弁当日記

ADACHIの行動記録です。 
青年海外協力隊で2006年4月からバングラデシュに2年間住んでました。

バングラデシュのニュース(1975)  40年前のバングラデシュ

2015年08月11日 | バングラデシュのニュース(40年前)
40年前バングラデシュ独立直後を伝える日本での報道です。

40年前の記事をそのまま電子化しています。このため、現在では使えない表現や
異なる地名・表記があります。

■見出し(1975年)
〇苦悩の新体制 バングラデシュ 上
 (朝日新聞 1975年2月20日)
〇苦悩の新体制 バングラデシュ 下
 (朝日新聞 1975年2月21日)
〇言葉と人間 加藤周一
 民族独立、または「バングラ・デッシュ詞華集」の事
 (朝日新聞 1975年4月4日)
〇バングラでクーデター 軍部 ラーマン大統領殺害?
 (朝日新聞 1975年8月15日)
〇親欧米政権が発足、バングラデシュ 国名も「回教共和国」
 (朝日新聞 1975年8月16日)
〇ガンジー政権に打撃 負担増す国境警備 投資の行方にも不安感
 (朝日新聞 1975年8月16日)
〇経済苦境変わらず 前途多難なバングラ新政権 政・軍で侮れぬ親ソ印派
 (朝日新聞 1975年8月17日)
〇政教分離どう処理 バングラデシュ国名いぜん「人民共和国」
 (朝日新聞 1975年8月18日)
〇バングラの悲惨この目で見た 救援の教諭、単身飛ぶ
 クーデターの直前行列の中で争いも
 (朝日新聞 1975年8月19日)
〇政府バングラ 新政権を承認
 (朝日新聞 1975年8月19日)
〇街の表情は平静 バングラデシュ小山田大使に国際電話 空港再開メドたたず
 (朝日新聞 1975年8月20日)
〇主役は青年将校団 軍首脳も寝耳に水 クーデターから1週間のバングラ
 平静な中に ニュースに群がる市民
 (朝日新聞 1975年8月21日)


■苦悩の新体制 バングラデシュ 上
 (朝日新聞 1975年2月20日)

ラーマン・バングラデシュ天統領の地方視察は、ものものしい警戒の中で行われ
た。まる三日間、同大統額に随行して、バングラデシュ南部をかけめぐったが、
人っ子ひとりいない海岸や密杁に行っても、五十メートルぐらい間隔を置いて、
武装した兵士が立っている。
根が大衆政治家のラーマン天統頒はできるだけ民衆に接触しょうと努力していた
が、この大警減の中では、そうままになるものではない。私の同行期間中、一回
も野外演説がなかったし、日程は予定どおりで、大幅にずれこむこともなかった。
サービスといえば、せいぜい手を高々とあげて群衆の歓呼にこたえるぐらいで、
このカリスマ的指導考と民衆の間は、目に見えないカーテンで仕切られている。

屈強の若者が警護の兵土をよく見ると、ベレー帽の色が何種類も違う。赤は陸軍
の憲兵。黒は警察。カーキ色は普通の兵隊か、銃遊持たない民間の警防団。いち
ばん目についたのは緑のベレー。この帽子が要所モがっちり守って、民衆をなか
なか大統領に近づけさせない。白髪組が多い警察などに比べ、緑は屈強の若者ぞ
ろい。規組も正しい。
このラーマン警護の最前線に立っている緑のペレー帽たちをペンガル詔でラクヒ
・バヒニと呼ぶ。

陸、海、空の既存三軍や、警察とはまったく異なる軍事組織で、ラーマン大統額
直轄の"第五軍"だ。彼らの制服には、赤地に黄色の手をあやどり、そのうち一本
の指が天を指すという、いなせなマークが縫いつけてある。ラーマン大統鍍お気
に入りの記章だそうで、ラクヒ・バヒニはラーマン親衛隊であることは間途いな
い。ラーマン大統領の私兵だと悪口をいう人さえいる。
二万五千のラクヒ・バヒニを中心に、四万ちかい既存三軍、数万の警察、それに
やはり内相の配下にあるという国境警備のベンガル・ライフル連隊をあわせると、
バングラデシュ政府はいま十数万の武装兵力を持っている。これは東パキスタン
時代の数倍に達する兵力で、大変な財政負担だが、バングラデシュ政府は新体制
入りしてから、むしろ兵力拡張の方向にあるといってよい。

暴力横行の空気
昨年末の非常事態宣言から一月二十五日のラーマン大統頒就任に至る一連の措置
で、討論、集会、結社の自由を制限したバングラデシュ政府が、いちばん重視し
ているのは、国内の治安維持だ。バングラデシュの社会不安は想像以上で、日本
の援助によるゴラサール肥料工場も破壌され、ジャムナ河畔の日本技術陣による
架驕調査キャンプも襲撃された。公称三千人、非公式六千人の犠牲者を出したと
いうテロを根絶するには、こうした強引な措置をとらねばならぬというのが政府
側の説明だ。
たしかに、新体制後、ストや土地紛争は表面から消えた。極左テロの横綱格だっ
たシクダルという指轟名は射殺された。トーハというリーダーの一派も、最近は
影をひそめている。バングラデシュの共産勢力はラーマン支持の親ソ共産党のほ
か十二以上の極左グルー,フにわかれて反体制的なテロや破壊活動を繰り返して来
たが、統一戦線がなく、新体制前でもそう強固な組織を持っていたわけではない。

