つれづれすけっち

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「蛮幽鬼」観劇記 10/23、11/9(その2)

2009-11-17 00:54:16 | 感激!観劇!
「蛮幽鬼」観劇記つづきです。
その2では、舞台全般に関しての感想を。

新感線はキャスト、セットともに豪華なのが常ですが、
今回は映像をかなり用いていた点が印象的でした。
1回目の東京公演では、正直なところ「映像に頼りすぎでは?」という感が否めませんでした。
確かに、壮大なストーリーであるため、話の基本になる説明は
映像を使ったほうが分かりやすく、観客もすんなり作品の世界に入り込めますが
せっかくの生「舞台」なのに、生の魅力を放棄しているのでは?!と思ったのです。

それと、土門が囚われている監獄島に関する描写も
映像に頼っていたところが多いなと思いました。
映像を使わなくても、誰も生きて帰ることのできない絶海の孤島であることを
表現できる手段はあると思うのですが、それを簡単に映像で補っていないか?と。
かなり批判的意見ですね。
しかし2回目に観たときは、不思議と1回目に感じた印象は薄れ、
映像を使うタイミングが巧いな、と感じました。何なのでしょうか・・・この感想の変化は。

セットに関して。
監獄島のセットは、ちょっといただけないかなぁ。
最初に見たとき、「何?これ!?」と思ってしまいました。
黒いビニールと白いビニールを枠に絡ませて岩を表現しているのかな、と思いましたが
やっつけ仕事のセットみたいで雰囲気が出ない、と私は思いました。
またまた辛口批評ですが。
特に近めの座席だった1回目、東京公演時にそう感じました。
普通の岩のセットを作ったほうがリアルだったのではないでしょうか?
回り舞台をうまく使っていたのはよかったと思います。
あ、そうそう。東京公演のときは、セットがぐらついていた気がしたのですが・・・
上川さんがセットを叩いた(?だったかな)時にセットが少し揺れました(汗)

ストーリーは「モンテ・クリスト伯(岩窟王)」をモチーフにしており、
エドモン・ダンテス=伊達土門なんですね。
こうやって並べて書くと、なるほど!ベタですね。
パンフレットによると、
「エドモン・ダンテスは幽閉された島で高潔な人物と出会ったのだが、
では、もしそこにいたのがレクター博士のような人物だったらどうなっていたか」
という設定なのだそうです。
面白い点に着眼されましたね。唸ってしまいました。
言うまでもなく、レクター博士=サジなのです。

終盤に近づくにつれて、登場人物がどんどん死んでいく様や
蔵人や美古都大王が叫ぶラストは、
シェイクスピア悲劇を彷彿とさせるところがありましたし、
ラストでは現在私達に伝わっている史実の裏側(真実)って
実はこんなことになっていたのかも、と感じました。

あと、この作品のキーワードの一つとして
「名前」が挙げられるのではないか?と感じました。
まず、客席に入ると投影されているタイトルは「蛮勇記」。
東京公演で客席に入ったとき、ビックリしました。誤植?!って(苦笑)
その後「蛮憂記」となります。監獄島に投獄されてのことでしょうか。
そして、「蛮幽鬼」とタイトルが変遷している。
それに、サジには名前がない点もポイントかなと。
土門がサジに名前を聞いた時、恐ろしい形相になりましたよね。
同族の刀衣でさえ「楼蘭の悪魔」と呼ばれていることしか知らない。
そして名前のないサジは、土門達のことを名前で呼んだことがない、という台詞があります。
土門は飛頭蛮と名前を変え、復讐の鬼と化し、
果てはサジの行った悪行までもまとめて飛頭蛮の仕業とされ、
「国家の大逆賊」に仕立て上げられる。
名前を持たないサジは殺人マシーンと化し、己の欲望の道を突き進む。
美古都は大王となり、この国を背負っていく決意をする。
う~ん。

そして、果てしない復讐の渦。
復讐は、さらなる復讐を生むだけで何の解決にもならない。
このストーリーで、この渦を断ち切ったものは一体なんだったのか?
とても深いテーマですが、
重要な渦の断ち切り方、というかそこに至るまでの過程が立ち回りにかき消され、
あっさり描かれてしまっていた気がします。

サジにはもっと、本音を語ってほしかったですね。
そうなると、ベタ過ぎますか?