弁当日記

ADACHIの行動記録です。 
青年海外協力隊で2006年4月からバングラデシュに2年間住んでました。

バングラデシュのニュース(1974)  40年前のバングラデシュ

2014年08月03日 | バングラデシュのニュース(40年前)
40年前の記事を電子化しています。
40年前のバングラデシュ独立後を伝える日本での報道です。
このため、現在では使えない表現や異なる地名・表記があります。


■見出し(1974年)
◯[サンデー・インタビュー]24日、バングラデシュに出発する永野重雄氏
 (読売新聞 1974年01月20日)
◯バングラ国連加盟4月にも
 (読売新聞 1974年02月23日)
◯[いびつな地球]「世界人口年」に考える=11 バングラデシュの天災
 (読売新聞 1974年08月16日)
◯洪水バングラ救援を 収穫全滅、伝染病追い打ち
 (読売新聞 1974年08月29日)
◯バングラは飢えている 空腹、歩けぬ子ら 惨状訴える日本青年救援委
 (読売新聞 1974年09月17日)
◯バングラに米とミルクを 全日本婦人連合会 全国の主婦へ呼びかけ
 (読売新聞 1974年10月01日)
◯国難さ中、約束忘れず バングラのラーマン首相から 民族楽器届く
 (読売新聞 1974年10月04日)


■[サンデー・インタビュー]24日、バングラデシュに出発する永野重雄氏
 (読売新聞 1974年01月20日)

―バングラデシュ行きは初めてですか。
「ええ、インドにはたびたび行ってるんですがね。ぼくだけじゃなく、日本にとって
も近くて遠い国だったんじゃないのかな。それなのに、バングラデシュの人たちは日
本にとても親近感を持っているようですね。国旗にしても日の丸の白地に赤を、緑と
赤に変えただけだしね。カラー写真ならはっきり区別がつくが、白黒だと全く同じに
見えますね。」

―使節団派迎のきっかけは?
「昨年十月、ラーマン首相が来日したとき、田申首相との話し合いで決まったんです
よ。それ似前にも使節団をよこしてくれという要謂はたびたびあつ,たんですがね。な
にしろ、バングラデシュは独立してまだ二年。これから本格的に国づくりと取り組も
うとしているところ。先達の日本の力を備りたい、ということでしょうね」

―ねらいは?
「先ほどもいったように、バングラデシュは日本にとって未知に近い国。それだけに
過去の日本の悪いイメージがまったくない。日太の経済協力とは、どういうものかを
白紙に書き込んでいく状態。日本の政府、企業が、本当のバングラデシュ国民のため
に協力したかどうかが、色眼鏡を通さずにストレートに結果が出る。その意味からも、
日本の新しい経済協力のモデル・ケースにしたいわけで、使節団はその第一歩という
ことかな」

―具体的なプロジェク下はまだない?

「バングラデシュは国民一人当たりのGNP(国民総生産)が年間六十―七十ドルという数
字が示しているように豊かじゃない。しかも、産業といえぱ農水産業中心で、工業は
まだまだ。経済発展の基盤作りのために、日本はどのように力をお貸ししたらよいか、
具体的なプロジェクトをどうのこうのいう前に、まず全体のプランニングを考えてみ
よう、というのが最大の目的ですね」

―田中首相は、パングラデシュに九十億円相当の商品援助を約束していますが。
「そう。商品といっても、いらたい何があちらにとって一番望ましいのか。具体的な
品目を聞き出し、日本政府との橋渡しをするのも使節団の役目ですね。それに、橋梁
を作ってくれないかという声もよく聞くので、調べてみたい」

―石油、天然ガスの開発問題は?
「天然ガスはすでに出ているようだし、石油の埋蔵量もかなりあるという話ですね。
バングラデシュ政府だけでは技術的にも資金的にもむずかしいと思うので、探鉱、開
発面で協力を求められることになるでしょうね」

―インドネシアはじめ、東南アジア各国で日本の続済協力に強い非難がでていますが。

「左手で与えて右手で取る、とか、鉄砲を円に変えた、とか評判は確かに悪いですね。
これには戦後、日本としても、いわば、なりふり構わずかせがなければならなかった
事情もありますがね。しかし、これからはもう許されない。発展途上国の人たちの幸
福とは何かを考え、実現のために協力していくということでなければダメだと思いま
すね」



■バングラ国連加盟4月にも
 (読売新聞 1974年02月23日)

バングラ承認米英ソが歓迎表明

【ワシントンニ十二日=ロイター共同】
米国務省スポークスマンは二十二日、パキスタンがバングラデシュを承認したことに
ついて歓迎の意を表明するとともに「米国はこの承認が南アジアの安定と調和を保障
する動きへのきっかけとなることを望んでいる」と述べた。
【モスクワニ十二日=タス時事】
二十二日のタス通信は、パキスタンのバングラデシュ承認について「これは一九七一
年十二月の戦争(印パ戦争)の結果、インド亜大陸諸国が直面した懸案の最終的解決を
はかるための実際的条件を作り出す上で重要な一歩とみなされている」と述べた。

【ロンドツニ十二日=ロイター共同】
英外務省および英連邦事務局スポークスマンは二十二日、パキスタンののバングラデ
シュ承認を「非常に力づけられる動きだ」と歓迎する意向を表明した。パキスタンは
七二年、英国がバングラデシュを承認したのち英連邦を脱退している。

日本政府も歓迎談話
パキスタン政府によるバングラデシュ承認について、政府は二十三日、一九七一年の
バングラデシュ独立後、行き詰まっていた両国関係の正常化を意味するものとし「イ
ンド亜大陸における平和と安定の増進に大きく寄与するものとして歓迎する」という
外協省情文局長談話を発表した。

バングラ国連加盟4月にも
【ニューヨークニ十二日=ロイター、AP共同】
国連外交観測所は二十二日、パキスタンがバングラデシュの国連加盟は安保理事会の
承認を得た上で、早ければ四月九日から開かれる国連特別総会で認められよう、との
見通しを明らかにした。バングラデシュは七一年の独立後、二度にわたり国連加盟を
申請していたが、印パ戦争中パキスタンを援助した中国が安保理事会で拒否権を発動
したため実現しなかった。今回のバキスクンによる承認で、中国がバングラデシュ加
盟に反対する理由がなくなった。



■[いびつな地球]「世界人口年」に考える=11 バングラデシュの天災(連載)
 (読売新聞 1974年08月16日)

国土の60%が水面下
「何人の肉親へ、知人をいままでに失ったことかゆここは地獄だ―」。野良の泥道を
半ば放心したように、とぼとぼと歩く年老いた農夫が、うめくようにつぶやいた。
バングラデシュ、ダッカ南方百キロ、ガンジス河口のノアカリ。さる七〇年末のサイ
クロン(インド洋の台風)で、史上最悪の大被害を出した"魔の地帯"だ。

「今思い出してもゾッとする。何しろ高さ四、五メートルの高波がドッと襲ってきた
のだから、手も足も出なかった。この地区の数か村だけで、死省は千人を超え忙。ノ
アカリ全域では十万人が死んだでしょう」と、ノアカリ第六地区評議会議長のウレマ
さんは当時のことをこう回顧する。
「一夜明けて水がひくと、見渡す限り死体がちらばっていた。炎天下、死体はたちま
ち腐敗し、死臭は島をおおった。空には無数のハゲダカが舞い、まさに地獄図を思わ
せる悲惨さだった」という。
ガンジス、ブラマプトラ両大河の大デルタが国土の大部分を占めるバングラテシュは、
上流に世界有数の多雨地帯アッサムを控え、毎年のように洪水で水びたしとなる。今
年も、七月以来の"今世紀で最悪"といわれる両川の大はんらんで、国土の実に六〇%が
数メートルの水面下に沈んでしまった。鉄道も道路もズタズタに寸断され、機能は完
全にマヒしている。国土の多くが海面スレスレの"ゼロ・メートル地帯"というバング
ラデシュ。洪水による物的被害は軽く六億ドルを超え、これまでにわかった死者は二
千数百人に達している。しかし、これはまだ"序の口"だ。水はいぜん引かず、全国で
コレラなどの悪性伝染病が多発している。その猛威は、日ごとに畿何級数的に広がっ
ていく。
洪水の"直撃"は、夏作の穀物をほとんど壊滅させてしまった。孤立した数千、数万の
村々では、人々は絶望的に、木の葉や草の根で飢えをしのいでいる。すさまじい死の
大飢きんが、いまこの国を磁実に襲おうとしている。政府も、何にどう手をつけてよ
いのか、ぼう然自失のありさまで、世界の援助の手を待っている。

