エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#聖書の言葉 #1人豊か #生きている

2018-09-17 10:06:27 | 聖書の言葉から

 

 

マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。

 

 

 言葉は

 生きている

 

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#ゴミ箱の中の真実 #幻覚 と思っていたことは #医者たちの誤解 本当は #バラバラな体験の記憶

2018-09-17 09:56:24 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
 
現世考: #掠め取る手 #猛毒の恐ろしさ  #ウソの猛毒にヤラレル人たち #弱い立場の者を支配した時しか生きてる気がしない連中
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 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
 第2章。「心と身体を理解する,革命」,p.24,第3パラグラフ,3行目はじめから。その前もご一緒に。

 

夜明け前のトラウマを負わされた人たち

 私は夜や週末に,病棟で過ごすことが多かったんですが,そのおかげで,医者が短い病棟巡回では見逃してしまうことに触れることができました。患者さんたちが寝ていないときに,きつく締め付けたバスローブを着て,うろつき回って,暗いナース・ステーションに話に来ることが多かったんです。夜の静けさのおかげで,患者さんたちは話しやすかったようです。ぶたれたこと,暴力を受けたこと,性的に弄ばれたことを話してくれましたが,それが,その患者さんの親だったり,親戚だったり,クラスの友達だったり,ご近所の人だったり,しました。夜ベッドの横になっていると,助けてくれる人もいないし,オッカナイままにされてお父さんや男友達にお母さんはぶたれるのが聞こえるし,両親が,お互いに恐ろしい脅し文句を言い合っているのが聞こえるし,家具が壊れるのが聞こえます。父親のことを話す人もいました。その父親は飲んで帰ってきて,階段を上がったところで足音が聞こえて,父親が入ってくるのを待ち,ベッドから引きずり出されて,ありもしないでっち上げの理由で罰を受けた,というわけです。寝られずに,身動きもできずにベッドの中で横になり,逃げられないことを待った,という女性もたくさんいました。お兄さんやお父さんが入ってきて,性的ないたずらをしたんです,と。

 朝の巡回の間に,若い医者たちは,指導教授たちに自分のケースを報告しましたが,その儀式は,病棟の研修医たちも,黙って参加することが許されていました。若い医者たちは,私が闇夜に伺った話みたいな話に触れることはほとんどありませんでした。しかしながら,後々の研究によれば,真夜中の告白は的を射たものであると確証を与える場合が多かったんです。今は分かっていることですが,精神病の治療を受けている半数以上の人が,暴力を受け,見捨てられ,気持ちを省みてもらえず,子どもの時にレイプされたり,家族内の暴力を目にしている人たちです。しかし,こういった(訳注:発達トラウマの)体験は,医者たちの巡回では,話題に上りませんでした。私がよく驚かされたことは,患者さんたちのいろんな症状を話すときに,感情がこもらないことでしたし,自分が絶望したり,助けがなかったりする原因を理解するよりも,自殺を考えたり,自分を傷つけたりする行動に出ようとすることがあまりにも多いことです。私がショックだったことは,発達トラウマ障害の人たちが,自分ができたことや自分が願っていることに,ほとんど意識を向けていないことでしたね。つまり,自分が大事に思い,大事にし,あるいは,大嫌いな人たち,何が動機で人に関わるのか,どうして発達トラウマ障害の人たちはにっちもさっちもいかなくなるのか,どうすれば心から安心できるのか,すなわち,生活の場での環境との関係に,発達トラウマ障害の人たちは無関心です。

 数年後,若い医者として,臨床の中で医学モデルの特に重症事例と向き合いました。当時私は,カトリックの病院で夜勤のバイトをして,うつ病の電気ショック療法をすることに同意した女性の身体検査をしていました。私自身が知りたがりの移民でしたから,カルテを見て,生活について質問したんです。苦痛の満ちた結婚生活困難な子育て中絶に対する後ろめたさを語る人が多かったんです。電気ショック療法をしている女性患者さんたちは,話すたびに,目に見えて,明るくなりましたし,話を聴いた私に対して,感情が溢れるほど,お礼を言ってくださる場合が多かったんです。正直に話して,心が晴れた後に,電気ショック療法をすることに疑問を持つ人もいました。そんな話し合いの後で,私がいつも悲しかったのは,次の朝に電気ショック療法をすれば,私たちが話した記憶がきれいサッパリ消されてしまうことを知っていたからなんです。私はこの場合はすぐにやめました。

 マサチューセッツ州立健康保険センターの病棟での仕事がお休みが何日か取れると,私は医学部のカウントウェイ図書館に行くことが多かったんですが,それは,助けたいと思っている患者さんたちのことをもっとよく知るためでした。ある土曜日,いまだに大切にされる論争をたまたま見つけました。それは,ユーゲン・ブロイラーの1911年の教科書『早期の痴ほう症』でした。ブロイラーの観察に心魅せられる思いがしました。

 

 「統合失調症の人の様々な幻覚の中で,性的な幻覚が一番多いし,最も大切です。ノーマルなセックスとアブノーマルなセックスの歓喜と喜びは,幻覚のある統合失調症の患者さんは経験したものですが,卑猥でおぞましいことを,途方もない空想が呼び起こすことは,もっとよくあることなんです。男親が精液を垂らす。痛みを伴う勃起が刺激されます。女性患者はレイプされ,傷つけられますが,それは最も悪魔なやり方でです…。このような幻覚の象徴的な意味にもかかわらず,統合失調症の患者は,実際の感覚にも反応します。」


 これを読んで,私は不思議に思いました。私どもの患者さんは,幻覚が本当にあるんだろうか? 医者たちは,決まった通りに,患者さんに質問して,その患者さんがいかに混乱しているのかを記録しました。でも,もし,医者の私たちが聞かされている物語が真実ならば,「幻覚と思っていたこと」も,実際に体験していたことのバラバラにされた記憶だったんじゃないの? ということです。

 

 

 

 異常,ゴミと思っていたことが,実際は,正常,宝物である。

 真実はゴミ箱の中にあります

 

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#慌てちゃダメだよ

2018-09-17 09:31:05 | エリクソンの発達臨床心理

 
聖書の言葉 : #一人豊か  #ソリチュード、 #手当ての手 #掠め取る手
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 Identity and the life cycle  『神様と一心同体になること と 神様の命が一巡すること』 p.74の,第2パラグラフからです。 その前も,ご一緒に。

 

 

  ≪私≫が生きている実感を法則にすること 対 ≪私≫が生きている実感恥じて隠すけれども,それが親がいけないのか自分が悪いのか迷うこと

 

  スポックの本『1歳の赤ちゃん』,『上手な子育て』で論じられている項目を見渡してみると,私どもは,我が家には,このような問いを発する被造物達はいなくても,自分が子どもと様々な言い争いをして,勝ったり,負けたりしている現実を思い起こすことができますでしょ。

 元気いっぱい

 冒険したい気持ち

 もっと頼りたいし,同時に,もっと1人でやりたい気持ちになる。

 あちこちに動き回る赤ちゃんのために,家の中を配置換え

 事故を防ぐ

 赤ちゃんの手の届くところに,毒になるものを置かない時

 自分のことは自分でできるようにするにはどうすればいいのか?

 物を落としたり,投げたりすること

 子ども達が自分の攻撃的な気持ちを収めるようになる

 噛みつく人間

 寝る時間を良い時間にする

 夜になっても寝ようとしない幼子

 

 

 私が選んだ項目は,ここで示した様々な問題の一覧表と範囲をお伝えしようとしています。ただし,ここでは,スポック先生の優れたアドヴァイスやバランスの良さを検討しません。このバランスの良さは,とても分かりやすく,しかも,事実に即して描いている点ですが,子育ての場は,ほかの創造の舞台でも,この優れたアドヴァイスとバランスの良さに従って生きるのが善いでしょう。それにもかかわらず,不吉な様々な力の兆しが1つあります。その不吉な力は,方や縛り付けられた,方や解き放たれますが,特に,対等でない親子2人の意志がぶつかり合う時には,子どもの不吉な力は我慢させられるのに,親の不吉な力は解き放たれてしまいます。というのも,その子どもは,自分の暴力的な衝動と釣り合いませんし,親子も互いに対等ではありませんから。

 この創造の舞台で,何よりも大事なこと,筋肉が育つことと,「我慢する」と「手放す」という互いによくぶつかり合う行動パターンを,ピッタリと一体とすることに,母子2人が共に従うことができることできない,と感じるのも,母子2人になります)と,まだまだ人に頼りっきりの幼子が,自分が生きている実感を自分の法則にして,歓んで生きていく意志体得するのに,途轍もなく重要だ,ということです。

 精神分析が私どもの言葉を豊かにしてくれたのは,「お尻の穴」という言葉です。「お尻の穴」とは,特別な心地よさと強情さを示し,この創造の舞台では,様々な出す所と関係します。お腹や膀胱を,できるだけ空っぽにする全ての道は,心地よく感じる」ご褒美で始まるものです。上手にできると,「上手,上手」と言われます。このご褒美は,人生の始まりにおいて,お腹が毎日仕事をする時の不快感や緊張を埋め合わせるはずです。赤ちゃんとお母さん共に育つと,できるだけ自分を空っぽにすると必ず心地よく感じる」ご褒美をもらえる体験必要不可欠な,状況を好転させる働きとなりま。素晴らしい立ち姿で立つことができて,筋肉が創造のために整えられると,≪私≫が生きている実感に法則にして心から歓んで生きる意志実感通りにノビノビと自由に生きる力が育ちますし,≪私≫が生きている実感零して,捨て去る力も育ちます。しかし,母子の出会いを研究する新たな評価は,母子を固く結びつける様々な絆があることに限りません。実際に,創造する唯一の力強い影響力のある上等な唯一無二の生命力(である,聖書の神様)は,≪私≫が生きている実感零して,創造の目的から的まずれにする力も育てますし,≪私≫が生きている実感感通りに見守ったり,出して生きたりすることを,代わりばんこにする力も育てます。

 お尻の穴に関する限り,この点では,全ては,文化的状況がお尻の穴を大切にするかどうか次第です。両親が,お尻の穴が出したり引っ込めたりする行動の仕方を大切にしないで,年上の子ども達が,よちよち歩きの子どもを茂みに連れていくのに任せて,お尻のことはキチンとしたいと思う気持ちが,目上の子ども等の真似をしたいと願う気持ちと一致するようにする文化もあります。私ども西洋の市民社会,特に,市民社会のかなりの階層の人たちは,お尻の穴のしつけを,かなり厳格に考えます。まさに機械化の時代によって,機械みたいにしつけ,間違いなく働き,いつもきれいで,時間通りで,しかも,無臭の身体であることが理想である,と見なされるようになっています。それに加えて,大なり小なり,意識的な正しいと思われているのは,赤ちゃんの時に厳格に躾けることは,「時は金なり」とされ,規律正しいこと,時間通りであること,成功することが持て囃される機械化の時代の波に乗ってうまく立ち回れる人種になるためには,絶対に必要なことだ,ということです。これが意味することは,私どもは,厳しく躾け過ぎだ,ということです。つまり,子どもは,躾なければならない動物か,設定し,調子を調整しならない機械みたいに思っています。たほうで,実際に,人間らしい品性は,少しずつしか成長することができません。いずれにせよ,私どもが臨床をしていて分かることは,私たちの時代の精神過敏な人は,「過剰に強迫的な」タイプだ,ということです。「過剰に強迫的な」タイプの人は,下のことだけではなくて,愛情,時間,お金の点も,ケチで,がめつく,細かいもんです。うんちとオシッコのトレーニングもまた,私どもの社会はやらなくてはならないことがたくさんある中で躾をする際に,一番厄介な躾になっています。

 それじゃあ,何で,お尻の穴の問題が,大切で,しかも,困難なのでしょうね?

 お尻の穴,という身体部位は,身体部位の中で,互いにぶつかり合う2つの力上で,ぶつかり合いから生まれる私が生きている実感がハッキリと不動にされることに,一番役立ちます。というのも,第一に,お尻の穴は,互いに反対のことを言い合う行動パターンのための身体の部分だからです。互いに反対のことを言い合う行動パターンとは,すなわち,「尻込み・我慢」と「敷居を超え出る」が代わりばんこになるものです。第二に,括約筋は,締め付けると緩めるの2重の意味のある筋肉, 曲げると伸ばすの2重の意味がある筋肉だからです。ですから,この1歳前後の舞台全体が,≪私≫が生きている実感を自分の法則にするための,1つのぶつかり合いになります。というのも,1歳前後の赤ちゃんが,自分の足で立つ準備ができているように,赤ちゃんは,自分の世界を,「私は」と「あなたは」,「私に」と「私のもの」という話し言葉で,正確に描きますから。お母さんであればどなたでも知っていることですが,子どもは1歳前後の舞台では,ビックリするほど素直なのは,自分がすべきこと「望もう」と心に決めた場合です。ところが,1歳前後の赤ちゃんが,すべきことを望むようにするのに頼れるお祈りを見つけられません。お母さんであればどなたでも知っていることは,擦り寄ってくるときには,とても愛らしいのに,大人を押し退けるときには,とても冷たい,ということです。1歳前後の赤ちゃんは,いろんなものを大事に貯め込見がちであると同時に,いろんなものをポイと捨てがちです。いろんなものを独り占めにしたいのに,そのいろんなものを窓から捨てたいのです。ですから,こういった,一見相矛盾する様々な傾向は全て,我慢と出すという決まった行動パターンのもとに含めます。

 母子の間で,あ互いに,相手の行動パターンに自分の行動パターンを合わせあうことを生み出すことが,一番厄介な試練に直面します。神様の命の回転とは逆向きに,あまりにも厳格に,しかも,あまりにも早期に,お母さんが外から赤ちゃんの行動パターンを,コントロールするお母さんの気持ちが,赤ちゃんが自分のお腹や他の働きを,歓んで,自由な選択によって,「一つ一つ」自分でやろうと努力する赤ちゃんの気持ち奪うことの上に立つ結果になりますと,その赤ちゃんも,写し鏡になった母子2人も,同じ反抗の顔と,同じ満たされない顔をします自分の身体が言うことを聞きませんし(よく自分のお腹が心配になります),外側にいる人も当てになりませんと,赤ちゃんは,元に戻るか,あるいは,偽りの前進によって,満足し,命が回転するようにせざるを得ません。別の言葉で言えば,その赤ちゃんは,生まれたばかりの時の,最初の口を介したコントロール,すなわち,自分の親指をしゃぶったり,不機嫌になり,とても手がかかるようになったりしますし,,敵になったり,わがままになったりして,ウンチ(後には,汚い言葉)を爆弾として使います。あるいは,赤ちゃんは,生きている実感に従って,誰にも頼らずに何でもできるような恰好をするようになるんですが,実際には,これまで頼りになる人が,いた試しがないんです。

 この舞台では,ですから,人を大切に思う気持ちと人を悪く思う気持ちの割合や,人と力を合わせることとわがまま勝手をすることの割合,それに,自分が生きている実感通りに自由に生きられるのか,それとも,自分が生きている実感を押し殺して生きるのか,の割合を決める分かれ道になります。「≪私≫が生きている実感を大切にしながら,≪私≫が生きている実感が正しいことを確かめる」心の習慣から,≪私≫が生きている実感を人生の法則にすることと,前向きに生きる気持ちが生まれます。筋肉とお尻の穴がうまくできない感じと,自分のことを自分でできない感じと,親が口うるさい感じから,≪私≫が生きている実感を生きられないのが自分のせいなのか親のせいなのか迷う心の習慣と,≪私≫が生きている実感を生きることにいつも恥じて隠す心の習慣が生まれてきます。

 ≪私≫が生きている実感を法則にすることを育てるためには,赤ちゃんの時期に,自分自身と世の中を根源的に信頼する信頼が不動になるように育てられ,確信をもって続けられるようにしなくてはなりません。≪私≫が生きている実感を法則にできるような赤ちゃんは,≪私≫が生きている実感と人様を根源的に信頼する聖書の神様に対する信頼聖書の神様を信頼する根源的信頼感は,決して失うことのない天国の宝物ですから,最初の舞台の諍いから自由にしてくれます)は,急に強く,いいものが欲しくなっても,なんでも独り占めしたくなっても,頑なに,嫌いな人を押し除けたりしたくなっても,危険にされさることはないでしょう。「辛抱強くて,一つもウソのない真実な約束」が守って下さるおかげで,赤ちゃんは,まだしつけられていない分別が迷ったり,思い煩ったりすることも,ありませんし,必ず神様の命が一巡することを信頼して,めげずに信頼する立場に踏みとどまることもできますし,人に自由をプレゼントすることもできます。しかし,周りの大人たちは,その赤ちゃんが「自分の足で立つ復活」を願うように,赤ちゃんを手助けしなくてはなりません。それは,その赤ちゃんが,いつも,とても悪いままに,自分が寄る辺なく独りぼっちにされたと感じることがないようにするためです。いつも,とても悪いままに,自分が寄る辺なく独りぼっちにされたと感じることを,,あるいは,2番目の信頼の失敗,と呼びますが,それは,善悪どちらにも取れることですから,私どもは迷い,思い煩いと呼びます。

 「自分が生きている実感を恥じて隠すきもち」は,子どもっぽい気持ちで,まだ十分に研究されていません。恥は,丸裸にされて,人から見られていることに気付いたことを前提にしています。一言で言えば,自分の行動を意識している,ということです。見られているのに,見られる準備ができていないんです。ですから,私どもは,まだ服もろくすっぽ着ておらず,しかも,お尻丸出しの状態で,寝間着姿で,人から見られる恥ずかしい夢を見るんです。「自分が生きている実感を恥じて隠すきもち」は,赤ちゃんの時には,自分の顔を埋めようとする気持ちに現れますし,地面に,その場ですぐに,自分の顔を鎮める気持ちに現れます。この「自分が生きている実感を恥じて隠すきもち」になることがある,ということが,何かを教える時に,「恥ずかしい思いをさせて,≪私≫が生きている実感を隠させる(訳注:忖度)」といったやり方で,乱用される場合がとても多いんです。これは,もっぱら,幼稚な大人達がやらかすことです。恥をかかせて,自分が生きている実感を隠すようにさせると,後でお話しすることになる,一層破壊的なことが多い,ダメだぁ,という気持ちになります。恥をかかせて,自分が生きている実感を隠すようにさせることが破壊的であることは,いくつかの市民社会の中では,様々な工夫を凝らして「面目を保つ」ことと引き換えになっています。子どもに恥をかかせることは,自分はダメな子なんだと実感する,次第に強まる実感を悪用するんです。自分はダメな子なんだという実感は,矛盾しているんですが,その子が立ったり,その子が,大きさや力を人と比べることができるようになったりするにつれて,大きくなります。

 恥をかかせ過ぎますと,結局は,キチンとやりましょうという気にはなりません。むしろ,人が見てないところで,こっそりやればいい「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心させることになります。アメリカの民謡に,一人の殺人犯が,人々の晒し者になって,絞首台の露となった話がありますが,その場にふさわしく,恐れたり,恥じ入ったりする代わりに,見物人たちを咎めだて始めて,終いには,ありとあらゆる罵るような言葉を浴びせかけましてこう言いました「目が潰れちまえ」と。1歳2歳の幼子は,我慢ならないほどに恥をかかされますと,「目が潰れちまえ」と同じような意味で,信頼できない気分になるものです(その気持ちを言葉に出す勇気も言葉もありませんが…)。こんな好ましからざることに触れたのは,子どもでも,大人でも,自分自身,自分の身体,自分が必要な様々なこと,自分がしてほしい様々なことが,ダメで汚らわしいと見なすように押し付けられても,我慢にも1つの限度がある,ということですし,自分のことをダメだと裁く相手が間違ってないことを信頼するのにも,1つの限度がある,ということです。時には,立場が逆転しがちなもんで,他にやり方があることも忘れて,自分を裁く人たちが今ここにいる,っていうことそのものを悪と見なすようになりがちです。日々裁かれて,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心したものにチャンスが回ってくるのは,日々裁く者たちがいなくなった時か,日々裁く者たちから離れることができる時です。

 反抗的な子ども,犯罪を犯した青年は,恥をかかされすぎて,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心した人が多いんですから,その悪の道にその子らを至らしめた様々な条件をよくよく調べてみるに値しますね。

 繰り返します。筋肉が発達しますと本来は1つなのに(訳注:ぶつかり合っている)人との関係の2つの仕方,「手放さすに待つ」と「手放す」,を実験する舞台ができます。すべての人生の習慣について言えることですが,この根源的な諍いから,結局は,人を敵と見下して,敵対する生き方も生まれてきますし,人を心優しい人と認めて,心から優しくする生き方も生まれてきます。このように,「手放さずに待つ」ことが,破壊的で,しかも,残忍に本心を隠させ,押さえ付けることにもなりますし,心から人を大切にする1つもモデルになりますから,(訳注:結婚式の誓いの言葉のように)「毎日一緒にいます」ということになります「手放す」ことも,破壊的ないろんな力を,敵討ちみたいに,発揮することにもなりますし,鷹揚に「見逃してやる」ことや「そのままにしておく」ことにもなります。人格形成の視点から申し上げれば,「手放さずに待つ」ことと「手放す」ことの生き方は,良くも悪くもなります。このぶつかり合う2つの生き方の値打ちは,敵対する生き方が,敵や仲間,あるいは,自分自身に向けられるのかどうかにかかっています。

 この最後に名付けた危機は,精神科医に一番よく知られている危機です。自由に生き方を選ぶことを自分の人生の法則にすることができるように,ゆったりと,上手に手伝ってもらうことができない,あるいは,生まれて1年間の間に,生きている実感とそれを認めないお母さんを信頼する気持ちが弱められますと,そのビクビクして傷つきやすい(訳注:発達トラウマ障害の)子どもは,良いお母さんとそうでないお母さんを区別したい強い気持ちと,お母さんに手で触りたい強い気持ちを,自分に向けるようになることがあります。そのビクビクして傷付きやすい発達トラウマ障害の子どもは,「生きている実感を失う」ようになりますし,「できそこないの良心」が伸びてしまいます。繰り返し遊ぶことで様々なものを試すために,様々なものを手に入れるのではなくて,自分自身が繰り返すことそのものに囚われるようになります。すべての物事が「自分が思った通りに」あるように願うのですが,それには,決まった順番があり,決まったテンポがあります。このように子どもっぽい囚われによって,たとえば,ブラブラすることで,あるいは,様々なやり方にうるさくこだわることによって,その子は,現実に互いに大切にしあうことができないので,様々な場で親や面倒を見る人の上に立つ力を得るようになります。このような中身のない勝利は,お互いに押し付け合う脳の病の,子どもっぽい見本になります。お互いに押し付け合う脳の病が大人の性質に及ぼす影響はどうかといえば,その影響は,すでに指摘した古典的な強迫的な性質になかに観察されます。付け加えなくてはならないのは,「ばれなきゃいいや」と心ひそかに決心してやったことを,ゴマカシて逃げ切りたいと願う願いに支配された性格の人です。しかし,ゴマカシで逃げ切りたいという願いは叶いません。ビクビクして傷付きやすい発達トラウマ障害の子どもは,人を避けるようになりますから,その「できそこないの良心」のために,何物もゴマカシて逃げ切ることができませんし,生涯にわたって,いつも,≪私≫が生きている実感を恥じて隠し,いつも身構えていますし,いつも見られることを恐れます。あるいは,ほかに,私どもが「忖度(譲りすぎ)」と呼ぶ仕方で,発達トラウマ障害の子どもらは,生きている実感を法則にすることに逆らうようになります。しかしながら,生きている実感を生きる法則にして実際に歓んで生きる,という事は,おくびにも出しません

 

 

 しかし,障害についていろいろ考えるところから,小児科医の実際に役立つアドヴァイスを伝える見出しを研究することに戻る時です。このいろんな見出しは,次のようになります。すなわち,この1歳2歳の舞台の子どもに忠実であれ,忍耐強くあれ,そうすれば,その子どもも,自分自身に忠実になれますし,忍耐強くなりますよ。その子どもは,生きている実感を法則にできる人間であることに心満たされるようになります。時には,何かをやっても,見つからずに済む,ということもありますけれども。

 それじゃあ,なぜ,この心の中にあり,この生まれながらに備えられている生きている実感を法則にすることを育むために何をすべきなのか,というを,たとえ,それが分かったとしても,事細かに親たちに伝えないんでしょうか?  その答えは,生きている実感を法則にすることが,人間らしい価値になる時には,この生まれながらに備わっている,生きている実感という繋ぎ目作り出すやり方,あるいは,それを何とか作り出す方法が,どなたにもわからないからです。私自身の専門分野の精神分析は,物差しに合わない程,あるいは,理に叶わない程,自分はダメだという感覚が過剰になることを特に研究してきましたし,自分はダメだという感覚が過剰になると,子どもが身体とバラバラになるように母親らが見当違いに関ることを研究してきましたが,子ども達にしてはならないことを,少なくても,ハッキリと言葉にしようとしました。しかしながら,こういった言葉は,あいまいな警告から,とても厄介な決まり事を作り出しがちな人の中で,子どもたちの上に立つ様々な禁止事項を次々に作り出すことになりがちです。関わる中で,私どもは,「どんな力」が働くと,子どもが「とても優しいこと」を実現することに「ならない」ことは,少しずつしかわかりませんから。

 この世の人々が確信しているように見えるのは,(その人の立場から見て)子どもを正しい人にするためには,1人の子どもの人生に,恥,迷い,ダメだぁ,おそれを感じる気持ちを,言ってることとやってることが一貫する形で,植えつけないといけない,ということです。ただ,その子育てのやり方はいろいろです。文化によって,幼いころからやる文化もあれば,遅くからやる文化もありますし,あるいは,知らず知らずのうちにやる文化もあれば,徐々にやる文化もありません。

 

 

 子育ては,文化によって,さまざま。

 しかし,早すぎる躾は禁物らしい。

 

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#暇つぶしだけの人生を送っているあなたへ #生きている実感 は #聖書の神様からの身に余るプレゼント #内なる光 #キリストの恵みを忘れない と #育つ

2018-09-17 07:11:40 | エリクソンの発達臨床心理

 
エリクソンの叡智 :  #発達上の人間力 と #キリスト教の価値 の #一致 #パウロ神学に立脚
  発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com  但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~80......
 

 

 今宵は,いつもの翻訳を離れて,Young Man Luther : A study in Psychoanalysis and History 青年ルター,精神分析と歴史の中の一つの研究,p.183,第2パラグラフから。

 

 

 デカルトの「私は考える,ですから,私はいまここに生きている」という言葉は,中世哲学の終わりを告げた,と言われます。その中世哲学は,聖アウグスティヌスから始まりましたでしょ。聖アウグスティヌスは,人間が考える能力の中に,聖書の神様が存在することを証明するだけではなくて,聖書の神様からの身に余る好意を証明するものと,見なしました。アウグスティヌスが考えたことは,人間が戴く「内なる光」とは,「聖書の神様からの尽きせぬ恵みが満ち溢れたもの」が実現したものだ,ということでした。ですから,私どもは,「いつも人を心から大切にする,あるいは,恵みがいつでも満ち溢れた,神様と一心同体になること」が,「内なる光」だ,と言えるのかもしれませんね。それは,アウグスティヌスが,彼の神学すべての中で,ルターが,使途以降ルター以前で,アウグスティヌスこそ,最高の神学者と呼んだ,聖書の神様に対する信頼を中心に据えていたからに他なりません。アウグスティヌスは(後に,ルターもそうであったように),「人間が地獄に行く定め」,すなわち,人間が完全に的外れに生きていることに関して,一切の妥協も譲歩もしませんでしたし,聖書の神様だけが,単独で,今ここを生きている,ということを実現できる,ということにゆるぎない確信を持っていました。アウグスティヌスは,「人々は,今ここを生きていたり,生きていなかったりしますでしょ。人々が,今ここを生きる,ということを実現できるのは,聖書の神様から,今ここを生きている,ということを引き出すからなんですし,人々が,今ここを生きていないのは,生きている『恰好』はできても,生きていることを,『実感するように育って』いないからです。人々は,みんな,今ここ生きているのではなくて,暇つぶしと繰り返しによって,人々は共に1つの世界を全うしているようでいて,その実,部品にしかなっていないんです」と言うわけです。人は,神様から無限に大切にされる恵みがない限りは,明らかに,部品も同然でしょう。人は,暇つぶしだけの人生になります。神様から無限に大切にされる恵みがなければ,人間と一心同体になっても,それは,暇つぶしだけをしている多くの人間と同じになるだけです。ところが,聖書の神様は人間に,いつでも聖書の神様から大切にされている,という唯一無二の恵みの思いと,いつでも聖書の神様は大切にしてくださった,という唯一無二の恵みの思い出とを,下さいますから,そのように,聖書の神様からいつでも大切にされてきたことによって聖書の神様と一心同体になることが始まります。



 見事な記述です。

 聖書の神様との生き生きした体験がなければ,エリクソンは,こうは書けなかったでしょう。それは,アウグスティヌスやルターの体験を,エリクソンが追体験して,アウグスティヌスやルターが本に書いてあることが,「なるほど,本当だね」と体感したからこそ,このように,見事に書けたわけです。

 イキイキ晴れ晴れ人生は,キリストの無限の恵みを忘れないことです。

 その体験がない西平直さんの翻訳は,あまりにも惨めです。

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