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ぱち、ぱち、と碁石が盤上を行き来する音を聞きつつ、少年・諸葛孔明は老爺におしえられた酒店の入り口に立った。
囲碁をしている男たちは熱中していて、孔明の存在に気づいていないようである。
見たところ、孔明の立っている場所から右手にいる男のほうが負けているようだ。
『あそこに打ったら形勢を逆転できるのに。けれど、口を出したら怒られそうだな』
賢明に判断した孔明は、負け始めていて、うなっている男に同情しつつ、酒店に入ろうとした。
店内は薄暗く、入口に立っただけで安い酒と、脂っこそうな料理の匂いがぷんぷんした。
雰囲気は陰気で活気が感じられず、ちょっとのぞいただけでも、どんよりした目つきの男が卓をまえに酒をちびちびやっているのが目に入るほどである。
『ほんとうに叔父上がいるのだろうか。いったいどんな用事でこんなところに入ったのだろう』
柔和な外見とはうらはらに、なかなかに気の強いところのある孔明をして、中に入るのはためらわれた。
店の人間も、孔明が入口に立っていようと、声すらかけてこない。
叔父の諸葛玄が、襄陽に到着するなり、何者かに呼び出されて宿を出ていったのが昼前のことだった。
行き先をだれも知らなかったため、なかなか帰ってこない諸葛玄を心配して、午後になって孔明がひとりで宿を飛び出したのだ。
心配性の大姉の目を盗んで出てきたので、きっと帰ったら大目玉を食うだろう。
それも覚悟のうえで、孔明は酒店の前に立っている。
諸葛玄と豫章をめぐって戦い、勝利した朱皓が、襄陽まで刺客を放っているとは考えづらい。
しかし、万が一ということもある。
『それをいうなら、叔父上の甥のわたしも危ないわけだが』
大丈夫だろうと、孔明は踏んでいる。
朱皓は凡庸な男だった。
そして、残酷な男ではなかった。
豫章から諸葛一族が落ちのびるさい、兵法どおりに逃げ道を用意してくれたし、追っ手もかけてこなかった。
むしろ、そのあとに懸賞金目当てに襲ってきた有象無象のほうが、よほど質が悪かったくらいだ。
おそろしい賞金稼ぎたちから必死で逃げて、諸葛一族は襄陽に落ち延びることができた。
いまはすこし落ち着いて、みなで宿の世話になっている。
二日後には、豫章へ赴任するよう命令をくだした劉表と、諸葛玄は面会をすることになっていた。
孔明もそのときは同伴することになっている。
『ごめんくださいと客のフリをすべきか、それとも素直に人を探しているというべきかな』
孔明が逡巡していると、酒店の二階から、なんと、諸葛玄そのひとが降りてきた。
探すまでもなかった。
ホッとして、孔明は叔父の名を呼ぼうとした。
諸葛玄のほうは、まだ孔明に気づいていないらしい。
それどころか、暗い店内のその闇の澱にそのまま溶け込んでしまうのではというほど暗い表情をして、陽気なかれにしてはめずらしく太いため息を吐いている。
なにかあったのか。
だれとあったのか。
思わず、孔明は諸葛玄に声をかけていた。
「叔父上」
その声に、諸葛玄は針で突かれたように、はっと顔をあげた。
さらには、甥っ子の姿を目の前に見つけて、ますます顔を蒼くしている。
「お迎えに参りました。どなたと一緒だったのですか」
「いや、おまえとは関係ない。おまえは一人でここへ来たのか」
はい、と答えると同時に、二階につながる階段から、だれかがゆっくりと降りてくるのがわかった。
『叔父上と一緒だった方かな。挨拶をしたほうがよいだろうか』
そう思って、階段のほうを見ようとしたが、諸葛玄が立ちはだかった。
どうやら、諸葛玄は自分がだれと会っていたか、それを知られたくないようだ。
「もうここには用はない。宿に帰るぞ」
「でも」
諸葛玄が嫌がっているのはわかったが、孔明の持ち前の好奇心が階段を降りてくる人物に目を向かせた。
格好からして男だ。
手が見える。
日に灼けていて、皺もある。
初老の男。
だが、あいにく顔をよく見ようとする前に、諸葛玄に強く腕をひっぱられて、店の前に連れ出されてしまった。
「叔父上のお知り合いの方でしょう。わたしも挨拶をしたほうがよいのでは」
「よい。それより、早く宿に帰るぞ。みな心配しているだろう。
とくに、おまえが伴も連れずに出歩いているのだから」
「わたしももう、子供ではありませぬし」
「冠礼もおこなった。字も授けた。だが、まだまだ」
諸葛玄の声色が、いつもの明るい調子に戻っている。
孔明は安堵して、足早に酒店から去ろうとする諸葛玄のあとにつづいた。
「明日からは、宿ではなく、わが旧知の家に世話になるぞ」
「そうでしたか。叔父上のご友人のお屋敷は広いのでしょうか」
「そこそこだ。だが、いまの宿よりは広い。
それにしても亮よ、どうしてわたしがあそこにいるとわかったのだ。
わたしは行き先を告げていなかったはずだが」
「襄陽の街の地理は、この二日でだいたい把握いたしました」
「二日でか。襄陽の街は狭くはないぞ」
「整然とした街ですから、かえって覚えやすかったですよ」
こともなげにいう孔明に、諸葛玄は、ほお、と感嘆の声をあげる。
「そこで頭の中で地図を作りました。どこになにがあるか、ほぼわかっております。
もうこの街はわたしの庭のようなもの。
それに、叔父上は背が高いし目立つので、だれかが通りすがりに見ていて覚えているだろうと思いました。
あとはしらみつぶしに、街を観察していそうな人に声をかけていったのです」
「おまえには驚かされる」
諸葛玄はそういって、痛快そうに笑った。
その大きな笑い声に、道行く人がなにごとかと振り向いてくる。
孔明は、この叔父の明るい笑い声が好きだった。
つづく
ぱち、ぱち、と碁石が盤上を行き来する音を聞きつつ、少年・諸葛孔明は老爺におしえられた酒店の入り口に立った。
囲碁をしている男たちは熱中していて、孔明の存在に気づいていないようである。
見たところ、孔明の立っている場所から右手にいる男のほうが負けているようだ。
『あそこに打ったら形勢を逆転できるのに。けれど、口を出したら怒られそうだな』
賢明に判断した孔明は、負け始めていて、うなっている男に同情しつつ、酒店に入ろうとした。
店内は薄暗く、入口に立っただけで安い酒と、脂っこそうな料理の匂いがぷんぷんした。
雰囲気は陰気で活気が感じられず、ちょっとのぞいただけでも、どんよりした目つきの男が卓をまえに酒をちびちびやっているのが目に入るほどである。
『ほんとうに叔父上がいるのだろうか。いったいどんな用事でこんなところに入ったのだろう』
柔和な外見とはうらはらに、なかなかに気の強いところのある孔明をして、中に入るのはためらわれた。
店の人間も、孔明が入口に立っていようと、声すらかけてこない。
叔父の諸葛玄が、襄陽に到着するなり、何者かに呼び出されて宿を出ていったのが昼前のことだった。
行き先をだれも知らなかったため、なかなか帰ってこない諸葛玄を心配して、午後になって孔明がひとりで宿を飛び出したのだ。
心配性の大姉の目を盗んで出てきたので、きっと帰ったら大目玉を食うだろう。
それも覚悟のうえで、孔明は酒店の前に立っている。
諸葛玄と豫章をめぐって戦い、勝利した朱皓が、襄陽まで刺客を放っているとは考えづらい。
しかし、万が一ということもある。
『それをいうなら、叔父上の甥のわたしも危ないわけだが』
大丈夫だろうと、孔明は踏んでいる。
朱皓は凡庸な男だった。
そして、残酷な男ではなかった。
