弁当日記

ADACHIの行動記録です。 
青年海外協力隊で2006年4月からバングラデシュに2年間住んでました。

バングラデシュのニュース(1972/01/14~22)

2012年02月29日 | バングラデシュのニュース(40年前)
40年前バングラデシュ独立直後を伝える日本での報道です。
2月21日の記事『ベンガル 本社特派員団報告』の続きです。

40年前の記事をそのまま電子化しています。このため、現在では使えない表現や
異なる地名・表記があります。

■見出し(1972年1月14日~1月22日)
朝日新聞『1972年1月 ベンガル 本社特派員団報告』
〇ベンガル 本社特派員団報告(8)
 ある学生戦士 はっきりと死を予感 国づくりの今姿なし
 1972年1月14日
〇ベンガル 本社特派員団報告(9)
 ビハリ 迫害の宿命負う民族 「西への協力」今や致命傷
 1972年1月15日
〇ベンガル 本社特派員団報告(10)
 覆水盆に・・・ 「東」引止め依然望み 西パ、ラーマン氏に期待
 1972年1月18日
〇ベンガル 本社特派員団報告(11)
 裏切り者? 将来が定まらぬ学生
 1972年1月18日
〇ベンガル 本社特派員団報告(12)
 造反代表部 苦難の中、建国に誇り 承認・援助へのPR行脚
 1972年1月20日
〇ベンガル 本社特派員団報告(13)
 欧州の目 ロンドンに本拠地置く 英の承認に楽観の態度
 1972年1月21日
〇ベンガル 本社特派員団報告(14)
 国づくりの道 外国援助を神頼み 経済再建誤れば学生ら造反必至
 1972年1月22日

■ベンガル 本社特派員団報告(8)
 ある学生戦士 はっきりと死を予感 国づくりの今姿なし
 1972年1月14日

「われわれの多くは、殺されるでしょう。私も恐らくこの目で、祖国の解放をみることは
できないでしょう。だが、それでいいのです。だれかが生残って、バングラデシュをすば
らしい国に築きあげてくれれば、いいのです」
ダッカ郊外のゲリラ基地で会ったムクチ・バヒニ(東ベンガル解放軍)の指揮官ラシェデ君
(二三)は、はっきりと死を予感していた。昨年十一月末のことである。
そのころ、ダッカ郊外では、解放軍とパキスタン政府軍の間で、血みどろの殺し合いが続
けられていた。インド軍の進攻が始ってからは、政府軍も必死だった。解放軍がいると目
星をつけた村に火を放ち、逃けようとするものに、片端から機関銃を浴びせた。

ゲリラニ百人指揮
「アジジ司令官」という異名で知られたラシェデ君は、ダッカ大学の法学部の学生。学生
運働の最高指導名の一人だった。約二百人のゲリラを指揮していた。ダッカ市内の軍事施
設やテロ活動など、もっともがん強に抵抗を続けたグループだ。
ゲリラ隊員のほとんどは大学生だった。眼鏡をかけたみるからに繊細な感じの医大の学生
もいた。まだあどけない顔をした高校生は、マンドリンのような形の自動小銃をかかえる
ように持っていた。
ラシェデ君もまだ顔に子どもっぽさを残していた。なんども激しい戦闘を経験したという
のに、意外なほど穏やかな話しぶりだった。
「同情はもうたくさんです。いまわれわれは戦っている。武器は旧式、弾薬も乏しい。非
常に苦しい戦いです。だから、もし本当にわれわれに共感を持つなら、武器を送って下さ
い」
この九ヵ月、彼はいらだたしさを感じ続けて来たのだ。なぜ、外国が援助の手を差し伸べ
てくれないのか。なぜパキスタンと断交しないのか。彼らがこれだけの虐殺を続けている
のに。そしてみんなそれを知っているのに―。
しばらく口をつぐんで考えたのち、しみじみといった。「こんな事が起こる前、ぼくたち
にはベトナムの話が遠い所の他人事のように思えていました。そりゃあビラをまいたり、
デモをやったりしたことはありますよ。だが、心の底から自分たちの問題としてとらえて
いたとはいえません。それは間違いだったのでず。今になってそれがわかりました…」

独立すれば大学へ
約二時間、話した間で、一回だけ彼は声を荒らげた。一般の人たちがテロに巻込まれ犠牲
者が出るのではないか、と聞いた時である。
「われわれは戦っている。われわれと共に銃を握らないやつはみんな敵だ。いや敵よりも
もっとにくい。そんなやつが何人死のうと知ったことではない」
彼はテーブルをとしんとたたいた。
夕やみがせまる。彼らの時間が始まるだ。彼は自動小銃を肩にかけ、手をさしのべながら
いった。
「平和になったら、独立したら、大学に帰り

ます。また会って話し合いましょう。もし運がよく生き残れたら」
三月の内戦突発}以来、学生のほとんどが戦列に加わった。昨年夏、解放軍は"特攻攻撃を
開始した。チッタゴンに停泊中の貨物船数隻を沈めた。海にもぐって船に爆薬を仕かけた
のである。攻撃後、つかまった八人のうち六人は学生だった。彼らは特殊訓練を受けたの
ち、政府軍がきびしく警戒しているまっただ中に潜入したのだった。事件後、あるパーテ
ィーの席上、学生たちをどうしたか、と聞かれたある政府軍の高官は、こともなげに「あ
いつらみんな川へ流してやりましたよ」と答えたという。
とらえられたゲリラの運命は死以外にはなかった。

解放後に「行動委」
ムジブル・ラーマン氏の帰国で、いまバングラデシュでは本格的な国づくりが始まってい
る。学生たちもダッカ解放直後「学生行動委員会」を作った。各地で戦った学生グループ
が結集して今後の国づくりににらみをきかそうというのだ。十二月末にダッカで開かれた
初会合には、大勢の学生たちが顔をそろえた。だがラシェデ君の顔はなかったという。
「あいつはきっと出て来るはずなんだが」
仲間の一入がいつまでも首をかしげていたそうだ。



■ベンガル 本社特派員団報告(9)
 ビハリ 迫害の宿命負う民族 「西への協力」今や致命傷
 1972年1月15日

首に包帯を巻いた男が、仲間の肩にすがって出て来た。「パキスタン軍が降伏したあと、
ダッカの町を歩いていだら、ベンガル人に切りつけられたのです」という。
男がシャツをまくってみせると、腹にも刺し傷があった。他の一人は足の指がない。群集
の私刑にあっているところを、インド軍のパトロールに救われた、という。
ダッカ郊外、アダムジー・ジュート工場の従業員居住区を私が訪れたのは、同市の陥落後、
十日ほどたってからのことだ。ブリガンガの流れに面した広大な敷地。世界一の規模を誇
る工場や倉庫の群れは、ひっそりと静まりかえり、一方、従業員たちは、いつベンガル人
に襲われるか、恐怖のため集団ヒステリーに近い状態になっていた。
彼らは、すべて「ビハリ」である。

ベンガルになじまず
一九四七年、インド・パキスタンの分離独立に際して、多数の回教徒、ヒンズー教徒が、
それまで住んでいた土地を捨て、信仰のために新しい国を選んだ。ビハリとは、インド・
ビハール州から東パキスタンに移住して来た回教徒をさし、その数は約三百万といわれ
る。
宗教迫害を恐れて「回教の国」に流入して
来た彼らは
もともと難民だ。パキスタン政府の用意した居住区に固まって住み、ベンガルの風習につ
いになじまなかった。
顔やからだつきは、
ベンガル人と全く同じように見えるが、彼らの言葉は、西パキスタンと同じウルドゥ語だ。
これがその立場をいつそう奇妙なものにした。ベンガルの民衆からもさげすまれる、最下
層の彼らを、西の政府、資本家が、ベンガル支配の手先として徹底的に利用したのだ。
西の財閥が経営するジュート工場の従業員が、ビハリで固められていることは、その一例
に過きない。

鬼気迫る破壊のあと
工揚から帰った私の話を聞いて、日ごろはきわめて温和な、中年のベンガル人実業家は「
当然のむくいだ。こんどは、やつらが殺される番なのだ」といい放った。
ビハリの多くが、東パキスタン政府がつくった「ラザカール」という名の民兵組織に参加
し、政府軍の先兵となって、ベンガルの権利要求を、文字通りたたきつぶしてきた。
昨年五月、東パキスタンにはいった私は、ナラヤンガンジの警察の前庭でベンガル人が拷
問されているところを一瞬、目撃したが、竹の棒で犠牲者をたたきのめしていたのは、パ
キスタン兵ではなく、平服のビハリだった。
そしてオールド・ダッカのサカリ・バザール。ヒンズー教徒の居住区をたたきこわし、そ
の後に住みついていたビハリは、いまもとの居住区に逃げ込んだが、その破壌のすさまじ
さは、見ただけで寒気がする。
レンガ造りの家々が、あらゆる家財道具を

奪われ、壁や天井をくだかれた光景。それが人間の手で行われただけに、爆弾の被害にも
まして、鬼気を感じさせるのだ。
昨年三月以降の動乱期に、何万のベンガル人の生命が奪われたか。正確な数字は、おそら
く永遠にわかるまい。確かなことは、戦場で失われた生命よりも、町や村でむごたらしく
殺された人間の方が、はるかに多いということ。そしてベンガル人の脳裏には、パキスタ
ン兵と並んで、いやそれ以上にビハリが、「下手人」として焼きついている。
アダムジー・ジュート工場の経営幹部だった西パキスタン人は、印パ戦争の開始前に、さ
っさと西へ避難した。インド軍に投降したパキスタン軍将兵は、兵営で整然と武装を解き、
順々に西へ搬送中だ。
とり残されたビハリだけが、ベンガル人の復しゅうにおびえ、一部ではパキスタン軍から
譲り受けた武器を持って、居住区に立てこもっているものさえいる。

失われた「回教の愛」
バングラデシュ暫定政府の首相だったタジュディン・アーメド氏は私に「この国に少数民
族などは存在しない。みな平等な国民だ」と語った。が、建国間もないいま、血で血を洗
う復しゅうの繰返しを、最小限に押えるには、インド軍の力を借りなけれはならなかった
のが、現実だ。
アダムジー・ジュート工場は、精強で知られるグルカ兵百人で守られていたし、ダッカ市
内のビハリ居住区は、同様にインド兵の「壁」によって、ベンガル民衆と隔離されていた。
そのインド軍は、いつまでバングラデシュ内に駐留していられるだろうか。
「私はインド人だ。もうベンガルには住めない。故郷へ運れて行ってくれ」。ジュート工
場の従業員の一人は、私に同行したインド軍将校に向って絶叫した。
回教の兄弟愛をかかげたパキスタン建国の理想は、ここに完全に破たんした、というほか
はない。



■ベンガル 本社特派員団報告(10)
 覆水盆に・・・ 「東」引止め依然望み 西パ、ラーマン氏に期待
 1972年1月18日

パキスタンの中央政府に協力したとして、非ベンガル人に対して行われた東パキスタンで
の"報復 虐殺"が、西パキスタンで報じられた。西パのウルドゥ語紙に掲載された数枚の
写真は、目をおおいたくなるほどの幾酷なものだった。その写真は外国カメラマンが撮影
したものだが、これが「虐殺現場の証拠写真」だという。
昨春以来のパキスタン軍による東パキスタン住民に対する病殺を、西パキスタンの東パキ
スタンに対する民族的な差別観で説明しようとする見方がある。では、このウルドゥ語紙
の現場写真のような逆のケースはなんと説明できるだろう。ラホール市内で、パキスタン
政府のある役人と一夜じっくり話合ったときの印象が忘れられない。彼は声をひそめてこ
う語った。

残酷と貧しさ同居
「政府が昨年八月に発表した東パキスタン白書を読みましたか。昨年三月五日から二十五
日までの間に、東パキスタンでとんなに激しい虐殺が行われたか。ベンカル人は、東パキ
スタンに住む非ベンカル人を"ビハリ"と呼ぶ。そのビハリをどんな目に会わせたか。日ご
ろうらみのあるビハリをつかまえて来て、指を一本一本切り落し、目をくり抜いた。何の
罪もないビハリをですよ」。
「こんな話もある。夫は西パキスタンから来たパンシャブ人、妻はベンガル人だった。東
パキスタンの独立運動が激しくなると、妻はひそかに夫のスープに毒を盛った。こんなこ
とが考えられますか」
彼の目は憎しみに燃えて、ぎらりと光る。
「カルカッタのマハカリという寺に行ったことがありますか。マハカリは、

ベンガル古来の信仰を象徴する寺 で、死の神を祭っているのです。ベンガル人には他人に
死を与える―他人を殺すことによって、その人を神に近づかせるという思想がある。いま
バングラデシュの中でどんなことが行われているか」
ラワルピンジやペシャワールのゴミゴミしたバザールを歩く。馬車や手押し車の行き交う
通りをめくらの乞食(こじき)が、ものごいしながら歌って行く。子供がそれをからかい、
おとなが声をたてて笑う。泥にまみれた骨と皮の老人が道端にころがっている。そのそば
で子どもたちは無心に遊ぶ。南アジア一帯にはむき出しの貧しさと残酷さが同居している
のだ。

植民地支配の遺産
パキスタンが東西にかけ離れて
存在し、ベンガルが印パ双方にわかれていた無理が、こんどの悲劇を招いたともいわれる。
「しかし、どこに人工的でない国家があろうか」と、ブット大統領は昨年九月に出した「
大いな悲劇」いう著書の中でいっている。そして同一民族と同一言語のドイッが東西にわ
かれている現実、アジア、アフリカ、中近東諸国の多くが、植艮地支配の遺産を受けつい
だ人工的なものではないかと指摘するのだ。
バングラデシュ独立に対する西パキスタンでの反応は、さまさまだ。一般民衆は単純で直
接的だ。
「東はインドにとられた。パキスタンはおしまいだ」「東をとられたのだからカシミール
をとればいい。もうじきカシミールで戦争がまた始るよ」というわけだ。しかし東がパキ
スタンにとどまろうと離れようと、民衆の生活にはあまり関係ないこと。それよりも政党
政府ができたことを歓迎する空気が強い。パキスタン成立以来四分の一世紀にわたってい
つも期待を裏切られてきた民衆だが、その多くがブット大統領を「救世主」として仰いで
いる。「あなた方の苦しみは間もなく終る」とブット氏はあまりに気楽に約束する。