問題は、こうした政治的テロと、金銭だけが目的の強窃盗とが入りみだれ、暴力
が白昼、横行している空気であろう。独立戦争の際に民間に渡った武器は、大半
が未回収のままだといわれ、論功行賞にあずからなかった不平分子や、愚連隊く
ずれの反社会分子が簡単に銃をとって、だれでも襲える状況にある。
体融側の問題点が汚職の横行にあることは、ラーマン大統領もはっきり指摘して
いる。貧困と飢餓に加えて行政が未熟の現状では、顔とコネがはばをきかせ、政
府高官や国会議員の出した紙きれ一枚で大もうけできることが多い。ラーマン大
統領を指導者とするアワミ連盟の実体は、主に農村のボスたちによって構成され
ているが、最も汚職の非難をあびているのも、彼らである。ラーマン大統働は汚
職の根絶を叫び、すでにアワミ連盟の幹部二十六人を追放した。知識人の間には、
批判の矢面に立ったアワミ運盟が勢力失墜を恐れ、”国父”ラーマン氏の権威を
利用して反アワミの声を封じこめようとしたのが新体制だとする皮肉な見方も少
なくない。

投書の窓口つくる
これに対し、ラーマン氏は大統領府に投書の窓口を設け、内務次官や警視総監を
補佐官に引き抜いて、じかに情報収集と取り締まりを推進しようとしている。オ
ーストラリアに逃亡した英下院議員ストーンハウスはバンクラデシュの"黒い霧"
と関係があるといわれ、この事件にからんで近く閣僚級の逮捕もうわさされてい
る。
このようにラーマン大続領は親政に意欲十分だが、権力を集中すれば、逆に下僚
が責任を回避し、能率低下の恐れもある。視察先で、観光地の警備や森林の植え
つけまで指示している大統領の姿は、痛々しくさえ見える。まして、目に見えぬ
カーテンの中では、国民の声が本当にラーマン氏の耳まで達するものか、どうか。




■苦悩の新体制 バングラデシュ 下
 (朝日新聞 1975年2月21日)

無数のやせ細った手が前に出され、がい骨のような顔が次々と哀願して来る。悲
しみをたたえたその目も、いったん何かもらえるとわかると、鬼のようにけわし
いものになる。外国人の軍のまわりにほえるような声を出し、奪いあい、つかみ
あう。飢餓線上では、長い髪を乱して、女性の方がすさまじい。警官がこん棒を
ふりかざして、退散させるまで、そのさまはまさに地獄図絵だった。
新体制をとったラーマン大統領が最初に打った強制搭置で、首都ダッカに群がっ
ていたこじき三万七千人、八千家族は、約二十キロ北のトゥンギーに集められて
いる。
約二平方キロの収容所の中には、無数の小屋が立ち、地面にべったりすわったボ
ロきれの老若男女で、足の踏み場もない。井戸はとにかく六十一カ所。キリスト
鍛系の医療センターが一つだけある。

わずかの無償給食
食糧の無償配給は一日一回。台帳に指印を押させて、少量の小麦、ビスケット、
ミルクがひとりずつ手渡される。配給を待つ長い列の中に、不思議にもパンや魚
の物売りが割りこみ、金を持たないはずのこじきたちが買っている。
衛生の管理はやはり悪く、天然痘や赤痢で毎日七、八人が死んで行く。下水や便
所はまだできていない。
トゥンギーの収容所は極端な例だとしても、これはまさにバングラデシュの飢え
を象微している。
昨年の大洪水で国土の四分の三が水浸しになり、稲作の六割を占める夏作がほと
んどやられた。食糧は必要量の一五%、二百五干万トン程度、輸入しなければな
らない。"緑の革命"によって取り入れられた多収穫品種、IRRIをまく冬作は、天
候に恵まれ、豊作だといわれているが、自給はとても灘しい。
国土の大部分は海抜十数メートルのデルタ。本来なら豊かなはすだが、長年の収
奪農業と水害の繰り返しで、稲の十アールあたり収量は日本の三分の一にも満た
ないし、野菜や果物はからっきしできなくなっている。
印パ分離の際にヒンズー教徒の地主が集団でインドに移住したため、土地はこま
かく分割され、農地改革がいったん成功した形だったが、あいつぐ天災、人災で、
最近は田畑を手放ず農民が多く、新たな地主層が形成されようとしている。
かんがい施股の整備はだれもが力説する。だが、国土のほとんどが低地で、ジャ
ムナ・ガンジス両大河川の護岸も十分でない現状では、不可能に近い。上流から
水をひこうとすれば、周囲をかこむ隣国インドとかならず水利権の争いが持ち上
がる。

米の99%はヤミに
包装用のジュートは世界の生産景の八割までこの国で生産し、外貨収入の中心だ
が、化学繊維との競争に敗れ、二十二工場のうち七工場は閉鎖し、残りも大量の
滞貨で四苦八苦だ。
紅茶や砂糖を輸出しようとしても、せまい国土では栽培に限界があり、北部から
出る天然ガスも自国の肥料生産にまわすのが精いっぱい。ベンガル湾の海底石油
に望みをかけ、米国二社、カナダ、日本、ユーゴ、シンガポール各一社に開発参
加で進出を許しているもののこの資源の切り売りで息をつなげるかどうかは、ま
だ遠い将来の問題であろう。
東パキスタン時代、この国の産業を支配していたカラチの財閥は引き揚げ、工場
や銀行は大部分、国有化された。独立後三年の現状では、経験も不足し、管理も
未熟で、どこもうまく行っていない。
米の供出制度もあるにはあるが、収穫の一%程度がそのルートに乗っているだけで、
あとはヤミ市に流れているという。
一昨年、始まった五力年計画も、石油危機や世界的インフレで、たちまちざ折。
七八年の最終目標は八〇年まで繰り延べされた。混乱状態のバングラデシュ経済
を横目で見て、進出の機会をうかがっているのがカルカッタの財閥だという。も
しそうなれば主人公は印パところを変えただけということにもなりかねない。

