エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

最高の悦び ♡ +最高に正しい

2015-09-07 23:53:27 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

 
狂気のパラダイス
オレンジビーチ、ペリリュー全人類を認める意識2013-09-07 04:29:01 | エリクソンの発達臨床心理 世間の常識...
 

 今晩も「自由」について考えます。宮沢りえさんには、今晩も登場していただきます。繰り返しで申し訳ないのですが、「自由」は、加藤周一さんが基本的人権の中で最も根源的なヒューマン・ライト 「人間にとって、正しいこと」なんですね。ですから、逆に申し上げれば、この自由がなければ、他に、どんな一見「正しそうなこと」があろうと、一見「正しそうなこと」を主張しようとも、それは全て、「人間にとって、正しいこと」にはならない! ということですね。

 人は、今まで自分が出来ずにいることができるようになったとき、どなたでも、嬉しいんじゃないのかしらね。小学生と付き合っていますとね、自分が抑え込んでいた気持ちを表現できるようになった時の、真剣な、しかし、イキイキとした感じの表情やしぐさを見る時、そのセラピーは、まだ結果が出ていなくても、「できた」「うまくいったなぁ」と感じますからね。またもっと一般的に申し上げれば、書けなかった漢字が書けるようになったとき、繰り上がりの足し算が出来るようになったとき、幅跳びで三メートルが跳べるようになったとき、逆上がりができるようになった時などの、実に嬉しそうな顔と仕草をする子どもを見れば、出来なかった「壁」を乗り越えて、出来るようになることが、人間にとって、根源的な悦びの源であることが分かります。

 でも、それだけじゃないですね。スキルの向上だけが、壁を乗り越えることじゃないでしょ。人間にとっも、もっとも厄介なのは、昨日のブログでも取り上げた、人の人を分ける垣根、壁の方ですよね。スキルの壁は、「逆上がりが苦手」などと意識しやすいし、それは意識しやすい分だけ、乗り越えやすい。けれども、人と人を分かる壁は、無意識に根差す「人間を上下二つに分けるウソ」との結びつきが根深いがゆえに、そもそも意識に登りにくいので、その壁はいっそう越えがたい、と言えますでしょう。

 ここで、宮沢りえさんのご登場。村上春樹さんの「海辺のカフカ」を、蜷川幸雄さんの演出で、ニューヨークのリンカーンセンター(ブロードウエー)やロンドンのバービカンセンター(シティ)で上演し、スタンディング・オベーションを得たそうですね(http://digital.asahi.com/articles/DA3S11953151.html)。海外公演、大成功という訳ですね。でも、最初からそうだった訳じゃないみたいですよ。ブロードウエーなどのスタッフが、最初から、この舞台を歓迎したわけじゃないのだそうですね。ところが、観客がスタンディング・オベーションでしょ。「おぉっ、客が喜んでるよ」ってなわけで、宮沢りえさんたちに対する目が変わったってんですね。その時の悦びを、宮沢りえさんは、次のように言っています。

「何より嬉しかったのは、…最初はチョット斜な感じで居た人たちが、初日が開けた瞬間の、スゴイ、スタンディングで拍手をしてくれた時に、パッと袖を見たら、そのイギリス人やニューヨークのスタッフが、『客が悦んでるよ』と言って…一気に国境を超えて、ただ物を作る演劇人として、何の国境もラインもなくなって…そのラインがなくなったってことが、すごく幸せです」と語ります(NHK「switch・interview達人達」再放送は、明日、9月9(水)24:00【宮沢りえ(女優)× リリー・フランキー(イラストレーター・作家・俳優)】)。

 人と人を分けていた壁を乗り越える自由こそ、私どもも喜びとしたいと思います。なぜなら、これが、「人間にとって、最高の悦び」であると同時に、「人間にとっても、最も正しいこと」、なのですから。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暗黒の中世ヨーロッパは、今の日本と同じです

2015-09-07 08:50:14 | アイデンティティの根源

 

 

 ルターのおかげで、「汚い」と言われていた(いまも、汚いと言われがちな)話し言葉によって自分を確かにさせる「近代」が始まりました。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.224の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 もちろん、イギリスのジョン・ウィクリフや、ボヘミアのヤン・フスは、2人して、マルティンが生まれる100年以上も前に、カトリック教会の中で高位の司教様や作家が広く議論していた神聖とされていた諸問題について、熱狂的に無礼な振る舞いをしたことに注目が集まったのも、事実です。その諸問題とは、典礼、特に、告解(懺悔の告白)を、穢れた耳の司祭達(金を貰って告解を聴いて、無罪放免を宣言する司祭達)に任せること、穢れた手の司祭達(金をとってミサをする司祭達)におミサをしてもらうこと、穢れた手で「金よこせ」と強要すること、始めは、司祭の仕事だと言われた告解に対する添え物だったけれども、次第に、お金を出せば告解したことの代わりになりました。とどのつまりが、問題の中の最大の問題である、外国人で遠くにいるローマ教皇の無謬説です。ローマ教皇が是認すれば、汚い金を受け取るような司祭でも、司祭が金をとってやることも、批判を許されないのでした。

 

 

 

 

 中世のヨーロッパって、今の日本みたいですね。日本はヨーロッパに比べて、500年は遅れているのかもしれませんね。ここの話は、まるで東芝や西武学園の話と同じでしょ?!

 暗黒時代と言われた中世ヨーロッパは、今の日本と同じですね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思春期に生じる人間力

2015-09-07 06:51:18 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ≪本当の自分≫を生かして生きるために、意識的に価値を選択していきたいものです。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p73の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 思春期に生じる、特有の人間力、つまり、fidelity フィデリティ 「損得を超えて、忠実であること」は、赤ちゃんの時のtrust トラスト 「人を自分と同じくらい信頼すること」と、大人のfaith フェイス 「神様を信頼すること」と強い結びつきがあります。親の道案内から、良い教師と指導者の道案内へと変わって、fidelity フィデリティ 「損得を超えて、忠実であること」は、自分の価値を伝えてくれるものを、熱心に信じようとします。たとえ、その価値が「生き方」にそれとなく現われる「人生のハビット」であっても、暴力的に眼に見えるものであっても、信じようとします。

 

 

 

 

 思春期のfidelity フィデリティ 「損得を超えて、忠実であること」も、非常に幅広いものですね。高校野球を見て、その健気な姿に現れるのも、この思春期特有のfidelity フィデリティ 「損得を超えて、忠実であること」ですし、それが見るものを感動させもしますよね。しかし、これがイジメ集団に対してfidelity フィデリティ 「損得を超えて、忠実であること」になれば、川崎の中学生が集団に殺された事件にも繋がっています。

 ですから、ここでも、どんな価値にfidelity フィデリティ 「損得を超えて、忠実である」か? が、問われます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横領は、神様に似ている?!

2015-09-07 02:34:34 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
史的イエス
  信頼がなくなると、偶像が登場します。偶像崇拝と言われても、ピンとこない方が少なくない、と思います。日本人にとって、まだリアリティを失っていない実例を一...
 

 今晩は、タイトルが「?」だったかもしれませんが、「自由」を考えます。私が敬愛してやまない、加藤周一さんが「基本的人権の中で一番大事」だ、という「自由」です。

 

 

 最近の当ブログの読者の皆さんであれば、東芝にしろ、西武学園にしろ、上司の意向に「NO」と言わないことが、言えないと思っていることが、組織の腐敗を招くことが分かりましたよね。いつの間にか、組織や上司が「神」の座に、チャッカリ着いちゃった訳ですね。これが「偶像崇拝」です。神でないものを神とする時、この世の中で、最もおぞましい、最も恐ろしいケダモノが出現するんです。

 昨年でしたかね、新宿ピカデリーで映画「紙の月」を見ました。讃美歌が流れる横領事件の映画だったからかもしれません。そのラストシーンは印象的でしたね。タイか何処かの市場に消えていく、宮沢りえさん演じる主人公。その清々しい感じが印象に残ります。この映画は、銀行の横領事件を題材にしながらも、「自由」を考えさせるものでしたね。それはこのブログでも繰り返し申し上げている通り、「自由」こそ基本的人権の中でも根源的に「人間にとって正しいこと」=human right ヒューマン・ライトです。横領はもちろん、刑事犯罪です。「業務上横領」が疑われている、西武学園の佐藤仁美さんと同じです。もちろん「やっちゃダメ」なことです。しかし、「自由」を考える上では、非常に意味が深いと私は考えます。

 この映画、繰り返し流れてくる讃美歌がありました。私の大好きな讃美歌の1つです。クリスマスシーズンになると、日本のテレビでも流れてきますし、多くの人が知っている讃美歌でしょう。讃美歌108番「荒野の果てに」です。「グロ〜〜〜リア」と「ロ」を伸ばして歌う歌詞が印象的な、美しい讃美歌です。その意味は「栄光あれ」というお祈りです。その部分はラテン語で「  Gloria in excelsis Deo 」グローリア・イン・エクセルシス・デオ で、その意味することは「栄光あれ! 一番高いところにおられる神様に」ということです。神は人間の「自由」を考える時に、エッセンシャル、なくてはならないことですね。

 横領と神様は似ています。こう言ったら、真面目人間が多いクリスチャンには怒られちゃうでしょうね。ゴメンナサイね。でも、本当なんですね。どこが似ているのか? と言いますとね、“ 組織やこの世を≪超越≫している ” という点です。横領することも、神様を信頼することも、“ 組織やこの世を≪超越≫している ”点で、同じです。日本のように同調圧力が猛烈な社会ですとね、“ 組織やこの世を≪超越≫している ”ことは、悉く「悪」と見なされます。ですから、横領も神様を信頼することも、「悪」とされがちです。第二次世界大戦に至る過程で、思想秘密警察である特高が、クリスチャンを付け狙い、当時の一般の人も、クリスチャンを目の敵にした訳ですね。

 でもどうでしょう。別に横領してください、と申し上げているんじゃないですね。私が申し上げたいのはね、組織やこの世を≪超越≫して生きることの大切さなんですね。≪超越≫は日頃無意識に囚われている「自分の心の壁」を乗り越えることですし、同時に、組織や世間が、無意識に設けている「常識の壁」を乗り越えることです。すなわち、≪超越≫とは、心と世間が無意識に設けている≪壁を乗り越える自由≫=≪自由≫だということですね。

 映画「紙の月」のラストシーン。市場の奥に消えていく宮沢りえさんの顔が、清々しいと思ったのは、すぐに言葉にできたわけじゃぁないけれども、いま言葉にするとすれば、「自分の心にあった壁や、組織やこの世にある常識という壁を≪超越≫するって、素敵ですよ」ということですね。

 もちろん、この印象自体、私のいつも考えていることを「投影」しているだけなのかもしれませんよね。でもね、東芝や西武学園の事件と、その解決策として久保利英明弁護士が示してくださっている言葉を思い出すとき、理性的に考えても

「自分の心にあった壁や、組織やこの世にある常識という壁を≪超越≫するって、素敵ですよ」

ですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする