はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●ゴールドマンコレクション「これぞ暁斎」展1

2017-02-25 | Art

ゴールドマンコレクション「これぞ暁斎」展 Bunkamura 2017.2.23~4.16

 

見終わって思ったこと:

・暁斎は、仲間が好き。市井の人々が好き。

・権力に媚びない。権力をカサに着る者にはシニカルだ。

・動物が好き。なかでも鯰や蛙といった(あまりかわいくない地味な)生き物が好き。妖怪にも愛を注ぐ。

・なんでも描ける。狩野派から浮世絵まで。水墨から本の挿絵、戯画、花鳥図まで、なんでも。

・しかも何を描いてもすさまじくうまい。人も動物も骸骨も、骨相と動きが正確。

・たまに、西洋画や抽象画のような域を行き来する。

・暁斎の家には、外国人がいっぱいやってくる。

・暁斎の春画は、笑える。

・暁斎の仏画は、心を打たれる。泣けてきそうになる。

 

今まで「奇想の系譜」というイメージだったのが、すっかり変わってしまった。

どんなものでもありきたりには描かない。その面では「奇想」かもしれないけれど、奇をてらって異類のものたちやカエルたちを描いているのではないのだった。すべては近しいものであり、心を重ねたものであり、愛すべき者たち。そういうものに暁斎は心を持たせて描いたので、描かれたものは命を注入されて、絵のなかで生きているみたいだった。

◆序章:出会いーゴールドマンコレクションの始まり

ゴールドマンさんのもっともお気に入りの作品が集めている。

「象とたぬき」明治3年以前、コレクションの始まり。一度は売却してしまったものを、夜中に後悔の念にかられ、数年がかりで買いもどしたという話の絵。

 1863年に横浜に象がやってきた。象の目がやさしい。象をみようと前にでで転んでしまった子たぬきに触れているよう。お母さんみたいな象。


他も動物の絵が並ぶ。カエル、ネコ、きつね、なまず。

かわいすぎて私はふにゃふにゃ。

暁斎は彼らを自在に動かし、人間がしているようなことを彼らにさせる。暁斎のしもべ、暁斎の筆を持つ指先の化身みたいに。人間は自分の客観的な姿をみて、ドキッとする。綾小路きみまろさんみたい。

とりわけ「鯰の船に乗る猫」(明治4~12年)のアネゴみたいなネコがお気に入り。

暁斎は鯰をよく登場させる。これは船にされてひげを引っ張られていたけど、「鯰の引き物を引く猫たち」(明治4~22年)では、車にされて引き回され、ヒョウタンでぎゅっとこらしめられている。

大津絵にこういうモチーフがあるらしい。

暁斎は安政の大地震後に出した鯰絵では、鯰を役人や悪政の風刺として描いている。酔った暁斎が自作の戯画を「外国人にへいこらする役人の姿だ」といって、即逮捕。伝馬町の牢に3か月+むちうち50回の刑に処せられてしまったのは、明治3年。情けない鯰は、暁斎の恨み?


ゴールドマンさんはなぜ暁斎をコレクションするのかと聞かれ、「暁斎は楽しいからですよ」と答えた。本当にそうでしたし、きっとゴールドマンさんって人も楽しい。

◆1章:万国飛ー世界を飛び回った鴉たち

当時も、暁斎といえば「鴉」で名をはせていたらしい。

明治14年に第二回内国勧業博覧会で絵画の最高賞を取った「古木寒鴉図」は、暁斎の言い値の100円で榮太郎総本舗が購入。暁斎は、その常識破りな高値を、鴉一羽の値段ではなく、50年の対価だと言った。でも後で榮太郎さんにお金を返しに行くところが、いい人なのね。そのまま購入した榮太郎も粋だねエ。

この一件以降、国内からも海外からも、暁斎の鴉の絵の注文が殺到したらしい。この章に並ぶ鴉だけでも、その数20数羽。(鴉が苦手な私はちょっとぞわっ。)

これだけあっても、同じものは全くない。似ていても、その世界が全く違うのがすごい。鴉の思っていること、狙っている先がすべて異なる。

№11「枯れ木に鴉」明治4-22年は、「日本の筆峰」と印章が。自信が見える。

たった一本で枯れ木を描きだす。老いても枯れても威厳と貫禄がすごい。ジャコメッティを思い出したりした。この鴉は首をもたげ、次の動きのスタンバイ中の瞬間のよう。

 

№12「枯れ木に夜鴉」は、金砂子のついた藍色の紙が夜の暗さを。

先のと似てるんだけど、鴉は首をすぼめて少し丸くなり、古木もかすれを抑え、音のない静かな夜。

 

「烏瓜に二羽の鴉」は、目が鋭く、激しく威嚇しているような。点在する赤い烏瓜と、黒々した鴉、ともに鮮烈な印象。全体的な到達感がすごい。

 

№15,16の「柿の枝に鴉」は、枝のライン、鴉の狙いビーム(?)のラインとで作る交錯感が、双方で違っている。見比べると面白い。

 

一番のお気に入りはこの鴉。全然違うけど、ミレイ「よい決心」を思い出した。

枝と鴉なのだけど、一羽一羽が墨が濃かったり薄かったり、かすれてたり、湿潤な墨だったり、日輪が上にあったり下にあったり、千差万別。

一枚一枚に向き合った暁斎の、修行の軌跡のように見えてくる。暁斎は部屋に鴉を放し飼いにし、鴉が師であるといった。

 


二章:躍動するいのちー動物たちの世界

鴉だけでなく、いろいろな動物を飼っていたらしい。

動きがすごい。体勢がすごい。動物の生き生きした様子。そして、筆意というのがあるとしたら、動物意?を描きだしたような絵から、かわいい絵まで広い。

暁斎邸を訪れたメンペス(ホイッスラーの弟子)は、暁斎が鳥の描き方について語ったことを書き残している、「1、まず観察。2、描くときは記憶のみで描いてみる。3、イメージが消えると再び観察し、記憶に刻む、1~3を繰り返す。」

 

●狩野派の基礎をしっかりと習得した墨の肉筆は、素晴らしかった。

虎、サル、鷺たちが、見とれるほどの墨の美しさ。筆目の迷いのなさ。象の皮膚やサルの毛並みの触感まで巧みな筆力。

暁斎は19歳まで狩野派を学び、その傍らで四条丸山派や琳派も研究していた、と。細部まで観察しているのがわかる。象ってまつげがあるんだ、猿ってこんなところに長い毛が生えてるんだって、絵に教えられた。

象や虎は、中身の骨格までわかるほど。竹内栖鳳にも負けてない。もし明治維新がおこらずに武家や大名が顧客でいられたなら、暁斎はどういう道を進んだんだろう。

余白に漂うというのとは違う。動物が圧倒的な存在感なのは暁斎らしいのかもしれない。

虎も象も、光景の一部ではなく、なにしてるのか、なにを考えているのか、なにを狙ってるのかが絵の前面にでていた。見世物の巡業中の象にも一歩踏み込んで、象的にはちっともうれしくない気持ちを描く。サルは枇杷を白猿に受け取ってもらえるかどきどきしていたし、虎は水に映る自分の姿に張り合っていた。

そういえば「雪中鷺」の外隈の不思議な揺らぎは何だろう?

幽体離脱中??雪が落ちてきた瞬間とか??柳も下の枝も異空間のようだ。

 

●判本の仕事でも、いろいろな動物の絵を描いている。鳥獣戯画風の絵、イソップ童話を描いたもの

「通俗伊蘇普物語」明治8年 は判本。「獅子とクマとキツネ」は漁夫の利のような場面。「鳥と獣と蝙蝠」は、動物満載。鳥と獣はすったもんだに喧嘩しあっているけれど、蝙蝠は様子見。


月に手を伸ばす足長手長、手長猿と手長海老」は、トルストイの「大きなカブ」のお話のよう。


版本はたくさん展示してあってきりがないけれども、どれも楽しい。左下の得意げな猫がたまらないんだけど!。


と思っていたら、錦絵の「雨中さぎ」にどきり。エッセンスのみ描きだす。絵が前に出ているというか。そして白いところには羽のすじがびっしり!細密な線で立体的に入れられてた。

 

錦絵は、芸が細かい。「天竺渡来大評判」文久三年は、見世物で見た象を、自由自在に動かしている。こんなに百変化な動態を描けるんだなあ~~。

暁斎は写生する際に、骨格や動きまで記憶していたのだという。

中でも、鼻でシャボン玉して「タマヤ~」っていうのがお気に入り。人間がこんなにも大喜びしてて。

このシリーズはほかにも数枚あったので、きっと売れたのでしょう。

暁斎の動物は、かわいくてたまらないうえに、どの動物も肢体の動きが自然で動きに満ちていて、たまにひねりが効いていて。見飽きることがなくて困ってしまう。

 


3章:幕末明治ー転換期のざわめきとににぎわい

黒船来航、安政の大地震、下関戦争、長州征伐、西南戦争、暁斎の生きた時代は、動乱の時代だった。

でも暁斎の絵を見ていると、悲壮感とか精神的な混乱などはあまり感じない。暁斎だって武家などの上得意が減ってたいへんじゃないわけなかったと思う。でもきっと暁斎は周りがどんなに動乱の渦にあっても、画業がすべて。画業のことが先にくるから、周りに左右されない。安政の大地震でもまずは死体の写生に飛んでったというのだから。

町の変化は、さっそく絵に描かれる。「各国人物図」を見ると、今の東京よりも日々驚きに満ちた町なのかなと思う。

象にラクダ、辮髪の中国人、西洋人。ラクダをひいている人はどこの国から来たんだろう。

電信柱が町に登場し、人力車をカエルが引いている絵もあった。。この頃って、江戸と明治、国産と外来が、配合の比率を変えながらまじりあっていたんでしょう。


「暁斎楽画」の「化々学校」明治7年 は、妖怪たちが英語のお勉強をしている。と思ったら黒板に「SHIRIKODAMA」。

面白さの中に、自虐がまじる。

 

そしていくつも起こった当時の戦争すら、カエルの合戦や、放屁合戦にすり替わる。

レーザービームみたいな放屁がすごすぎる。

この合戦には、一体何匹のカエルがいるのだろう。

 

一番のお気に入りは、天王祭りのカボチャ人がいっぱいの「家保千家の戯れ」。「畑狂人」と銘がある。子供のカボチャは、頭がまだみどり色で、かわいいなあ。

 

時代の転換期といっても、庶民の暮らしが急に変わるわけではないんだなあ。

暁斎は、世の中から超越した芸術家ではなく、目線と立ち位置は変わらず、庶民。どっぷり市井の人。それでいて体制や、乗せられやすい群衆を、冷静に見ている。そして笑いにしている。

 

ひとつ感じたのが、暁斎のコスモポリタンぶり。暁斎は進歩的なのか?それとも士農工商が廃止されて人権意識が高まった世の中だからなのか?。「人類みな平等、人種、貴賤にかかわらず同じ人間じゃねえか」と思っていたのじゃないか、と絵を見ながら感じる

「五聖奏楽図」では、磔刑の状態でキリストと、お釈迦様、孔子、老子、神武天皇が一緒に演奏をしている

「墨合戦」では、侍も庶民も公家も一緒に墨を飛ばしまくって大暴れ。

それでみんないい笑顔している。

 


4章:戯れるー福と笑いをもたらす守り神

これまでもさんざん笑ってきたので、いまさらという章タイトルだけど、暁斎にかかると、定番画題の吉祥画も生き生きしてる。

鐘馗図は売れ筋の画題。私も大好きな画題。暁斎のはアレンジが楽しい。鐘馗が真面目な顔して、鬼をつりさげたり、蹴り上げたり。やりたい放題。

一番のお気に入りは、鬼の「しりこだま」をおとりに河童を捕獲しようとする鐘馗。これは北斎のパロディなのだとか。

鬼の恥ずかしい赤面が、かわいい×お気の毒〇。

 

蓬莱七福神図もまたまた好きな画題。蓬莱山に遊ぶ七福神が細かい。そしてほのぼのかわいい。恵比寿さんはトレードマークのタイをもうすぐ釣り上げるところ。

 

こんなに笑いのある絵が並ぶなかで、「貧乏神」だけは、笑いがない。

あぶない危ない。こんな顔してたら、こういうヤツが寄ってくる。笑いのないとこには寄ってくる。気をつけなくては。この貧乏神、骨相は正確、細密にあごひげまでしげしげと丁寧に描いていた。その長い時間を暁斎はこの貧乏神とともに過ごしたんだ・・。

 


独立した春画ルームがあった。

春画にも、官能的なの、美しいの、倒錯したの、とかいろいろあるようだけれども、暁斎の春画はおおらかに笑えるタイプ。そもそも登場人物がいい顔して笑っている。解説には「暁斎は、性を笑う「笑い絵」の伝統を生き生きと受け継いだ後の絵師といえるだろう」とあった。

そんななかで「狐のあやかし」明治4~22年は、古い日本の怪奇映画のように趣のある世界だった。笑いではないが、あやかしの狐、背景の妖しい空気感、朱色の薄絹だけまとった女性の表情といい、いったいこの役を演じる女優さんは誰がいいだろう。

 

「5章:百鬼繚乱ー異界への誘い」「6章:祈る」は、次回へ。

 



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