エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

見方 = 関わり方

2013-09-29 02:02:32 | エリクソンの発達臨床心理

 

 上から見る、「上から目線」な物の見方そのものが、1つの関わり方なのですね。その関わり方そのものに、「人間を上下2つに分けるウソ」がばっちり含まれます。それと同時に、その見方、その関わり方には、その見る相手、その関わる相手に対して、非常に否定的な投影を伴います。言葉を換えると、その相手は、這う物・ゴキブリ・自分たちに群がりそうな害虫のイメージが伴います。そして、その見方、その関わり方は、いつも何度でも、仕返し(倍返し)であり、結局は「ぶっ殺す」という破壊的な関わり方になります。また、その見方、関わり方が無言であっても、その態度そのものが、多くの言葉を宿しているのです。そのことを、エリクソンは、ベトナム戦争の最も残虐で、悪名高いソンミ村の虐殺事件を例話に、紹介してくれました。

 そんなはずはない、と感じる人も多分おられると思います。しかし、それは、その真実にまだ気付いておられないだけなのです。

 

 

 

 

 

 そして、実際問題、歴史を通して破滅的な脱儀式化の第一の結果は、子ども達(をぶっ殺すの)は見逃そうという本能的な衝動を失うことです。

 ハーシュが引用した最後の言葉、すなわち、「その人たちは、彼らが何のために死んでいくのか知りませんでしたし、男たちは自分たちが何のために彼らをぶっ殺しているのかを知りませんでした」は、全ての物語を含んでいます。その言葉の一つ一つの意味に注意すれば、それが分かります。

 もちろん、目立つ、忘れることができない事例がありましたが、それは、できる時には相手を見逃し救った場合でした。

 

 

 

 

 

 破滅的な脱儀式化は、ヴィジョンを喪失している状態です。今現在の日本のように、ハッキリした目的が分からなくなっている状況です。そこでは、「人間を上下2つに分けるウソ」しか信じられるものはありません。少しでも「上」になることが、唯一の「救い」です。しかし、その「救い」はいつどこででも、常に相対的です。自分よりも「上」の人が登場してしまえば、簡単に敗れる「救い」なのです。ですから、日常的な生き方の姿勢が、「上」がいれば、それを突き落す戦闘モードでしょう。つまり、日常が「戦争」になるわけです。

 ですから、実弾や地雷がなくても、そこが「戦場」です。日本では毎日1,000人が自殺を試み、100人の人が毎日実際に自死していること、それがアフガン戦争のアメリカ兵の戦死者よりもはるかに多いことが、まさに今の日本が「戦場」であることを物語っています。そこにあるのは「『下』の人間はぶっ殺せ」という関わり方であり、言葉です。

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