人ロ抑制も進まず
新体制は巨大人口の抑制と、人材の登用を打ち出している。封建的な社会構造の
中では、これも容易ではあるまい。出生率三%の現状が続けば、七千五百万の人口
が二十三年後には一億五干万、三十毎後には二億三千万になる。
二・八%まで切り下げようとしているが、不妊手術でも強制しないかぎり難しい。
専門家の務用にしても、独立の闘士あがりの政治家と、パキスタン政府から引き
継いだ官僚との間に対立が潜在している現状では、どこまで可能だろうか。
利用可能な免責の八、九割まで、すでに使いつくしている”持たざる国”。必要
な資材の大部分を輸入に仰ぐバングラデシュは、財政のバランスをとるため、毎
年5億ドルの援助が必要だという人もいる。多かれ少なかれ、この国の飢えは今後
も続くだろう。
(ダッカ=林特派員・写真も)



■言葉と人間 加藤周一
 民族独立、または「バングラ・デッシュ詞華集」の事
 (朝日新聞 1975年4月4日)

『バングラ・デッシュ詞華集』(Poemes du Bangla Desh. Prithwindra Mukherje
e訳 Associations, Paris刊,1974)は小冊子である。ベンカル語の詩人二十人ば
かり、主としてその対英独立からバングラ・デッシュ成立までの時期に書かれた
長短の詩を選んで、フランス語に訳している。その訳詩は実に美しい。

ベンカル語は詩人の言葉といわれる。かつてタゴールには英語からの野口米次郎
訳があったが、タゴール以後の詩人をベンカル語から日本語に移すのは、おそら
く日本の若い詩人の今後の仕事であろう。無為にして老いた私の如きは、その言
葉を解せず、わずかに仏訳を通して、おぼろげに詩人の心を察するにすぎない。


バングラ・デッシュの成立は、民族独立運動の第二段である。第一段は、英国の
植民地支配からの独立であった。しかしそのとき、ベンカルは分割され、西はイ
ンドに、東は東パキスタンに属することとなった。その東パキスタンを英国に代
って支配したのが、西パキスタンである。西パキスタンの支配は、行政的・経済
的な面ばかりでなく、文化的な面にも及んだ。その一つが、ウルドゥ語によるベ
ンカル語の圧迫である。かくして西パキスタンからの独立をめさず民族運動のな
かで「ベンカル語は闘争の象徴となり、表現手段となった。」(「バングラ・デッ
シュ詞華果』の訳者の序文)。すでに民族主義の象徴がその言語であるとすれば、
詩人の役割は察するに足りる。
しかし「バングラ・デッシュ詞華集」の詩人は、直接に闘いを唱(うた)わない。
彼らはその国の川と運河、太陽と雲と故郷の町、熱帯の繁みとジャスミンと幾干
の蓮(はす)、恋人と愛と夜の闇(やみ)を晦う。タゴールの人
類や宇宙よりも、そこにはより具体的な、より生々しい、より日常の生活に近い
「イメージ」がある。そこには「祖国」という言葉、「わが日常の言語」「われ
ら名もなき民、われら四千万人」、「バングラ・デッシュ」という呼びかけのあ
らわれることもある。
しかしそういう言葉がみえなくても、ほとんどすべての「イメージ」、ほとんど
すべての句を通して、脅かされ、圧迫された民族の一種の連帯感が読みとれる。
彼らの詩は個人的であると同時に、集団的である。別れざるをえなくて別れてゆ
く途上、「隠された希望のように」竹林に光る蛍(ほたる)を見る「出発」から、
警察に追われる若い社会主義者がひそかに故郷の村を訪ねる「帰郷」まで。そこ
にはほとんど常に、たとえば「中野重治詩集のなかの「夜明け前のさよなら」と
共通した何ものか、いわば日常化した歴史的緊張とてもいうべきものがある。
バングラ・デッシュはわれわれから遠い。いわゆる第三地域の状況は、われわれ
が今まで生きてきた状況から遠く離れている。彼らの民族主義を、したがってま
た彼らの闘いを、われわれが想像することはむずかしいだろう。たとえば、私は
砲火の路上に泣き叫ぶ裸の子供の写真を見て、その光景に日常的に立会うヴィエ
トナムの人々が、そこで何を感じるのかと考える.その感じ方は、たしかにヴィエ
トナムの解放戦線の歴史的な闘いを支えていたにちがいない。しかしその感じカ
の内容が私にわからない。もしそれをいくらかでもわかるようにさせるものがあ
るとすれば、それは必ずや第三地域についての統計資料ではなくて、そこに生き
ている詩人の詩のほかにはないだろう。
パレスティナの詩人の詩が今日の世界でいちばん素晴しい詩だといったときに、
野間宏氏はおそらく正しかった。民族独立運動は、むろん流血を伴う.その得失を
計るかぎり、―あるいはむしろ、それを計り得る状況のなかでは、独立運動はお
こそうとしてもおこらぬにちがいない。しかしもはや得失を計る余地のない状況
というものがあり、まさにその状況をパレスティナの詩人も、バングラ・デッシュ
の詩人も、静かな言葉で証言しているのである。




■バングラでクーデター 軍部 ラーマン大統領殺害?
 (朝日新聞 1975年8月15日)

