goo blog サービス終了のお知らせ 

エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

権力が「間違い」を認めない、ウソとゴマカシの恐ろしさ

2014-07-29 12:10:39 | エリクソンの発達臨床心理

 

 


1つの楕円→2つの自己中心の円(円満?):儀式化のまとめ その2

2013-07-29 02:06:44 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 儀式化は、2人の人がやり取りする中で、お互いに価値を認め合うものであり、自分を中心と認めると同時に、他者も中心と認めるやり取りです。儀式化は、2つの中心を持ったやり取りなので、楕円形をしています。この楕円形を成したやり取りがあること自体が、やり取りをする2人がお互いに価値を認め合っていることになりますから、この2人は助け合い補い合うようになります信頼関係に基づいた、平和と安心が生まれます。2人がやり取りをして、助け合い、補い合うからこそ、儀式化は楕円形を描くのです。

 今回は儀式化のまとめの後半です。1つの楕円が分裂して、2つの自己中心の円に分かれる危険が語られます。それは、2人の間にやり取りが失われて、助け合い、補い合いもなくなってしまうからです。バラバラとなって2つの自己中心ができれば、 「どっちが上か」を争う ようになることでしょう。家族の病理~社会病理の始まりです。バラバラになることが、全ての不安・思い煩い(重い患い?)全てのウソと争い(戦争)の始まりだからです


  自己中心と他者中心。この矛盾も両者に対話があれば、統合できます。統合するためには、「人間皆兄弟」などの個人や所属集団を超越する価値が必要です。自己中心と他者中心に対話がなければ、二つの自己中心に分裂しますから、「どっちが上か」を争う争いが必ず生じます。

 丸山眞男教授が戦前の日本の国家権力を対する分析は、国家=神(真善美の究極的価値)と見抜きました。国家がすることは、まるでローマ教皇がすることに間違いはないとする、「教皇無謬説」と同様に、「国家無謬説」をもたらしました。ですから、国家がすること、「天皇の軍隊」がすることにも、間違いはない、ということになります。補給路を確保しない、ノモンハン事件も、インパール作戦も、ガダルカナル作戦も、兵士の生命を紙くず同然と見なした狂気の作戦でした。しかし、これも「無謬」=間違うはずがない、ということになります。これくらいのウソとゴマカシもありません。

 今の日本も、原発事故が起こっても、その解決の道筋さえあいまいなままでしょう。それでいて原発再稼働に動く権力のウソとゴマカシ。「被災地復興」と掛け声は上がるけれども、いまだ多くの人が仮説や地域外で住んでいるというウソとゴマカシ。50年もの間無実の人を監獄に入れておいて平気なウソとゴマカシ。裁判所も、行政が「間違い」との判決を避ける、ウソとゴマカシ。

 このような狂気のウソとゴマカシがなぜ可能になるのか? それは、偶像崇拝の狂気。

  偶像崇拝は、赤ちゃんの時の発達危機、根源的信頼感と根源的不信感の危機は、根源的不信感に傾くとき、そこの母子の関わり、やり取りは、偶像崇拝に繋がります。それは、母親が気分によって、忙しいふりをしたり、聞こえないふりをしたりして、子どもを拒んだり、また気分によっては、自分が子どもの相手をすることにこだわるんですね。これは基本的には、子どもにとっては「相手にされない」経験として、深く深く心に刻ませてしまいます。繰り返し「見捨てられた」経験になります。そうすると、子どもは、日常の細かなルールにこだわるようになったり、狂気じみた空想を強迫的に繰り返したり、「見失ったものを見つける遊び」(イナイ・イナイ・バーとそのバリエーション)を繰り返します。甘ったれと強迫性の人の登場です。

 信頼が足りないんですね。80年前の日本に、信頼が足らなかったように、今の日本にも、信頼が足りません。いいえ、80年前以上に信頼が足りません。ですから、80年前の日本が、自分も他者もウソとゴマカシで欺くような社会で、結果と死してあれだけ多くの人が死に、また、傷ついたように、今の日本も、それ以上に、自分も他者もウソとゴマカシで欺くような社会のなかで、非常に多くの人が死に、また、傷ついているですね。

 私どもに必要なものはいったい何なのか? 皆さんも考えてみてくださいね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自己中人間の愛なき世界

2014-07-29 10:29:45 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 大人とは、母親譲り、父親譲りの良心には別れを告げ、自分で良心を創り出している人なんですね。そういう人は、必ず寛容で朗らかですね。活発でも、物静かでも、必ず、寛容で朗らかです。しかも、直観力、丸山眞男教授がいう「他者感覚」が磨かれていますので、「本物」を見抜く力に優れていますよね。

 昨日の「エーリッヒ・フロムの真」は、以前訳したところでしたね。ごめんなさい。

今日はp56の5行目から。

 

 

 

 

 

 

 自分に対する≪真の関係≫と他者に対する≪真の関係≫が、結びつきのあるものだとすれば、私どもはどうすれば、自己中心を説明することができるのでしょうか?自己中心ですと、他者に対する純粋な関心は、全くないのは、火を見るより明らかです。自己中人間ですと、自分にしか関心がありませんし、自分のためにすべてのものをほしがります。あげることには全く興味を示さないで、貰うことにばかり、関心を示します。外側の世界は、自分がそこから何をいただくのか、という観点から見るばかりで、他者のニーズだとか、他者の尊厳や誠実さなぞには全く関心がありませ。自己中人間は、自分以外は何も見えませんし、すべての人、すべてのものは、自分に役立つか否かという視点から判断しますから、自己中人間は≪真の関係≫を結ぶことなどできません。

 

 

 

 

 

 自己中人間といえば、まれにしかいない「大変ひどい人」のように見えますよね。しかし、今日フロムが述べているのは、もっと身近な人、ごくごく一般人だと考えたほうが良いでしょう。たいていはご自分でも「常識人」、「善良なる市民」と考えている場合がほとんどでしょうね。

 ところが、その「常識人」、「善良な市民」が、実は、自己中人間であるところが、ここのミソですよ。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする