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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

光の時

2015-06-11 08:44:28 | アイデンティティの根源

 

 ルターは魂まで自由になれたのでしたから、それまで苦しんでいた便秘や閉尿からも自由になれました。

 Young Man Luther 『青年ルター』p205の第2パラグラフ、下から10行目途中から。

 

 

 

 

 

身体の働きが示す気持ちを私どもが認められるのは、お笑い番組の中か、あるいは、自分が不快に思うことを笑い飛ばすことができる状況でなら、可能でしょうけれども、それを恥に感じてしまうのは、身体が示す気持ちを真面目に認めろと言われるときでしょう。そうなると、身体が示す気持ちは、偉そうに話そうとしますよね。それはまるで、ずっと以前の話みたいにね。しかし、ここでは、ずっと我慢してきた意味が、理性的ではない心の鎧の中で、姿を現します。というのも、、そんな気持ちはありません、ということと一緒になって、私どもが置き去りにしていることは、無意識的には、ウンチとオシッコに関係します。聖パウロは、それまでキリストにとって「ウンコ」と言って捨ててきたことを、輝く光としたのです。

 

 

 

 

 

 抑え込んでした時には、けがれたウンコやおしっこでもね、それを白日の下に出すときには、光 になります。

 

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子どものわがままにどう応ずるかで、天地の差が出ます。

2015-06-11 08:06:50 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 礼拝は民主主義に似ている。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p46の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 第2(肛門と筋肉の)舞台と第3(幼児性と運動の)舞台の大事な礼拝を、(もっと短く)特色付けることにしましょう。第2の舞台で問題になるのは、わがままな悦びが、筋肉系(括約筋も含みます)の働きに伴い、その文化圏の倫理とぴったり合うような行動パターンに、どのようになるかか、ということですし、このことが、子ども自身の意志となる、1人の大人の意志によって、どのように、そうなるのか、ということです。赤ちゃんの礼拝では、注意することと避けることは、親の責任です。しかし、第2、第3の礼拝では、子ども自身が、「自分を監督」するように躾けられなくてはなりません。それは、何ができて、何ができないのか、さらには、何ができることではなくて、何ができないことでもないか、ということに関しての話です。

 

 

 

 

 

 第2、第3の礼拝では、わがままは許されませんから、それが倫理と合うようにするのが課題になりますよね。それは、大人の意志に合うようにすることとも重なります。しかし、それをどのようにそうするのかで、結果は天地の違いが出てくるところに注意が必要です。

 

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遊び相手になることが子どもを肯定しますよ 正しいことより楽しいことを是非

2015-06-11 02:41:46 | エリクソンの発達臨床心理

 

 遊び相手。「遊びのオジサン」のお仕事です。スクールカウンセラーとしては、心理面接や行動観察が本来の業務ですが、それだけでは圧倒的に足りない気分だからです。「気分で仕事をしてはならない」という人もいるでしょう。でも、そういう気分屋の気分ではないんですね。心理面接をしたり、行動観察ほしたり出来る子どもは、ほんの少数でしょ。でも行動観察でクラスに入りますとね、授業に集中できない子が、自分に関心を持ってほしいという子が、自分の気持ちを抑え過ぎている子が、何人も何人も見つかります。それにクラスに入れるクラス自体が、ほんの一部ですし、限られた時間内では、心理課題が見つからない子だっているはずでしょ。感触として申し上げることですが、今の日本の小学生は、少なく見積もっても、その半分が「愛着障害」だと私は感じています。その子たちの心理面接もしたいのですが、物理的に時間が全く足りません。それで遊びが大事になります。

 つい先日も、時間が珍しくあいたものだから、放課後に子どもたちと遊びました。それは、以前母親面接をしていた小学校2年生です。この子は知的な遅れはないのですが、クラスの授業には「ついていけない」ので、今は自立支援学級にいる子です。その子が「遊びのオジサン、遊ぼぉ」というので、一緒に遊びました。砂場でジャンプしたいというので、走り幅跳びをして遊びました。「遊びのオジサン」が手をばちっと叩くと、その子は走り出して、ジャンプ。「じゃぁ、次はオジサンね」。そして、私がジャンプ。そんなことを2・3回やってると、「私もいれて」、「ほくも入れて」と何人かの子どもがやってきます。その子たちが入ると、2年生の子は、スゥーと、その場を離れます。一対一の関係が必要だからです。「ゴメンね」と心の中で言います。

 それで、後から来た子たちも、走り幅跳びを楽しそうにやり出します。「4メートル」「3メートル50センチ」、「4メートル80センチ」…。歩幅で距離を概算して伝えます。子どもたちは距離を伸ばそうとする子もいますけれども、遊び相手をしてもらうことが、愉しいことを一緒に愉しんでもらうことが、実に愉しそうです。子どもは遊びで、足りないものを補うことがよくあります。「愉しいこと」、「遊び相手になってもらうこと」、「愉しいことを、一緒に愉しんでもらうこと」が足りないのだと思います。ここに日本の学校の病理を私は見る訳ですね。

 繰り返し申し上げていることですが、学校はスコレ、教育はエデュカティオ、陽気で楽しい雰囲気で、愉しく面白いことを一緒にやることで、子どもも大人もポテンシャルを引き出しあうのが、本来の学校教育の在り方です。でも、今の日本の学校は、堅苦しい雰囲気で、面白さまで掘り下げぬままに、正しいことを、一方通行で教えていることが多いのじゃぁないかしらね?

 子どもたちの遊び相手になっている遊びのオジサンの寝言だったら、嬉しいですけれどもね…。

 正しいことよりも、愉しいことこそが、眼の前の子どもを肯定するんですがね。

ですから、

 正しいことより、愉しいことを 是非!

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