豫章から諸葛一族が落ちのびるさい、兵法どおりに逃げ道を用意してくれたし、追っ手もかけてこなかった。
むしろ、そのあとに懸賞金目当てに襲ってきた有象無象のほうが、よほど質が悪かったくらいだ。
おそろしい賞金稼ぎたちから必死で逃げて、諸葛一族は襄陽に落ち延びることができた。
いまはすこし落ち着いて、みなで宿の世話になっている。
二日後には、豫章へ赴任するよう命令をくだした劉表と、諸葛玄は面会をすることになっていた。
孔明もそのときは同伴することになっている。
『ごめんくださいと客のフリをすべきか、それとも素直に人を探しているというべきかな』
孔明が逡巡していると、酒店の二階から、なんと、諸葛玄そのひとが降りてきた。
探すまでもなかった。
ホッとして、孔明は叔父の名を呼ぼうとした。
諸葛玄のほうは、まだ孔明に気づいていないらしい。
それどころか、暗い店内のその闇の澱にそのまま溶け込んでしまうのではというほど暗い表情をして、陽気なかれにしてはめずらしく太いため息を吐いている。
なにかあったのか。
だれとあったのか。
思わず、孔明は諸葛玄に声をかけていた。
「叔父上」
その声に、諸葛玄は針で突かれたように、はっと顔をあげた。
さらには、甥っ子の姿を目の前に見つけて、ますます顔を蒼くしている。
「お迎えに参りました。どなたと一緒だったのですか」
「いや、おまえとは関係ない。おまえは一人でここへ来たのか」
はい、と答えると同時に、二階につながる階段から、だれかがゆっくりと降りてくるのがわかった。
『叔父上と一緒だった方かな。挨拶をしたほうがよいだろうか』
そう思って、階段のほうを見ようとしたが、諸葛玄が立ちはだかった。
どうやら、諸葛玄は自分がだれと会っていたか、それを知られたくないようだ。
「もうここには用はない。宿に帰るぞ」
「でも」
諸葛玄が嫌がっているのはわかったが、孔明の持ち前の好奇心が階段を降りてくる人物に目を向かせた。
格好からして男だ。
手が見える。
日に灼けていて、皺もある。
初老の男。
だが、あいにく顔をよく見ようとする前に、諸葛玄に強く腕をひっぱられて、店の前に連れ出されてしまった。
「叔父上のお知り合いの方でしょう。わたしも挨拶をしたほうがよいのでは」
「よい。それより、早く宿に帰るぞ。みな心配しているだろう。
とくに、おまえが伴も連れずに出歩いているのだから」
「わたしももう、子供ではありませぬし」
「冠礼もおこなった。字も授けた。だが、まだまだ」
諸葛玄の声色が、いつもの明るい調子に戻っている。
孔明は安堵して、足早に酒店から去ろうとする諸葛玄のあとにつづいた。
「明日からは、宿ではなく、わが旧知の家に世話になるぞ」
「そうでしたか。叔父上のご友人のお屋敷は広いのでしょうか」
「そこそこだ。だが、いまの宿よりは広い。
それにしても亮よ、どうしてわたしがあそこにいるとわかったのだ。
わたしは行き先を告げていなかったはずだが」
「襄陽の街の地理は、この二日でだいたい把握いたしました」
「二日でか。襄陽の街は狭くはないぞ」
「整然とした街ですから、かえって覚えやすかったですよ」
こともなげにいう孔明に、諸葛玄は、ほお、と感嘆の声をあげる。
「そこで頭の中で地図を作りました。どこになにがあるか、ほぼわかっております。
もうこの街はわたしの庭のようなもの。
それに、叔父上は背が高いし目立つので、だれかが通りすがりに見ていて覚えているだろうと思いました。
あとはしらみつぶしに、街を観察していそうな人に声をかけていったのです」
「おまえには驚かされる」
諸葛玄はそういって、痛快そうに笑った。
その大きな笑い声に、道行く人がなにごとかと振り向いてくる。
孔明は、この叔父の明るい笑い声が好きだった。
つづく