独立後、間もないバングラデシュで、クーデターが起こった。現地からの情報で
は、軍部と反印、反ソ派によるとの見方が強い。ムジブルラーマン大統領は、在
ダッカ米大使館の情報では自宅軟禁、バングラデシュ放送によると殺害された、
と伝えられる。新大続領には、カンダカル・ムスタク・アーメッド前商業相が就
任したが、今後の対ソ、対印関係が注目される。

【ワシントン十四日1ーロイター】米国務省は十四日夜、「バングラデシュでクー
デターが起きた」との報告を、在ダッカ米大使館から受け取った、と明らかにし
た。
国務省スポークスマンは詳細はまだワシントンに届いていないとしながらも、ク
ーデターはアーメッド前商業相が指導している、と述べた。

【ニューデリー十五日=AP】当地の西側外交筋が十五日明らかにしたところによ
ると、同日午前五時十五分(日本時間同八時十五分)バングラデシュで、軍による
クーデターが発生した。
同筋によると、ムジブル・ラーマン大統領は逮捕され、新大統領にラーマン大統
領の側近だったカンダカル・ムスタク・アーメッド氏が就任した。
なお首都ダッカでは散発的な戦闘が行われているが、クーデター発生二時間後の
主な状況は「おおむね静かである」と報じられている。
当地に入った断片的な情報によると、クーデターは親西欧派の政治勢力と軍部が
起こした模様である。アーメッド民はバングラデシュをインド、ソ連にしっかり
と結びつけようとするラーマン大統領の制作を批判してきたグループに属すると
みられている。
また同氏は七一年の分離独立戦争当時、バングラデシェ臨時政権の外相をつとめ
たが、独立後はより地位の低い閣僚の席しか与えられなかった。その理由として
は、同氏が外相当時、バングラデシュのパキスタンからの分離独立を阻止しよう
とした米国の動きに協力したことがあげられていた。

【ニューデリー十五日=AP】十五日インドで傍受したバングラデシュ放送による
と、同日のクーデターでムシブル・ラーマン大統頒は殺害された。
十五日、バングラデシュ駐在の小山田隆大使から外務省に入った公電によると、
十五日未明、バンログラデシュでクーデターが発生、ヘカンダカル・ムスタク・
アーメッド前商業相が大統領に就任した。これに伴い、戒厳令がしかれ、午前八
時から年後七時までの外出禁止令が出された。ラーマン前大統頒は殺害された模
様である。

与党内にもラーマン批判派
《解説》バングラデシュは、七一年のパキスタンからの独立闘争と印パ戦争のす
え、インドの後押しを受けて独立、ラーマン首相(当時)の率いる与党アワミ連盟
が議会で圧倒的多数を占め、国づくりに努力してきた。しかし、反アワミ連盟派
の武装テロが絶えないため、国内治安は改善されず、慢性的な食糧不足、政府の
行政能力の欠如、汚職腐敗の横行とあいまって、国内は安定しなかった。
このためラーマン氏は七五年一月、憲法を改定して大統領に就任、全権を一手に
掌握して、多党制議会制度を廃棄、アワミ連盟の一党支配体制を固めてきた。「
勝手気ままな民主主義では不十分であり、規律が必要だ」というのがラーマン大
統領の主張で、同大統領はこの変革を"第二の革命"だと強調していた。
こうしたラーマン独裁体制に対しては、印パ戦争でパキスタン軍に協力したグル
ープと、左翼過激派など地下勢力だけでなく、与党内部や知識人の問にも批判が
出始めていた。クーデターは、与党内部を中心とするこうした批判派を背景にし
たものとみられる。
また、同国は独立の経緯からも、インドとソ連への傾斜を深めていたが、この外
交姿勢に対する反感も国内批判派の底流にあったといえよう。



■親欧米政権が発足、バングラデシュ 国名も「回教共和国」
 (朝日新聞 1975年8月16日)

【ニューデリー十五日=大石特派員】十五日、ニューデリー傍受したバングラデ
シュ放送は、「同日午前五時十五分(日本時間同八時十五分)、バングラデシュで
軍部に支持されたクーデターが発生、ムジブル・ラーマン大統鍍は殺害され、カ
ンダカル・ムスタク・アーメド商業相が大統領に就任した」と発表、クーデター
を正式に確認した。また、ダッカのインド大使館からの報告によると、国名は「
バングラデシュ人民共和国」から「バングラデシュ回教共和国」に改めたという。
この親欧米派によるクーデターは、インド、ソ運両国に衝撃を与えることは間違
いなく、国際情勢にも微妙な波紋を広げそうである。

外交関係呼びかけ アーメド新大統領
クーデターを確認する最初のバングラデシュ放送は、バングラデシュ独立の英雄
で、昨年ラーマン氏によって軍を追われたタリム少佐が行った。同少佐は全国民
に平静を訴えた。
クーデター発生三時間後には、アーメド新政権がバングラデシュ放送を通じて声
明を出し、国民の新政府への協力を要請するととともに、軍、警察にも協力を求
めた。また「すべての平和友好国」に対し、新政権との外交関係を樹立するよう
呼びかけた。新大統領はさらに「クーデターは、より大きな国家の利益のために
行われたと述べた。

クーデター発生直後に全土に戒厳令がしかれ、首都ダッカには二十時間の外出禁
止令が出された。しかし、クーデター発生当時に、大統領官邸の方向で散発的な
銃声が聞こえたほかは、町は平静だと伝えられる。ただ、大統領官邸に通じる道
路では、戦車が警戒に当たり、主要な通りを軍がパトロールしている。

【ニューデリー十五日=共同】インドのPTI通僧が十五日午後のバングラデシュ国
営放送の正式発表として伝えるところによると、バングラデシュ国民はラーマン
打倒、軍の権力把握に続々と支持を表明している。バングラデシュ独立の闘士の
集まりである二十万人の団体は同日「ムジブル(ラーマン)は権力を悪用し、腐敗
を許し、民衆に圧力をかけた」と攻撃した。
アーメド氏は同日午後、正式に新大統領に就任したが、三軍、警察は新政府に忠
誠を誓った。軍は今度のクーデターに重要な役割を果たしたが、軍政を敷く動き
はこれまでのところなく、アーメド新政権を盛りたてる姿勢である。ラーマン親
衛隊ロッキー・バヒニの司令官ヌルツ・ザマン准将、最高裁長官A・M・サイエム
氏らラーアマン前大統領に近い要人の消息も不明。
一方、全国で逮捕された"自由の戦士"らの釈放が近く行われるという。

首相も殺害
【ニューデリー十五日=AP】バングラデシュのクーデターで、ラーマン大統領の
ほかマンスール・アリ首相と二人の大統領のおいも殺害されたことが、十五日、
ニューデリーに届いた現地大使館からの報告で明らかになった。
(なお、ロイター電によると、パキスタンの首都イスラマバードの外交筋が入手し
た未確認情載として、ラーマン前大続領の子息二人とオイで農民労働者アワミ連
盟中央執行委員会書記のシェイク・モニ氏も殺害されたという)

在留邦人は無事
十五日夕、バングラデシュ駐在の小山田大使から外務省に入った公電によると、
バングラデシュの首都ダッカ市内は平静で、在留邦人は全員無事の模様である。




■ガンジー政権に打撃 負担増す国境警備 投資の行方にも不安感
 (朝日新聞 1975年8月16日)

【ニューデ=十五日=大石特派員】バングラデシュで起きたクーデターによって、
親インドのラーマン政権が崩壊したことは、その独立を助けていらい緊密な闘係
にあったインドのカンジー政権に深刻な打繋を与えたといえる。両国関係が気ま
ずくなることは間違いなく、それはインド亜大陸、さらには米中ソのからんだ国
際関係にも、微妙な情勢を生み出すことになろう。ガンジー政権が選挙違反問題
で揺れている折でもあり、インド亜大陸をめぐる米中ソの競合関係が続くものと
みられる。

インド亜大陸米中ソ競合続く?

この日は、ちょうど、インドの第二十八回独立記念日にあたり、ガンジー首相は
記念式典に出席して演説したが、隣国の出来事についてはひと言もふれなかった。
わずかに同夜の定時ニュースの最後で、ダッカ放送の内容を伝えただけ。インド
は一九七一年、ラーマ
ン氏の率いる独立戦争を支援して、パキスタンと全面戦争のうえ、ついにバング
ラデシュを"解旗"した。それ以後のインドーバングラデシュ間は「大きな兄と小
さな弟」にたとえられてきた。インドはラーマン政権に対して経済後助などを行
って、戦後の復興を助けてきたが、親インド政根の崩壊は、両国関係に大きな影
響を与えることになろう。

第一に、インドは防衛面で大きな負担増を強いられそうだ。バングラデシェの独
立前、インドは東パキスタンとの国境警備にかなりの軍事費を費やしていた。だ
が、かつての敵国の領士が兄弟国のバングラデシュとして生まれかわったため、
その負担はすっかり軽減された。新政権がどのような外交政策をとるか明らかで
ないが、少なくとも今後はまた国境警備に手が抜けなくなるかもしれない。
経済的な側面からみても、インドの受ける影響は大きい。戦火で荒廃したバング
ラデシュの戦後復興のため、インドはかなりの金を注ぎ込んだ。一方バングラデ
シュの立場からすればインドは独立を助けてくれたものの、その後、同国を経済
的に支配しようとしている、ともみえた。このため同国内の若い世代の間には反
インド感情が高まってきているといわれていた。インドがバングラデシュにつぎ
込んできた投資の行方、こんごの経済協力はどうなるか。
また見逃せないのは、新政権が政体を人民共和国から回教共和国へと改称した点
だ。その点からも、脱宗教を国是とするインドと、回教を再び国教と定めたバン
グラデシュとは、気まずくなるだろう。今後、バングラデシュの新政権はますイ
ンドネシアなど東南アジアの回教と友好関係を結び、さらにアラブ諸国に接近す
るようになれば、アシア・アフリカ外交におけるインドの立場も微妙なものとな
りうる。
こうしたインドとの関係の変化が、ソ連-インド、中国-パキスタンといったイ
ンド亜大陸の国際関係にはねかえってくることは十分考えられる。新大統領のア
ーメド氏は、どちらかといえば親西欧、親米的な立場といわれる。
すでに膨大な援助を行ってきた米国との関係を含め、新政横どソ述や中国との関
係がどうなるかは、こんこのインド亜大陸の情勢にとって、見逃せない点であろ
う。



■経済苦境変わらず 前途多難なバングラ新政権 政・軍で侮れぬ親ソ印派
 (朝日新聞 1975年8月17日)

軍事クーデターで十五日、誕生したバングラデシュのアーメド新政権は、その日
のうちに三軍司令官から忠誠の誓いを受け、十六人からなる文民内閣を任命、十
六日にはパキスタンから承認されるなと、一応順調にすべり出したように見える。
しかし、新政権の前途は必ずしも明るくはなく、政治、経済、軍事面に、不安定
な要素が山積みされている。

