春まぢかの東博。先日すき間時間に18室だけ見に行ってきました。
上野公園には猫たちが暮らしている。全部でどれくらい生息しているのかな。
目当ては、昨年から連続展示の、渡辺省亭の「赤坂離宮花鳥図画帳」。(以前の日記、2016年10月、2017年1月)
「百舌に山茶花・榛(はん)の木」
自然の一コマの写実なんだけれども、省亭の計算は明晰。小さな画面に、鳥の目線、山茶花の目線、縦に降りる榛の実の方向。いろいろなリズムが線を成す、
葉は固い蝕感。湿った花びら。百舌のふかふかとした羽毛。質感の競演のような。
省亭の花鳥画は一瞬の緊迫感がある。
そして散り始めた花に、自然でさりげない現実感。省亭の絵には、べったりしたした浪花節みたいなところはない。
「小鴨に葦」
水面に隠れる鴨の部分が、すうと消えるように書かれて。葦は少ししか描いていないのに、何倍にも感じられるもの。
三羽とも後ろ姿。こちらがそっとのぞきみているような気になる。
「桃色鸚哥に科(しな)の木」
おしゃもじ型ラインに実がぽつぽつと。鮮烈な濃ピンク。
「鶉に蓼・野菊・釣鐘人参」
それにしてもいろいろな木や花の名前がでてくる。省亭はよく知っているなあ。
鶉が飛んでいる!鶉って地面にいる絵しかみたことなくて、飛ばない鳥だと思っていたかも。
でも気づくと、低い丈の草花ばかり。実はうずらは少ししか飛び上がっていないのだ。がんばっているけど。
それでも鶉の飛ぶ先には、画面の外にも大きな世界が広がっている。なんだか冒険的でほほえましい。
珍しく、複数の花が描かれている。
枯れた葉がしみじみ。もはや無常という感じもせず、COOL。
それにしても、細密なところまで本当にうまい。
あじさいにも見惚れた。
「鷦鷯(みそさざい)に紫陽花」
つぶつぶの花のところを凝視
あじさいの枝の曲線が、縦の弧を描きながら画面外へ伸びていく。その先へ飛び立とうとする小鳥。
省亭のクールな世界の中で、どの絵でもたっぷりの情感を含むのが、小鳥の眼。
「アカゲラに檜」の大胆さには、びっくり。縦に分断。影と光の部分に二分している。
檜の幹はぎりぎりまで余計なものを捨て、まっすぐ墨で掃いただけ。逆光の光に静かに葉が浮かんでいる。
赤い色の絶妙な少なさ。
「行々子(おおよしきり)に葦」
斜めに走る線の中に、体温を感じるオオヨシキリのおなか。一羽も正面を向かず、動きのある鳥たちの一瞬。
たらしこみ、にじみ、濃淡を生かした葉に見とれた。
「小鷺」
ほとんど二羽の鷺のみしか描かれていないのに、伝えてくる情感。
羽毛の感じがこんなにもリアルだけれど、地の色を生かしてザッザッと胡粉でひかれただけなのだった。
それでよけいにかたちが際立つ。体とトサカ?の丸いライン。硬質なくちばしと足の直線ライン。他にほとんど何も描かなかった省亭。
「雉にわらび」はシュールな。
くねり立つ手下みたいな蕨のなかを、帝王のように歩いてくる雉。真打登場みたいな迫力。観る私の呼吸を一瞬止める。
それにしても、線でもしっぽでも細部でも、手を抜かず本当に細密に描くものだと、あらためて感じ入る。構成力やデザインの妙味だけではないのだと思う。よく見て、誠実に描くことなんだと思う。前の日記で書いたように、偉くなっても、日本画をとりまく社会が変化しても、軸がぶれない省亭の姿。
「駒鳥に藤」
藤とつるの縦のラインに、くるんと巻くつるや、体をくねる駒鳥。いろいろなリズムを仕込んである。
抑えた色彩。西洋的な表現もとりこみつつも、ベースに澄んだ墨の色があって、密やかな世界だった。
小さな楕円から、その奥にも左右上下にも、広がる世界。枝の先の方向、鳥の目線、くちばしの向く先、太い幹のベクトル、いろいろなものが画面を自然の世界へと広げている。
それでいて、無駄なものは一切描かれていない。余計な色も一切使われていない。全て必然。必要にして十分。その潔さ。
どの絵も、省亭が作った数秒の短編ビデオのようだった。抒情感といっても、しめったものは排している。そしてこの画面の前にも後にも続くストーリーまでも描き出している。
制約ある画面だからこそなのか、制約を倍返しにしたような無限の広がりのある花鳥図だった。
もう一点、渡辺省亭「雪中群鶏図」
明治26年のシカゴ万博に出品されたもの。42才ごろ。
小さな花鳥画ばかり見ていたので、大きな作品は初めて。丸とひし形に、三角形を成す鶏。
光を浴びているのに、びっくり。
荷車にかぶった雪は、外隈。若冲の雪中群鶏図を思い出すと、あのねっとりとした粘着質の雪と違って、省亭の雪はあっさりすっきり。
材木の質感も、墨の濃淡だけで。
描き込まず、引き算、さらに引き算で、これだけの世界を仕上げるなんて。
透けるような清明な光なのに、奥行き感がすごい。「洋風表現を取り入れ」とのこと、なんなく使いこなし、全く取り込まれない。洋画界や日本美術院系の画家が苦悩している中で、ぶれがない省亭の強さ。
吉田博を思い出す。吉田博は「むまい(上手い)」ということを重視したそう。精神論やら芸術論やらのまえに、まずはそこでしょ!みたいな基本姿勢が、省亭にも共通するかもと勝手に想像している。10代にみっちり写生を仕込まれたこと、早々に海外に渡った経歴、主流画壇に迎合しないところも似ているような。二人の絵に心を打たれるのは、その軸があるからかもしれない。
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18室で他に心に残った絵
飯島光峨(1829~1900)「花下踊鯉」1874
これにはびっくり。現代感覚な不思議な感じ。
この水の跳ねのキラキラ感。超高感度カメラで撮ったみたいな。
現代の作家かと思ったら、なんと江戸時代、文化年間生まれの狩野派の絵師。45歳頃の作。
水も、花も、鯉もどれもが印象的。妖し気なのか、ファンタスティックなのか、どちらに振れるのだろう
幹の点苔もはっきりと。月夜に輝くように色が映えている。
月と櫻は見上げる視線。鯉と水面は見下ろす。二つの場面が一枚に入って、どこか異空間な感じがするのはそのせいもあるのかも。
不思議なこの方、谷中の全生庵の三遊亭圓朝の幽霊画コレクションに怖げな女性幽霊図があるらしい。高橋由一、柴田是真らと交流があったらしいのも興味ひかれるところ。またいつか出会えるかな。
河鍋暁斎「龍観音像」
二帖ほどあるくらいな大きな作品。長すぎて下の方は底についてしまっていた。
龍や木のは荒々しくひかれ、かすれ、ものすごい気迫。短いタッチで一気呵成に。
でも、観音様の衣は白く、流れるように長くすうとひかれている。眼で追うと、なにかが流れて、デトックス効果ありそう。
そしてお顔の穏やかさ、静かさ。暁斎、ずるい。いつも驚かせておいて、仏様や観音様の顔でほろりとさせる。ほんとは痛みがわかる優しい人なんだろうね。
今村紫紅「風神雷神」
木島櫻谷「朧月桜花」
外に出ると、科学博物館前に広重の名所図行燈がいい感じでした。