"ラーマン氏は立派"
だが、パキスタンを二つに割って権力を握ったと批判されるブット氏である。ラーマン・
アワミ連盟総裁は、歓喜するダッカ民衆の中に帰った。ブット氏はいま「ラーマン氏は東
パキスタンを正式に代表する人間である」といわざるを得なくなっている。が、東パキス
タンをつなぎとめる可能性のある唯一の頼みの綱はラーマン氏しかないとの点で、西パキ
スタンの世論は一致している。「彼が西に対してどんなに怒っていようと、インドの占領
でできたバングラデシュを好むとは思わない」という期待である。
ラホール市内で話合ったさきの若い役人はこうもいっていた。
「ベンガル人は、西のパンジャブ人たちが人種的偏見からベンガル人の出世を妨害し、高
い地位につけさせなかった、と不平をいっている。しかし、そんなことはない。パキスタ
ン建国当切にも、ベンガル出身のスラワルジさんなどが首相の地位についているてはない
か。ムジブル・ラーマンさんだって、政治会談決裂前の一月にヤヒア前大統領が"将来の首
柑"とちゃんと呼んでいたのですよ。ラーマンさんは立派な人だ。あの人は、われわれを裏
切らないと思いたいですね」



■ベンガル 本社特派員団報告(11)
 裏切り者? 将来が定まらぬ学生
 1972年1月18日

西パキスタンにいるベンガル人は四十万人、うち三十万人は西パキスタン最大の都市カラ
チに集中しているという。確実な統計があるわけではない。いずれも推定だ。カラチは国
際港である。何かの仕事にありつけるかもしれないと名地から人が集る。
教育水準が高く、生活も中流以上の人ならこの都市の中にある程度とけ込んでいる。しか
し、東で食いつめ、西の公用語であるウルドゥ語も知らず知人を頼ったりして西へ来た人
たちはみじめだ。カラチ市外を東へ出はずれてハイデラバードへ向うハイウエー沿いに「
ムーツ・コロニー」と名づけられたベンガル人集落がある。

ハエの繁殖場所
ボロと板きれをつなぎ合わせた背の低いバラックが、ぎっしり立並ぶ。狭い路地に足を踏
入れると足元からハエが一せいに飛立ち、顔や手にぶつかる。家具といえば水がめのよう
なものだ。仕切りの下から汚水がにしみ出て、ハエの絶好の繁殖場所になっている。
ボロをまとったはだしの子ともが走り回る。ここから車で数分の動物園の何ときれいに整
備されていることか、緑のしたたる木が豊富だ。
六五年の印パ戦後、当時の西パキスタン州知事モハメド・ムーサ氏がコロニー設置を認め
たところから、この集落の名になった。ここに六千人のベンガル人と六百人のムハジール
(インド回教徒)が住む六百人のムハシールは、四七年の印パ分離独立のさいインドから移
住してきたもののうち、西での生活基盤がないまま、底辺で命をつないでいる人たちだ。

身ぎれいな青年がスッとあらわれ「やあ、こんにちは」と握手を求めてきた。「ご覧の通
りここの住民は非常に貧しい」といい、質問にも答える。ムハジールでここの住民だと名
のった。

カラチのある外国人の家で働いているコック(二三)は、ベンガル民族主義者である。ダッ
カに近いガンジス川の川下ファリドプールの出身。西パキスタンへ来てもう十九年になる。
十歳ぐらい年上の妻と住み込で働く。

気にかかる患子
「バングラデシュの将来には困難があるだろうが、ベンガル人の国になったのだから、出
来れば一日でも早く帰りたい」という。向うに残してある八歳の息子のことが気にかかっ
ている。妻の母親がめんどうを見ているが、動乱をうまくくぐり抜けたかどうか。
昨年三月二十五日以後のパキスタン政府軍による弾圧が伝えられると息子の身を案じて仕
事が手につかず、ぼやっとしていることが多かった。八月に一度東へ帰って息子と義母の
無事を確かめてきた。その後十一月三日発信の手紙を十二月三十日に受取っただけで音さ
たがない。
ムーサ・コロニーには彼の叔父といとこが住んでいる。ウルドゥ語が話せ、英語も少しわ
かるので月三百ルピーという比較的高い給料をもらえる。バングラデシュに帰ってもいま
のような給料は思いも及ばない。しかし自分の国で働けることのほうがどれ程よいか。子
どもも一緒になれる。
カラチ大学四千人の学生のうちベンガル人学生は現在二百人いる。三月までは四百人いた
から半分に減ったわけである。三月以降西パキスタンにやって来た四人の学生に会った。
十七歳と十八歳の、まだ子どもっぽさの抜けない学生ばかりだ。しかし、よくしゃべる。

四人の父親はいずれも親パキスタン中央政府の立場に立っていた。パキスタン民主党(PD
P)の指導者だった一人の学生の父親が、バングラデシュ側の武装勢力に殺された。中央政
府の役人だった一人の父親は、いま軟禁されている。だ
から西にいたベンガル人学生の多くが三月以降東へ帰ってムクチ・バヒニ(東ベンガル解放
軍)に身を投じたりしたのに、彼らは逆に西へ移って来たわけである。将来、西パキスタン
に残れば、彼らの立場、教育からいって、かなりの地位を保証されることは間違いない。

国にももどれず
学生の一人は教室の黒板に「ベンガル人を首つりにせよ」という落書きを見つけて、強い
ショックを受けた。バングラデシュから見れば、彼らの家族を含めて「裏切者」に属する
だろう。国に戻っても果してとんな運命が待っているか、それはわからない。
西パキスタンがバングラデシュを認めて二つの”国家”関係が安定しなければ、彼らの将
来も定まらないのだ。
十六日カラチのある集会で取材していた地元紙のベンガル人の記者は「東西の空の便が再
開されたら第一便で帰る。難民にはなりたくないからね」と語った。この記者も二つの国
家という既成事実は出来たとみているわけだ。



■ベンガル 本社特派員団報告(12)
 造反代表部 苦難の中、建国に誇り 承認・援助へのPR行脚
 1972年1月20日

ワシントン市内、商店が並ぶコネチカット通りの小さなビルの中に"大使館"はあった。入
口にバングラデシュ・ミッション(代表部)の表札。金網のようなドアの旧式なエレベータ
ーに乗り、最上階、四階まで上がると、M・R・シディキ”大使”が「ようこそ」と出迎
えた。
四十六歳。茶室の中ででも話しているような、終始変らぬ静けさでベンガルの民の苦難、
これからの国づくりのむずかしさを語る。
バングラデシュ代表部には、昨年八月、パキスタン大使館からたもとを分って飛出した十
四人の外交官たちがいる。シディキ氏を迎えていまの場所に"造反大使館"を設立した。

米国内各地を講演
「私以外の館員十四人はみな生粋の外交官。私だけが素人です」とシディキ氏。本来、実
業家でジュート製造、繊維製品の販売、日本製自動車の輸入などをやっていた。日本はも
ちろん、世界各国を回っている。六二年から六五年にかけて、無所属のパキスタン国会議
員だったが、七〇年十二月の選挙にはアワミ連盟の候補として当選した。昨年八月、米国
のパキスタン大使館が割れるや、ただちに新代表部を率いるために派遣された。第一の任
務はまずなんといってもPR活動だ。
「戦火からの復興には三十億ドルもかかりますから、理解ある諸国からの援助をあおがざ
るをえません。ワシントンには世界銀行もあり、バングラデシュの窮状についての認識
と理解を求める活動はわれわれの重責。きのうは米国法曹協会で、きょうはメリーランド
大学でと、毎日のようにわたしは講演です」
大学の講演会では、パキスタン留学生からのヤジが飛んだ。だがシディキ氏はとりあわな
い。パキスタン人からはおどしやいやがらせの電話も代表部によくかかる、というが、「
とりあっても仕方がありません。むしろ、バングラデシュにいる親族の様子を聞きたいと
いう西の人たちもずいぶんいますから、だれにでもていねいに応対するだけ」と静かに笑
う。勝者の余裕、でもあろうか。
勝目のなかったパキスタンの、しかも軍事政権と心中したというので、ニクソン政権の外
交に対する批判は米国内にきびしく、それは裏を返せば米国民の間にバング
ラデシュへの同情が高いということでもある。バングラデシュ代表部にも、米国の新聞に
も、同情的な投書が毎日舞い込む。

「日陰もの」の悩み
世論に影響を持つ識者でバングラデシュに公然と理解を示している米国人 ―たとえばハ
ーバード大学のガルブレイス教授(元駐印大使)、チェスター・ボールズ氏(同)、ケネディ、
チャーチ、ギャラガー各上院議員ら― は代表部にとって常時接触を保つべき重要な相手。
「なにしろます世論を喚起して、米国政府に正式に承認してもらわなければならないのに、
日陰ものというのが一番の悩み」なのだ。
代表部とはいうものの、国交がないから外交特権はもちろんない。精一杯のところ、国務
省のパキスタン課員と「まったく非公式に」出会うことができるくらいで、米政府との直
接接触の経路が全然ないのがいらだちのタネだという。

日本の動きに感謝
だが、今年になって母国との電話線も開通したし、電報もインド経由で打てるようになっ
た。印刷物の配布を主とする代表部の活働資金は母国から十分まかなわれているし、米国
内三十五カ所にバングラデシュ協会支部をつくるなど、組織づくりも進んでいる、と明る
い表情を見せる。同じワシントン市内に、代表部とは関係なしにベンガル難民のカイザー
・ザマン君と米平和部隊でネパールに行ったことのある米人デービッド・ワイスプロッド
君とが同志を集めて「バングラデシュ情報センター」を開いているが、ここも若い人々が
集り活気にあふれている。
「何といっても私たちには民族の独立という"大義名分"がありますから」とシディキ氏は
自信の深さを説明した。「パキスタンへの接助をやめ、承認を検討中の日本の動きには感
謝しています」そしてわかれぎわに「アリガトウ」とはずかしそうに日本語であいさつし
た。



■ベンガル 本社特派員団報告(13)
 欧州の目 ロンドンに本拠地置く 英の承認に楽観の態度
 1972年1月21日

ロンドン…ノッティング・ヒル・ゲートの地下鉄駅前は大衆的なショッピングセンターや
小さなホテルが建ちならぶ繁華街。その一角に小さく「バングラデシュロンドン代表部」
と看板を張出した、古ぼけた建物がある。
「英国にいるベンカル人は約十万人。カシミール出身者も西パキスタンに含めれぱ、西か
ら来た人たちとほぼ同数です」。
ベンガル人でいっぱいの部屋で、元パキスタンのカイロ大使館員だったファズルル・カリ
ム君が声を張上げる。あまりいい身なりとはいえないベンガル人が、ぐるりと取囲んでい
る机は、この"大使館"の領事部。パキスタン政府から発行された旅券を、片端からバング
ラデシュ政府の名に書き換えてゆく。

出生地が決め手に
どうやってベンガル人ということを判断するのだろう。
「出生地。もしそれが決め手にならなけれは、言葉、それに日本だってだいたいとの地方
の出身、お互いにわかるでしょう。われわれもすぐわかるのです」とカム君はいう。
おじいさんの代から英国に住んでいるという人もいる。「若いころに出てきたんだ」とい
う人もいる。「インド料理店」を経営している男は「そりゃあ、インド料理といった方が
通りがいいしね。それにわれわれの料理と大して違いはないんだよ」といった。なんでも
ロンドンにはベンガル人経営のインド料理屋が三百軒ほどあるらしい。ロンドンの比較的
貧しい地域であるイーストエンドで紳士服の仕立屋をしているのもいた。
ラワルピンジから、釈放されたラーマン首相が、まずロンドンを目ざしたことでもわかる
ように、欧州各国がバングラデシュをどうみているかの情報センターは、どうやらロンド
ンのようだ。欧州大陸を回って帰ってきたばかりの、この代表部の責任者は別のカリム、
レザワル・カリムという人。「私は西パキスタン政権の駐英大使館で、政治問題担当の参
事官をして
いた。しかし、この政権は軍事力で民衆を押えつけるという失敗をおかし、しかもそれを
正すどころか、今度は大量虐殺というひどいことをやった。ダッカから、私にロンドン代
表部を組織するよう言ってきたのは、そんな時だ」と、黒いヒゲをしごきながらかなり疲
れた顔つきで話した。
貿易に気をくばるカリム氏は「チッタゴンなどの積み出し港にたまっているジュートを早
くお得意先にわたるようにしなければならない。これは間もなくうまくゆくだろう」とい
った。お得意先の第一は、スコットランドのダンディ一帯の加工業者で、印パ戦争前から
の材料が底をつき、長い間入荷を待望んでいた。
この代表部の仕事はまだある。英国各地に昨年三月に出来たバングラデシュ活動委員会を
総括して、母国へ救援物資や資金を送ること、さらに重要なのは半月刊誌「バングラデシュ
・ツデー」を編集、発送すること――これはダッカや関係各国の動き、新聞論調、バング
ラデシュの経済問題などを写真入りで報じたもので、八ページの小粒ながら、よくまとま
った雑記だ。通商部、広報部も兼ねる
二十人の職員は、一日中、書類を持って人ごみの間をかけまわっているように見える。
代表部がとくに注意している英国の承認は、かなり見通しが明るい。十八日英下院でヒュ
ーム英外相は「ダッカの新政権は確立されたように思われる。インド軍は残留しているが、
これはラーマン首相の意思によるものである、と同首相は断言しており、撤退が必要だと
彼が判断すれば、いつでも引揚げるだろう。この問題について、ごく近い将来に新たな声
明をしたいと思う」と、英国の承認がきわめて近いことをにおわせた。そして、先に国連
に寄託した約八億円のほかに、新たに八億円の救済資金を送ると発表した。
バングラデシュの経済自立がきわめてむずかしいものであることは、英国の新聞、雑誌が
繰返し指摘していたところだが、最近のエ
コノミスト誌は同国が世界の八〇%を生産するジュートについても「国営貿易によって値
段をつり上げたりすると、合成繊維との競争に敗れて、市場を失いかねない」と不安を投
げかけている。

