹介していますし,モーセに率いられたユダヤの民に,「『自分が生きている実感』である私が,『自分が生きている実感』を皆さんにギフトとしてプレゼントしますから」と示しています。聖書の神様から「自分が生きている実感」を頂けると自ずから独立し不動になる自由な独立心こそ,一神教が進展した中心であることは,間違いありませんし,父なる聖書の神様は自分の仲間になって下さるし,最高の光を見ることに違いありません(エリクソン「生きている実感とキリストガリラヤ物語」1981)。

 ここで私どもに繰り返し甦ってくる思いは,赤ちゃんの時に赤ちゃんとお母さんとが,互いに大切にし合うことには,聖書の神様からの力がある,ということですね。それから,究極的には,赤ちゃんは,お母さんを「聖書の神様」に親替えして,人と聖書の神様とが,互いに大切にし合うことには,聖書の神様からの力がある,ということになりますし,「聖書の神様が御顔を見上げて,皆さんの顔に光をプレゼントしてくださいますから,皆さんの顔も晴れ晴れと光らせて,皆さんに心底からの安心と自由と心底からの独立心もプレゼントしてくださいます」(訳注:旧約聖書の初めのほうにある「民数記 みんすうき」6章26節の引用)ということに必ず立ち至りますから。ここから,私どもは,発達という創造物語に従うことと,森羅万象悉仏性としての「私達」が,実感を伴った体得底の一心同体として,必ず腹の底から体感することになりますよ。





 このような創造は,普遍的ですから,仏教,イスラム教,キリスト教の境界線をはるかに超えることに,自ずからなります。

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