人口問題は"時限爆弾″

恐るべき「天災」と並んで、人口抑制はこの国の「もう一つの緊急課題」だ。北海道
のほぼ二倍の狭い国土に(七千五百万人がひしめいているのだから―。
「人口問題は.時限爆弾だ」(イッテファク紙)と危機感が高まり、政府も家族計画に本
腰を入れ始めた。しかし、貧しい農民は、回教に救いを求め、避妊や妊娠中絶など、
まるで受け入れようとしない。無知と迷信がそれに輪をかける。『貧しさと宗教と子
だくさん』の組み合わせは、インドの農村と全く同じパターンだ。
この国では、総人口の六五%を占める貧農の所有地は、全耕地面積のわずか三〇%にす
ぎない。耕地はすでに「飽和状態」なのに、毎年二百万人が増え続ける。
人口増はイコール"土地なし貧農"の急増だ。例えば、ノアカリ地区三百万人のうち三、
四割は恒常的失業状態にある。三度の食事を満足にとれるものは一割にも満たない。
都市に出ようにも、その都市も失業者が群をなしている。行き場がないから、デルタ
の浅瀬が少しでも陸地になれば、人が住みつく。洪水があれば流れが変わり、島の形
が変わってしまうようなところでも、背に腹は替えちれない。70年のサイクロンの際、
ノアカリ地区沖合のハチア島やボーラ島など、こうした島々は全島高波の下に沈み、
住民は全減したのだった。
内陸部でも事情は同じだ。網の目のようにのたうちまわり、雨期には水位が数メート
ルも高くなる大小河川に囲まれて、人々はあふれている。ひとだび大自然が暴れ出せ
ば、たちまち多数の死者を出し、疫病のまんえんと食糧不足をく。貧しい土地にへば
りつく農民と、ケタはずれの自然の脅威。
七一年印パ戦争に続く独立で、バングラデシュは西の支配を脱する"民族の悲願"を達
成した。しかし、大ガンジス川は、来年も再・来年も(また暴れるだろう。そして人々
のいう「ソナール・バングラ(黄金のベンガル)」の"受難難の日々"は続くのだ。



■洪水バングラ救援を 収穫全滅、伝染病追い打ち
 (読売新聞 1974年08月29日)

◆死者二千五百人を突破
「バングラデシュに食糧と医療品を!」二か月間にわたる空前の大洪水に見舞われ、ど
うするすべもなく、ただぼう然とたたずむ国民に代わってラーマン首相はいま全世界
に対し必死で、こう訴えている。三百万人の国民を失った戦争の傷跡もようやくいえ、
やっと国家建設に着手したばかりだというのに昨年の暮れの石油危機に続く今回の大
洪水。数百万戸の家が流され、死者すでに二千五百人を裂破した。全土の三分の二を
覆った洪水の水かさは徐々に減ってきてはいるが、食糧不足と伝染病のまん延から数
百万の死者が出る恐れが出ている。「外国援助を待つ以外に救済の道はない」と同首
相は恥も外聞もなく、全世界の支援を求めている。