昨年二月、ラーマン前大統領は当時の与党「民族アワミ連盟」を除くすべての政
党、政治団体を禁止した。しかし、民族アワミ連盟が同国の単一政党「農民労働
者アワミ連盟」として正式に発足し、中央委員会や中央執行委員会を選出したの
は、六月に入ってからであった。この四カ月の間、ラーマン氏の強権掌握、親ソ
印路線に批判的なアーメド新大統領らと、親ソ印派が激しい主導権争いを演じた
とみられていた。この争いの結果、新しい「アワミ連盟」の執行部の顔ぶれから
親ソ派が大幅に後退し、親欧米派が目立って進出した。親欧米派は、今度のクー
デターで発全に主導権を握ったといえる。
しかし、アワミ運盟所属の国会議員三百七人のうち、三分の一は親ソ印路線をと
り、ラーマン氏の社会主義的経済政策を支持していたといわれ、今でもその政治
勢力はあなどりがたいものがある。昨年十月、経済危機を乗り切るため、欧米、
日本など西側認国との関係強化に心を踊かされ始めていたラーマン氏に抗議して、
蔵相の座から追われたソ連派の重鎮、タジュディン・アーメド氏が、ラーマン氏
の人気低下の推移をじっと見守っていたことは不気味である。
新政権は、ラーマン氏が親ソ印路線に執着したことなどのほか、

独裁的な強権を握ったことを批判していたことからも、近い将来、政治活動の解
禁など、ある程度の”自由化”を迫られよう。そうなった場合、タジュディン・
アーメド氏を中心とした親ソ派が再結束をはかり、ソ連、インド両国の支持のも
とに巻き返しを図ることも十分予想されるからだ。
ソ連支持のバングラデシュ共産党(モニ・シン派)など左翼政党もタジュディン・
アーメド氏らに協力することは目に見えている。
さらに、地下に追われた極左勢力ナクサライトなども活動を再び活発化すること
が十分予想され、政治的安定は必ずしも望めない。バングラデシュの民衆はイン
ドの"植民地支配"的な姿勢に不満を抱いていたことは事実だが、アーメド新大統
領に保守派のイメージが強く、大衆的人気も少ないことも不安材料のひとつだ。

今回のクーデター後、三軍の司令官がアーメド新大統領の就任宣誓式に立ち会い、
それぞれ新政権支持の声明を読み上げた。こうしたことから、正規軍のクーデタ
ーの全面介入と新政権支持が確認されたが、正規軍が全面的に新政権を支持した
としても、三軍の総数は三万人に満たない。これに対し、ラーマン氏の私兵的色
彩の濃かった民兵組織、ラッキ・バヒニは約二万人の兵力を抱え、正規軍に勝る
とも劣らない装備を持っていた。
クーデターで、ラッキ・バヒニの司令官だったヌルス・ザマン氏は解任されたが、
一度権力の味を知ったこの民兵組織が簡単に新政権に従うと見る向きは少ない。

一方、ラーマン失脚の大きな底流となったバングラデシュの経済的苦境は、政権
が変わったからといって、短期間に改善される見込みは薄い。比較的収量が多か
った作年度の食糧生産も千百八十万トンで、目標の千二百五十八万五干トンを下
回った。食糧不足は慢性化し、輸出の大半を占めるジュートの価格は低迷、他方、
食糧や機械類、石油など輸入品の価裕は上昇の一途をたどっている。
今年度の輸出が五億ドルにとどまるのに対し、輸入は十五億ドルにのぼると見込
まれ、十億ドルもの貿易赤字が出そうだ。石油資源を持たない発展途上国として
は、こうした貿易構造を変える妙手は見当たらない。外資不足から、工業生産も、
独立前の水準に達していない。
親欧米的な新政根は、西側諸国への援助増額を要請してくるだろうが、欧米諸国
や日本は、不況から対外援助にしぶくなっている。
それに、米国につぐ援助国だったソ連やインドが、すんなり援助を続けるか、疑
問視する向きが多い。援助総額が一時的に減る恐れも否定できない。新政根が経
済政策の方針すら示していないことは、同国の経済問題があまりにも大きいこと
を物語っているといえよう

印パの出方まず警戒 バングラ周辺各国 息ひそめて見守る

【ジャカルタ十六日=林特派員】十五日のバングラデシュにおけるクーデターと
ラーマン大統領の暗殺は、インド洋周辺諸国に深刻な衝撃と不安を与えている。

マレーシア、シンカポールなどのインド洋沿岸諸国はなお事態を住意深く見守る
態度をとっているが、これは情勢がなお流動的で、軽率な行動をとれば、国際的
なはね返りが大きいという見方からにほかならない。インドネシアはマリク外相
がラーマン大統領の死に衷悼の意を表し、さらに当面、新政権を承認する意思が
ないことを明らかにしている。
インド洋周辺諸国が住目しているのは、新政権が"インド離れ"し、再び「パキス
タンへの接近」を試みないかという点である。
バングラデシュが短兵急に"パキスタン寄り"の姿勢をとる場合、インドが黙視し
ているかどうかー。バングラデシュの独立後、インドはラーマン政権を擁して、
南アジアでずば抜けた優位性を誇っていた。カンジー政権はいま内政の危機から
国内に緊急事態宣言をしき、強権で世論を統一する構えを示している。こうした
力ずくの姿勢が外に向かう場合、どういう形をとるか、不安感を抱く向きが多い。

一方、パキスタンは親インド政権の転覆という有利な政治条件をつかみ、外交的、
軍事的に巻き返しに出てくることが大いに考えられる。インドはソ連との間に"同
盟"に近い友好協力条約を結び、ソ連の膨大な軍事援助を受けているのに対し、パ
キスタンは再開された米武器援助に加えるに、中国の支援も大きい。米、ソ連と
もベンガル湾からペルシャ湾にかけて海軍力を展開し、ディエゴガルシアなどに
基地を建設しているいま、降ってわいたようなバングラデシュの異変によって、
インド洋の波はいよいよ高くなりつつある。



■政教分離どう処理 バングラデシュ国名いぜん「人民共和国」
 (朝日新聞 1975年8月18日)

【ニューデリー十八日=共同】十七日夜のバングラデシュ放送によると、バング
ラデシュの正式国名は一部外電が伝えた「バングラデシュ回教共和国」ではなく、
依然「バングラデシュ人民共和国」であることが明らかになった。

【ニューデリー十八日=大石特派員】十七日のダッカ放送がバングラデシュの国
名を昔通り「人民共和国」と呼んだことに、インド国内では深い関心が払われて
いる。クーデター直後、新政権は国名をパキスタンと同じ「回教共和国」に改称
したと伝えられ、これは国教を再び東パキスタン時代の回教に定めたものと解釈
された。
ニューデリーの観測筋は、バングラデシュの新政樒が七一年の独立以来、ラーマ
ン政権の堅持してきた政教分離の原則をとう取り扱うか注目している。今後、そ
の処理を誤ると、回教徒とヒンズー教徒の抗争が燃えあがり、少数派のヒンズー
教徒は不侵にかられ、難民となってインドの西ベンガル州に流れ込む恐れも否定
できない―と、同筋は真剣に憂慮している。
バングラデシュの人口は、七四年末の推計で約七千六百万。どのアラブ回教国よ
りも入口が多く、回教圏全体では、インドネシアに次ぐ人口を誇っている。同国
の人口の八五%が回教徒で、残りがヒンズー教徒、キリスト教徒、仏教徒など。
隣国のインドは七一年、パキスタンと一戦を交えて、バングラデシュの"解放"に
カを貸し、独立.達成後は戦災復興のために、経済援助の手をさしのべてきた。も
ちろん、インドは政教分離主義をとっているが、インドの経済進出は回教徒の目
には、ヒンズー教の進出と映ったようだ。独立後、すでに四年たち、戦争の記憶
がうすらぐにつれて、バングラデシュ国内のナショナリズムはインドの影響力の
大きさに対して反感を抱くようになり、それは回教と結びついてホコ先を少数派
のヒンズー教徒に向けがちだという。
バングラデシュの新政権が国内のヒンズー教徒を遺害することはまずありえない
としても、クーデター後の政情が安足しなけれは、何かのはずみに、民衆の間の
反ヒンズー感情が爆発しないとは限らす、もしそうなれば、ヒンズー教徒はパニ
ックに陥ってインド目指して逃けるだろうと同筋は指摘している。
インドはバングラデシュ独立の際に、大量の戦争難民の流入に悩まされた苦い経
験を持っている。
今後もし難民が押し寄せるようになれば、インドは新たな財政不安を背負い、た
だでさえも失業問題に習しんでいる西ベンガル州に、新しい社会閤題を引き起こ
すだろう。



■バングラの悲惨この目で見た 救援の教諭、単身飛ぶ
 クーデターの直前行列の中で争いも
 (朝日新聞 1975年8月19日)

電子工学が専門の高校教諭が、バングラデシュ救援を思い立った。新聞の投書欄
を通じて呼びかけると、全国から四トントラック一台分の援助物資が集まった。
物資を届けるため、この夏休みを利用して、ひとりで現地に飛んでみた。帰国後
にクーデターの突発を知ったこの先生は、あらためて難民の悲惨さに思いをはせ
ずにはいられない。
埼玉県和光宿新倉一ノニ五ノニニ、県立川越工高教諭、伊藤瑛二さん(四六)は、
初めからバングラ救援を考えたわけではない。ドル・ショック、石油危機、東南
アジアの反日運動と続くなかで、何かをしないではいれなかった。
「これからの日本はアジアと友好を深める必要がある」と、四十八年、自宅に「
アジア・アフリカ友好協会」を設立した。
アジアの資料をそろえるうち、バングラデシュが最も悲惨であることを知った。
戦乱による復興が進まないのに、洪水や干ばつがひんびんと起きる。「友好」の
つもりが、いつの間にか「救援」になった。昨年十二月、朝日新聞声欄を通じて
「義援金、食科、衣服などを贈ろう」と呼びかけた。
全国から二百八件、百五十八万円のお金と百五十二件、五千二百点の衣類、十七
キロの粉ミルクが集まった。品物は段ボール箱に百六十箱、四ノトラック一台分
もあり、自宅の二階が物置のようになった。六月、それらを横浜港から貨物船で
バングラ赤十字本社へ送った。
伊藤さん自身も七月末、一人で首都タッカへ飛んだ。「救援品が被災民に届かな
い」という語を耳にして、心配になったからだ。義捐金で五百人分のサリー、米
二・七五トンを買った。同三十日からダッカ郊外にあるトンギ、デムラ、ミルプ
ールの難民キャンプを訪れた。
道ばたに、餓えのため倒れた婦人がいた。伊藤さんには、持っていたなにがしか
のお金を渡すことしかできなかった。外人と見れば人びとは物ごいにやってくる。
大人も例外ではない。粗末な衣服に驚かされた。サリーが配られる間、行列の中
ではけんかが起きた。
赤十字社が管理するキャンプは、敷地内がいくつかの区域に分けてある。物資の
絶対数が足りないので、決められた区域の人にしか配られない。指定外の地区か
らきて品物を受け取った難民は、たちまちみんなに取り上けられた。
しゃがみ込んで、動こうとしない姿が頭から去りそうにない。
クーデターにはさいわい、遭遇しなかった。今月初め帰国して、日本の平和さ、
豊かさが身にしみた。
「言葉が通じないし、全く一人でどこまでやれるか不安でしたが、少しは難民の
力になれたと思う。協力してくれたみなさんのおかげです。クーデターが起きて
も、赤十字杜に影響はないでしょう。でも、政情が不安足な聞は品物を送るのは
むずかしい。当面は義援金にしぼって活動を続けたい」。こう話しながら、伊藤
さんは、重苦しかった夏休みをふりかえった。