身内見るまなざし
また、フィナンシャル・タイムス紙は現地からの論評で、ラーマン氏がほんとうに国内の
小勢力、たとえはアワ連盟内の現中国派バシャニ氏一派、あるいはムクチ・バヒニ(東ベン
カル解放軍)などをまとめて行けるかどうかに疑問を投げ、「バングラデシュがすべての問
題を解決できるなら、世界中に難問を解決できない国などなくなってしまうだろう」と政
治、経済的に、同国が極度に苦しいスタートをきっていることを強調している。しかし久
しぶりにアジアに現れたカリスマ的指導者、それもかつての植民地支配のあとに建国の道
をたどるラーマン氏のバングラデシュに対して、英国は手の届かぬ不安と同時に、どこか
身内を見るようなまなざして見守っているといえる。



■ベンガル 本社特派員団報告(14)
 国づくりの道 外国援助を神頼み 経済再建誤れば学生ら造反必至
 1972年1月22日

どんな国からでも
さる一月十日、ムシブル・ラーマン・バングラデシュ首相が、帰国の途中、ニューデリー
に立寄ったときのことである。インド政府はインド航空の特別機を用意して待っていた。
ラーマン首相をダッカへ送るためである。ところが同首相はロンドンから乗ってきた英空
軍のコメット機に再び乗ってダッカへ向った。とくに意識的にそうしたのではなかったの
かも知れない。だが、ニューデリーの消息通は「あの時ラーマン氏がインド政府提供の飛
行機に乗らなかったのは、バンクラデシュがインドに依存しているという印象を避けよう、
という配慮からだっだ」と解説する。
その四日後の十四日、ダッカへ帰ったばかりのラーマン首相は記者会見を行なった。三百
人を越える内外記者が集まったが、その席上、米国からの経済援助を受ける用意があるか、
という質問に対してこう答えた。
「ヒモつきでないならば、どんな国からても援助はありがたくちょうだいする」
じつはわずか二週間前の昨年末、当時暫定首相だったタジュディン・アーメド現蔵相は同
じ質聞に対し「米国からの援助を受けることはない」と答えたばかりだった。
ラーマン首相が帰国以来、米国をはじめ各国に対して細心の注意を払っているのは確かで
ある。パキスタン政府から釈放されて、ロンドンに着いた同首相の最初の言葉は「米国民
など世界の国民の支援に感謝する」だった。そのときすでにインドと英国の関係は最悪の
状態になっていたというのに―。
まだある。バングラデシュの社会主義経済建設について
同首相はたびたび説明を加えている。「社会主義を推し進めるが、民主主義的な方法で達
成する」。これなども、西向けの"放送"と考えられなくもないのだ。
ラーマン首相がこうまで外国に気を使うのも無理はない。九ヵ月にわたった内戦とそれに
続く印パ戦争で国土は荒廃した。これを再建するには、どうしても外国からの経済援助に
頼らざるを得ないからだ。
バングラデシュ政府の資料によると、約六百万の家族が家を失った。百四十万の農家が家
畜、農具などいっさいを失った。道路、畝道、橋、通信施設なども徹底的な破壊を受けた。
特産品のジュートや紅茶の生産は半減した。内戦以前の経済水準にまで引き上げるには少
なく見積っても約二十五億ドルはかかる。イントの専門家の意見では、当面必要なものだ
けでも、ここ二、三年の間は毎年三億ドルという。

深刻な食糧不足に
そのうえ、今年は深刻な食糧不足が待っている。なにしろ、この地域は一平方キロ当り人
口三百五十人以上、という世界有数の過密地帯。米作が順調な年でも年間百万トン前後の
米が不足していた。それなのに昨年三月以来の内戦続きだ。おまけに一昨年秋の大水害の
痛手も完全にいえてはいない。ダッカからの報道によると、予想されたよりも米の出来は
よかったといわれるが、それでも今年だけで不足は二百三十万トンに達するそうだ。
とくにシレト、ラジシャヒなど北部地帯では道路の破損などのため、いますぐ救援の手を
差しのべないと飢きんの恐れさえあるという。

タカがしれた貿易
楽観論がないでもない。独立以来、バングラデシュはパキスタン全体の輸出額の六割近く
のジュート、紅茶を出していた。だが、かせいだ外貨のうち半分程度は西パキスタンに吸
上げられていた。それに中国、ポーランドなどから石炭を入れていた。ところが、これか
らはジュートや魚を隣のインド

に売り、インドからは三分の一程度の値段で石炭が輸入できるのである。インドにとって
は、バングラデシュ経済にとっても有利になるというのである。
確かにその通りだが、何分貿易の絶対量がしれている。内戦が起こる前でも、輸出額は全
部合わせて二億ドル程度。差当っての復興費に比べれば問題にならない。おまけに、最大
の援助国であった米国をはじめ自由圏からの援助は戦争のため中断されたまま。

望み薄の米国援助
バングラデシュにとって、最大の不運は独立にあたって、インド・ソ通の色彩があまりに
も強かったことだ。独立そのものがイン
ドの軍要力の助けを借りたのだから、当然といえは当然だ。これまで承認に踏切った国々
は、隣接のビルマ、ネパール、ブータンを除けばソ連の息がかかっている東欧諸国が大部
分だ。承認を決めた北欧諸国につづいて英国、フランスなど西欧諸国の承認も期待できる
とはいえ、当面は経済援助もソ連圏諸国に依存せざるを得ない。
そして、インドと米国との間がこじれにこじれている現在では、米国からの援助は望み薄
だ。独立の最大のスポンサーであった肝心のインドは、自分自身が外貨不足に悩んでいる
有様だ。ガンシー首川は「経済再建に対してはできる限りの援助をする」
と約束、今年にはいってから、総額四千七白万ドルの経済援助計画を発表した。長期借款
が千七百二十五万ドル。残りは肥料、鉄鋼、石油などの現物援助である。インドとしては、
ぎりぎりまではり込んだわけだが、今年中に必要な復興費の二〇%に満たない。
インドが全面的に責任を持てない

いことは、インド人自身知りすぎるほと知っている。ニューデリーの新聞は書いている。
「バングラデシュの再建に対して、インドだけで行えるような余裕はない。国際的な協力
が必要だ」。各国はバングラデシュを放認し、経済援助に加わるのは国際的な義務だ、と
いうのである。ソ連にしたってすぐに米国の肩代りができる立場にはない。ラーマン首相
にしてみれば、米、ソ連両勢力を両てんびんにかけながら、双方から援助を取りつける方
向に進むよりほかは生きる道はないわけだ。

インドの影響心配
もう一つの心配がある。インド経済の影響カが強まることだ。これまで、アダムシー、ダ
ウードなどの西パキスタンの財閥がジュート産業をはじめ、ほぐんどすべての経済を牛耳
っていた。独立により、これらの西パキスタン資本は引揚げた。これ自体はありがたいこ
となのだが、このあとの"真空地帯"にインド資本がはいり込む恐れが十分にあるのだ。イ
ンド政府はインドの大資本がはいることは極力押える方針といわれるが、ゼロかろ出発す
るバングラデシュ政府にはこれらの産業を続ける経済力はない。外国からの援助が十分満
たされなければ、それをどこからか引出さねはならない。
すでにインドの資本家たちは動き始めているともささやかれている。ボンベイの経済専門
紙「エコノミック・タイムス」は「インドはバングラデシュ経洗で、かつて西パキスタン
が演じたような役割をするべきてはない。バングラデシュの経済開発に対する参加はバン
グラデシュ政府が望む範囲にとどめるべきである」と、すでに警告を発しているほどた。

政治勢力さまさま
政治的には安定しているように見える。確かに建国の父ラーマン新首相に対する人気は圧
倒的だ。アワミ連盟の単独政権を可能にしたのも、このラーマン氏個人のカリスマ的な権
威だった。だが、前後九ヵ月に及んだ解放闘争はバングラデシュ内部にさまさまな政治勢
力を生んだ。急進的な学生、労働者の組織もあるという。
すでに急進派学生は「行動委員会」を結成して、アワミ政権の社会主義建設を監視する構
えを示している。全農業人口の四〇%を占める「土地なき農民」もようやく目ざめはじめ
ているのだ、
もともとラーマン首相のアワミ連盟は民族主義政党だった。支持層もラーマン氏自身がそ
うであるように、中産階級が圧倒的に多い。東ベンガルでようやく成長しじめた民族資本
の代表といった性格を持ち、"親米派"というレッテルをはられた時期もあった。現政権が
公約している社会主義路線がどこまで実現できるかが問題だ。もし、経済再建に失敗する
ようなことがあれは、"ラーマン神話"はくずれ去り、学生、労働者、貧農などの間から造
反が起ることは必至。たえ間ない混乱の序章となるのだ。
(おわり)


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