今回、洪水が始まったのは去る六月末。同国内にはインド北部のヒマラヤの水を集め
て下るガンジス川と、同じヒマラヤの中国側をう回、世界最多雨地帯アッサムの雨を
運んでガンジスに合流するブラマブトラ川があるが、今年は異常降雨のせいで、この
二大河川の水量が急増、わずか一か月余に全土を交錯する全支流をはんらんさせ、去
る二日には首都ダッカも半分が水浸しとなった。
この大洪水のためちょうど収穫期を迎えていた今年二回目の稲(二百万トン)はほぼ全
滅。洪氷が二か月続いたことで年産の六五%(七百万トン)を占める三回目の稲の田植え
ができず、十二月の収穫 についてはほとんど期待することができない状態だ。推定
被害総額二百九十億タカ(一兆一千六百億円)に達する。特に被轡のひどい地区はノア
カリ、ミメンシング、シルエット、チッタゴン、ダッカなど。

◆食糧不足で物価暴騰
水面下に沈んだわが家の屋根の上とか、竹やバナナの木のいかだを組んでの水上生活
で餓死寸前の民衆が百万人以上といわれる。都市でも食糧不足で、諸物価が暴騰、洪
水前には一モーント(三十五キログラム)百五十タカだった米が八月に入り、三百タカ
前後にはね上がり、所得のない下層の人たちはとてもロにすることはできない。飲料
水もなくなっている。悪化する衛生状態の中で、全国の十県でコレラ、チフスなどの
集団発生報告が伝えられている。
ラーマン首相は、去る 十八日夜、ラジオの全国放送でこの苦難を切りぬけるため~国
民に一致団結を呼びかけるとともに諸外国に対し早急な援助を求めた。
バングラデシュが洪水に見舞われれることは何も今年に限ったことではないが、これ
はガンジス、ブラマブトラの二大河川を制するダムが一つもないということによる。
しかも全土を通Uて千メートル以上の山がないと言われるほど国土の大半が低地である。
雨が降ればはんらんするのは火を見るより明らかだ。洪水防止にはインド側の協力を
えて二河川の上流のあるインド国内にダムを建設する以外に道はない。だが、これに
は四十億ドル以上という膨大な予算がかかる。平常時の食料さえ、満足に賄い切れな
い同国には手も足も出ない。ただ、ラーマン首相にできることは、飢えと病気におの
のく国民のため少しでも多くの外国援助を取りつけることと言えるが、これまでのと
ころ同首相が求めた三億一千七百万ドルの外国援助に対し、援助の申し出のあったの
は、米国の四百万がを筆頭に英国、東独、スイス、WHO(世界保健機関)などから計千
五百万がに過きない。

◆皆無に近い個人の援助
わが国も日本赤十字が綿布二万メートル(三百万円柑当)を送付したのに続き、政府が
去る十六日の閣議で二億円の援助を決めた。また去る二十目にはラーマン首相の呼び
かけにこたえ、パキスタン政府が"旧同胞"のため一万八千トンの米を送ることを決め
たが、救助を待つ数百万のバングラデシュ国民に十分な援助を届けるまでにはとても
ゆかない。日本からの援助の窓口になっている日添では「今回の洪水は空前の大洪水
なのに、その被害状態が知られていないためか、個人からの援助申し込みは皆無に近
い。一銭でも多くの援助を贈りたいので、ぜひ国民の援助をお願いしたい」と呼びか
けている。

折から全世界が史上初めて人口問題を討議ずる世界人口会議がブカレストで開催され
ている。子ども二人で制止人口を維持、人類の将来を心配するのは結構。だが、現実
に苦悩する同胞を救えないで、何が人類愛、何が人口問題と言えるだろうか―。
なお、東京のバングラデシュ大使館では、東京銀行赤坂支店に「バングラデシュ救済
基金口座」を開設、援助を求めている。



■バングラは飢えている 空腹、歩けぬ子ら 惨状訴える日本青年救援委
 (読売新聞 1974年09月17日)

バングラテシュは、いぜん飢え続けている。五日間もロに入
れるものがなく、寝転がって空腹をしのいでいる者。栄養失調
で二歳になっても歩けない幼児―現地で救援舌動を続けてい
る「ヘルプ・バングラデシュ委員会」〈東京都渋谷区代々木神
園町、オリンピック記念青少年総合センター4号棟)のメンパーの一人が、このほど帰
国して、惨状を訴えている。

同委員会は、一昨年、若者を中心につくられた民間組織で、募金活動などで資金を得
ながら現地にボランティアを送り込んでいるが、資金はもとより、食糧、医薬品、機
動力とすべてが不足し、十分に活動できないことを残念がっている。
十二日夜、帰顧した吉村繁さん(二十二)(大阪芸大写真科)は、さる七月二十六日、
現地入りした。国土の三分の二をのみ込んだ大洪水は、いぜん陸地を覆い「陸と川と
海の区別がつかなかった』という。

小麦粉、湯ですする
現地には、吾妻博勝委員長(二十六)、吉村さんら九人のメンバーが入った。七月十五
日には、ダッカ市内に、救援活動の基地にするため「日本青年活動奉仕センター」を
設けた。臨ちに国内を見て回ったが、道路は寸断され、船が欠くことのできない足。

たとえぱ、マニガンジ・ボイラ地区。ダッカから六十五キロバスで北上、、小型ラン
チで一時間半川を上り、さらにボートで三十分。人口は一万二千人。土地は冠水し、
仕事もほとんどない。士地を売り、家を抵当に借金したりしてしのいではいるが、住
氏の三割はその日の食物にもこと欠いている。
この二か月間に、数回ビスケット、小麦粉などの救援物資が配給された。だが、1回
分が1日分にも満たず"小炭粉を湯でといて、すすっているような状態。
物価の個上がりもひどい。独立前一シェア(約九百グラム)一タカ(四十五円)だった米
が、五タカになった。大の男が早朝から夜まで労働しての報酬が六―十タカ。まだ現
地にとどまっている吾妻委員長は「五日もメシを食っていない人が、今にも死にそう
になって寝転んでいる。救援物質も村までは届かず、末端組織の貧弱さは、目に余る。
外国からのボランティアも、物資があっても届ける方法を知らない」と、報告してき
た。

食糧かき集め奔走
もともと同委員会は、金、物資を送ればそれで終わりの従来の救援活動に疑問を抱い
てつくられた。会員は九十余人。「実際に現地に入り、土地の人と生活を共にして、
長期的、持続的な活動を展開したい」――今度が三回目という同委員長らのモットー。

しかし、今は、緊急事態。生きることは飢えること、という今の悲惨な生活を救うた
めに、現地で食糧や医薬品をかき集めている。同時に、配給などを公平、スムーズに
行うため、現地の青年と話し合って、自治組織「十二人委員会」を発足させた。また、
東京の出版会社を辞めて八月に入った池上綾子さん(二六)は、婦人にも現金収入 の
心を開くため、特産のジュート(麻)を使った手工芸品の授産所、協同組合をつくろう
と奔走している。

カと金が足りない!
だが、これにも、活動センターの運営にも・まず資金がいる。留守部隊が、毎日曜日、
東京・新宿の歩行者天国で募金活動したり・有志からの募金で、百数十万円は集めた
が、すぐに底をつく額だ。水が引いた後は、コレラ、腸チフスなど伝染病がひかえて
いる。医師や看護婦の手助け、機動力にジープも欲しい。留守部隊が歩き回って、協
力を呼びかけているが、見通しは暗い。



■バングラに米とミルクを 全日本婦人連合会 全国の主婦へ呼びかけ
 (読売新聞 1974年10月01日)

昨年、ことしと続いた火洪水でへ飢えと疫病にあえぐバングラデシュ。生と死のふち
をさまよう難民救済のにめに、日本からも続々と救援物資が送られ、民間組織による
若いボランティアが現地で活動を続けている。ところが、戒律の厳しい回教国・バン
グラと日本の生活様式の違いから、救援物資の中にはまったく役に立たないものもあ
り、せっかくの善意もムダになっている。また、物資を難民人に配る現地の末端組織
がまったく確立しておらず、貧困のどん底にいる小村の老人や子供にまで救授の手が
差しのべられていない。「難民が一番ほしがっているのは米と粉ミルクです!」―青年
海外協力隊(外務省の外郭団体)員であるご主人とともに現地で救援活動に尽力してい
る伊藤まり子さん(二七)は、このほど母親の全日本婦人連合会副会長・国米澄江さん
にこう訴えてきた。このため同連合会では「バングラデシュ救援委員会を設け、全国
の主婦に救援運動を呼びかけることになった。

この世とな思えない惨状
まり子さんのご主人の健一さんは、協力隊の隊員八人とともに昨年八月バングラに渡
った。任期は三年。農業技術の交流などが目的だったが、大洪水による惨状を前にし
てはとても仕事どころではなく、難民のために現地で食糧や医薬品集めの救援活動に
当たっている。まり子さんはことし三月、一粒ダネの太ちゃん(一歳)を連れてバング
ラに行った。
バングラに行く前から、難民の悲惨な生活を健一さんの手紙で知らされていたまり子
さんだったが、現地に着いて見た現実は「とてもこの世のものとは思えない」目を覆
いたくなるような惨状だった。飢えとコレラ、赤痢などの疫病。おまけに息がとまり
そうな炎熱。若い人はまだいい。悲惨なのは老人と子供。栄養失調による極度の衰弱。
泣き叫ぶ気力すらももう残っていない。「一方では大型消費にわき、米があり余るほ
どの国があるというのに…」。この現実を母親を通じて日本のいろいろな人に伝えて
もらおう。こうしてバングラの首都ダッカのまり子さんから東京の国米さんに毎週一
回"バングラ定期便"が届けられた。この五月からのことである。

女性にはサリー用の布地を
これまでに届いたニ十通もの手紙の中で、国米さんの注意をひいたのは「日本からも
たくさんの救援物資が送られてきているが、生活様式の違いから、まったく現地では
役立っていないものもある」という一文だった。国米さんが、このほど、まり子さん
に手紙を出して詳しく聞いてみたところでは―。
まず衣服類。男性や子供用の衣服やシャツなどは大変喜ばれているが、女性用のワン
ピースやスカートなどはほとんど使われていない。バングラの女性はすぺてサリーを
着用しているためだ。まり子さんは「女性にはサリー用の布地・(幅九十センチ、丈五
メートルが適当)が必要です」と言っている。またクツも不要だ。ほとんどの人がハダ
シで生活しているからだ。ハイヒールなどは山積みにして放置されているという。
食糧の中では肉類はだめ。もっとも回教国では牛肉は食べるが、それも牛肉とはっき
りわかる時だけで、豚肉とまぎらわしいような場合はいっさい食べない。カン詰めな
ども、牛の絵のラベルがついているものは食べるという。インスタントラーメンもだ
め。第一、食べ方を知らない。

買おうにも品物がない
義損金もそれほど役に立たない。買おうにも品物がない。それに異常なほどの物価高。
主食の米は一日のうちに五割も値上がりするありさま。洪氷でイネがやられ、交通機
間が途絶えて食糧輸送が思うようにできないためだ。米だけでなく、すべてのものが
毎日ニー三割ずつ値上がりしているという。これでは、わずかな現金の配布を受けた
ところで一日で使い果たしてしまう。

