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夢想⑧―11 エクリチュールの真髄

2009-11-22 06:35:22 | 感想その他
 「どんな衝撃でも私に激しい、しかし短い間の運動を起こさせる。衝撃がなくなればすぐに運動はやみ、伝達されて私のうちに長く留まっていられるものはなに一つない。こんな風に出来ている人間に対しては、運命が引き起こすどんな事件も、人間のあらゆるからくりもほとんど影響を持たない。私に永続的な苦悩を感じさせるにはその印象が瞬間ごとに更新されなければなるまい。なぜなら、どんな短い間の中断も十分に私を私自身に立ち返らせてくれるからだ。人々が私の官能に働きかけることが出来る間は、私は彼らの好きなようになっている。けれども弛緩が生じた最初の瞬間に、私は再び自然が欲したとおりのものになる。これこそ、人がどんなことを試みでも、私の絶えて変わらない状態なのであって、それによってこそ、運命の悪戯にもかかわらず、幸福であるように生まれついたと感じている私は、まさにその幸福を味わっている」(今野一雄訳)

 熟読したい文章である。よく読むと、これはルソーがこの文章を書きつつ感じている幸福について書いているのだ。つまり、《書くという行為》の幸福を。それは彼の思想のキーワードである《自然状態》にあるエクリチュールの真髄を語っている。私が『バガヴァッド・ギーター』について触れたときに書いた瞑想の境地、「純粋意識」のアナロジーあるいは戯画的なあり方としての《エクリチュールの白紙》を思い起こして欲しい。
 《自然状態》とは、《社会状態》を取り除いた跡になお残る概念であって、現実的には近似値的にしか存在しない。(ルソーは、おそらくDNA遺伝子レベルでさえも、社会状態の側の概念であって、自然状態として認めないだろう)。
 それは現象学で言う、記述的な概念である。「これら多様なものは、その都度の可能的綜合によってノエシス―ノエマ的に互いに関連し合って一体をなしている」(岩波文庫『デカルト的省察』102頁)。視覚的には見えない、描かなければ存在できない量子力学的概念なのだ。もっと正確には、存在しないものを書こうとする、描こうとする、想像する世界なのだ。ベルクソンでは《イマージュ》、フッサールでは《現象学的還元》。そして、ルソーでは《自然状態》。ついでに言えば、柳田國男では、「遠野物語」のような古代と共存する現在。いずれも《エクリチュールの白紙》という概念で深いところで統一できるはずである。
 次は「第九の散歩」である。


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