■政府バングラ 新政権を承認
 (朝日新聞 1975年8月19日)

政府は十八日、クーデターにより実権を握ったバングラデシュのアーメド新政権
の承認を決めた。
海部官房副長官が同日夕の記者会見で明らかにしたもので、現地の小山田大使か
ら外務省に入った報告によると、新政権のもとで法と秩序は十分に保たれており、
国連憲章を尊重し国際約束を守ると言明している。



■街の表情は平静 バングラデシュ小山田大使に国際電話 空港再開メドたたず

 (朝日新聞 1975年8月20日)

クーデターによって、新政権が誕生したバングラデシュの首都ダッカは、十五日
のクーデター以後、外部との通信は途絶えていたが、十九日電話による通話が回
復した。小山田駐バングラデシェ大使は同日午後、朝日新聞社の国際電話に対し
「在留邦人は全員無事。街は平静でなんら通常と変わりはない」とダッカの表情
を次のように伝えた。
ダッカは学校も再開され、商店もいつものように店を開けている。ただ午後十時
から午前五時まで夜間外出禁止令が出ている。地方はまったく自由のようだ。国
名の改称が伝えられていたそうだが、当地では従来通りの「バングラデシュ入民
共和国」が使われている。
在留邦入は自由に往来し、買い物、食事もいままで通りだ。ただ、二十人ほど短
期出張で来ている人たちが仕事が終わっても空港が閉鎖されているので、帰国の
メドがつかず困っている。空港再開はいつになるかいまのところわからない。新
聞は十六日から再刊されているが、十九日の新聞は、英国と日本の新政府承認を
大きく報じていた。インド国境閉鎖については当地では情報はない。

報道用電話も復活
クーデターの起きたバングラデシュと日本との間の通信は、いつたん途絶えたあ
と、政府業務用など一部が十七日、復活しただけだったが、十九日午後、ダッカ
の電気通信当局から、東京の国際電電に入った連絡によると、日本時間同日午後
四時から、報道関係用の電話も交信を許可するという。



■主役は青年将校団 軍首脳も寝耳に水 クーデターから1週間のバングラ
 平静な中に ニュースに群がる市民
 (朝日新聞 1975年8月21日)

【ダッカニ十日=共同】突然の「国父」暗殺というバングラデシュのクーデター
から、二十日でちょうど六日目。新政掴はこの日初めて国際航空路線を開き、イ
ンドのカルカッタから外人記者団約四十人が首都ダッカに入ったが、街は意外に
平静で、大統領私邸など市内数カ所で軍隊の動きがみられるだけだった。

市内のダルマンディー高級住宅地にあるラーマン前大統額が殺された大統領私邸、
インターコンチネンタル・ホテルなどには、なお戦軍が常駐して警戒に当たって
いるが、市民は突然の敬変に戸惑いながらも、平静に事態の変化を受け入れてい
るようである。しかし、バングラデシュ放送をトランジスタラジオで聞く人の周
りにはすぐ人だかりができ、市民たちはまだ完全に新政権が安定するのかどうか、
判断に迷っているようだった。
二十日のバングラデシュの各新聞は市民生活が落ち着きを取り戻し、物価も一部
で値下がりを始めた、と報じた。
現地に入って判明したのは、今度のクーデターが完全に"ヤンダ・タークス"(青年
将校団)の決起によって行われたことである。
十五日午前五時半ごろ、軍青年将校に指揮された約二百人の部隊が、ラーマン前
大統領私邸とラーマン大統領直属の治安部隊ラッキ・バヒニの本部がある大統領
官邸地区、それにラッキ・バヒニの駐とん地があるダッカ北西のサバルからの道
路を制する三地点に展開、ラーマン大統領とその家族は寝込みを拠われて全員が
射殺された。なかでもラーマン大統領のおいシェイク・モニ中央委員会書記は、
軍将校からその横暴を最も憎まれていたとみられ、射殺後、路上に遺体がほうり
出されたという。
この後、青年将校の首謀者の一人、ダリム少佐は放送に出て、軍の政権掌握とラ
ーマン氏の死亡を国民に伝えるとともに、寝耳に水の陸、海、空三軍司令官に対
し、ラーマン氏が死んだ似上、軍が政権を掌握すべきであると説得、同時にアー
メド氏を新大続領に就任させた。
アーメド大統領が青年将校団の決起を事前に知っていたかどうかは、なお朗らか
ではないが、ダッカの外交筋は、同大統領が国民に訴えた午前九時の演説が三十
秒程度で、軍の声明に比べて非常に短かった点から、むしろクーデターでラーマ
ン大統領が死亡したことを知って、やむなく新大統領としての役を買ってでたも
のとみる。

豪など四ヵ国承認
【シドニー支局二十日】ウィルシー・オーストラリア外相は二十日の議会で、ク
ーデターで大統領が交代したバングラデシュについての質問に答え「バングラデ
シュ駐在のオーストラリア高等弁務官に対し新政欄を承認するよう指示する」と
述べた。
バングラデシェ新政府に対する各国の承認が二十日、相つぎ、オーストラリアの
ほかイラン、マレーシア、ネパールの三力国がその意向を明らかにした。

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