牛乳は水のような粗悪品
現地の主婦たちが最も飲しがっているものは乳幼児用の牛乳や粉ミルク。一児の母親
でもあるまり子さんもミルク不足には悩まされている。牛乳は近くのマーケットで少
量ながら売ってはいるが、水同然に簿めてあり、製造月日も記されていない粗悪品で、
とても飲めたものではないと言う。
まり子さんは「私たちはまだお金があるからどうにか生活できます。しかし、日給十
タカ(四百五十円)かそれ以下の収入しかないバングラの一般庶民はどうやって暮らし
ているのでしょう。お金よりもまず食べ物を―」と訴えている。
国米さんはまり子さんからの手紙でバングラの実情を察し、主婦の手で難民を少しで
も救済してあげたいと思い立ち、全日本婦人連合会に救援運動を呼びかけた。同連合
会は、もともと大正十二年九月の関東大震災の被災者たちを救済するために組織され
た団体だけに、この呼びかけに反対する理由などあるはずがない。九月十八日の総会
で救援委員会が設けられ、全国の主婦やボランティアに呼びかけて救援運動を展開す
ることが決まり、街頭での資金活動も始まった。
雨しのぎに重宝なビニール
バングラの難民が最も切望している救援物資は米、小麦粉、砂糖、粉ミルク。衣料は
男子服、シャツ、女性用サリー布。それに医薬品。このほかに意外と喜ばれるのがビ
ニールの袋や布。まり子さんは手紙の中で「難民は家といってもあばら家同然のとこ
ろに住んでいます。雨をしのぐのに小さなビニールでも大変役立つし、屋根ふき用に
も重宝がられます」と言っている。
同連合会では青年海外協力隊や日赤を通じて、救援物資がまとまりしだいバングラに
送ることにしており、全国からの愛の手を待ち望んでいる。



■国難さ中、約束忘れず バングラのラーマン首相から 民族楽器届く
 (読売新聞 1974年10月04日)

今世紀最大といわれる大洪水に襲われ食糧危機にに見舞われているバングラデシュの
ラーマン首相が、日本の民族舞踊の踊り子たちに約束した珍しいバングラ地方の楽器
が三日、届いた。昨年秋、来日した同首相が、歓迎会の席上日本の舞踊学校生徒が披
露しだバングラ地方の民族舞踊に感激、プレゼントを約束していたもの。

ラーマン首相は昨年十月、バングラデシュの独立後初めて来日、日本バングラデシュ
協会などが開いた歓迎会で、東京・御徒町の東京舞踊学校(榊原帰逸校長)の生徒が、
バングラ地方に伝わる民俗舞踊「マニプールダンス」を踊った。このダンスは、くる
くる体を回しながら、丸いスカートをだんだん広げてゆく踊りで、本場のバングラデ
シュでも難しいといわれる踊り。この時同首相は「日本でこんなにすばらしい踊りを
見せてもらえるとは思わなかった」と感激していたという。
そして同首相は、伴奏音楽にテープレコーダが使われているのをみて「われわれの国
は貧乏でなにもプレゼントできないが、民族楽器をプレゼントしたい」と、生徒たち
に約束して、帰国した。しかし、帰国後の同首相を待っていたのは多忙な政務と災害。
インド、パキスタン首脳との会談、総選挙と目の回る忙しさが続き、さる七月には今
世紀最大といわれる洪水がバングラデシュの三分の二を水びたしにしてしまった。洪
水はいまもひかず、国民は食糧難と疫病に悩まされている。
「首相は忙しい身だから、あんな小さな約束はもう忘れただろう」。榊原さんも生徒
たちも、首相からのプレゼントはあきらめてりいた。そんなところへ、駐日バングラ
デシュ大使館に1年ぶりの贈り物が届けられた。大使館員が開けてみると「1年前約
束したプレゼント」と書かれた首相の手紙と、バングラ地方の代表的な民族楽器「ハ
ーモニア」「タンプーラ」各一点と「タブラ」二点が出てきた。ハーモニアはアコー
ディオン式のオルガン、タンプーラは三味線を大きくしたような弦楽器、タブラは太
鼓の一種で、日本には旅行者の持ち帰ったものが数点あるだけという珍しい楽器。
同大使館は、さっそく生徒たちに贈ることにして、三日、代表者の榊原校長夫妻を同
大使館に招いて贈呈式を行った。午前十一時、大使室で、チョードリー大使から楽器
を手渡された榊原さんは感激した表情。大使に教わりながら楽器を一つ一つ弾き、大
使室はにぎやかな笑い声であふれた。榊原さんは「首相の誠意がうれしい。さっそく
持って帰り、こんどは"ナマ"の演奏で、マニプールダンスを練習、ラーマン首相がも
う一度来日した時、さらに上手な踊りをお見せしたい」と話していた。


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