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日記・物語・エッセイ・感想その他

人間不平等起原論28 最終回

2011-03-31 07:02:16 | エッセイ
 ルソーの「自然状態」とは、原始時代の現実を想像したというよりも、現実の高度に文明化された社会を、相対化し、それを豊かに変革するために開発され、精緻に仕上げられたプラトン的な幾何学的なモデルであり、「社会状態」を的確に批判するための装置である。「自然状態」の概念の強固な構造は、「社会状態」という疎外の呪縛の強度によって、逆説的に付与されている。
しかも、それは単なる観念的な批判ではなく、人間存在の深部まで届くことは、多くの文学作品を理解するための鍵になることからも理解できる。例えば、極めて類型的な指摘になるが、太宰治の「人間失格」における、主人公大庭と堀木との対比は、「自然状態」と「社会状態」とに一致する。この物語で描かれる、幼児性、あるいは無垢性、処女性は「自然状態」である。フロイト精神分析の領域でも、エディプスコンプレックスは、社会的な症状と認められた心理的な疾患ために見出された現象学的装置という点で、「自然状態」と同じ位置にある。レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』は、ルソーの「自然状態」に導かれて西欧文化全体を相対化するための浩瀚な思想的な営為と呼べよう。

人間不平等起原論27

2011-03-30 06:47:45 | エッセイ
「私がこのような原始状態の仮定についてこれほど長々と述べてきたのは、古い誤謬と根深い偏見とを打ち壊さねばならず、それには根元まで掘り下げて、不平等なるものがたとえ自然的なものであっても、我が著作家たちの主張するような現実性と影響力をこの状態の中で持つにはいかほど遠いかということを、真の自然状態の画面の中で示さなければならないと考えたからである。実際、人々を区別する差異のうちで、幾つかのものは、自然的な差異として通っているが、それらが単に習慣と、社会の中で人々が採用する様々な生活様式との産物であることは見やすいことである」(80頁)

 「我が著作家たち」は、ホッブズなどを指している。本書の結論に当たる、この文章で、重要なのは、問題を発祥の「根元まで掘り下げ」る、という現象学的な方法を、ルソーはすでに先取りしていて、しかも、彼の思考が現象学のような哲学の衣という制約を受けていないことだろう。

人間不平等起原論26

2011-03-29 06:46:45 | エッセイ
「恋愛の生理的なものだけに限られ、感情をかきたてたり困難を増したりするあの愛の選り好みを知らないほど幸福な人々は、激しい愛欲をしばしば、又、強く感じるはずもなく、したがって互いに争うこともより稀で、それも大して残酷でないに決まっている」(77頁)

 ルソーが現実の恋愛をむやみに否定しているのではない点に注意したい。未開人を例として「自然状態」から恋愛を批判している。近代の恋愛至上主義に対する相対化の試みである。恋愛は文化の産物に過ぎず、必ずしも必要なものではない。恋愛の選り好みは、趣味や虚栄に過ぎないと言い切っている。恋愛の熱病に罹った人間にはささやかな清涼剤といえる見解であろう。一般的な性的な欲求と特定の対象へのフェティシズム的な固着には、なんら合理性はなく、矛盾を人間存在に強いているだけだと。つまり、「社会状態」という異常な依存関係から生じた矛盾である。「女であれば誰でも」という女たらしめいたここでの文章も、たらしこんだ女の数を競う気持や性的に固着した人物のセリフではない。

人間不平等起原論25

2011-03-28 06:49:23 | エッセイ
「初めに恋愛感情の中の精神的なものと肉体的なものとを区別しよう。肉体的なものとは、異性同士を互いに結びつかせるあの一般的な欲求である。精神的なものとは、その欲求を決定しそれをもっぱら唯一つの対象に固定させ、あるいは少なくともその選ばれた対象のためいっそう高度の精力をその欲求に注ぐものである。ところで、この恋愛における精神的なものは社会の慣用から生まれる人工的な感情であって、この感情を、婦人たちが、自分の支配力をうち立て、本来服従すべき性を優勢にするために、非常に巧妙に又入念に褒め称えるのは、容易に分かることである。この感情は、未開人には決して持つことのできないある種の価値または美の観念や、未開人には決して行うことのできない比較に基づいているのだから、彼にとってはほとんど無価値であるに違いない。なぜなら、彼の精神が規律正しさや釣り合いというような抽象的な観念を作り上げることが出来なかったように、彼の心情もやはり――感嘆や恋愛の感情を抱きやすくないからである。そういう感情は、人はそれに気づいていなくても、それらの観念の適用から生まれるものなのだ。すなわち、未開人はもっぱら自然から受けた気質の言うことだけに耳を傾けて、自分の獲得できなかった趣味には耳を傾けない。そこで彼にとっては女性であれば誰でもよいのである」(77頁)

 「本来服従すべき性」というところに異論があろうが、ルソーのアダムとイブ以来の聖書観からもたらされた考え方であろう。その部分以外は、ルソーの天才的と呼んでも良いような緻密で明晰な分析が光る文章であろう。性的な魅力なるものが、一見、自然の感覚のようでいて、実は、社会的な価値観に左右されていることを的確に見抜いている。また、「観念」という用語を「言葉」に置き換えて読むと、社会生活における言葉の果たす役割の大きさをルソーは描いているようでもある。

人間不平等起原論24

2011-03-27 08:36:45 | エッセイ
 人間の「自然状態」における生活感情としての憐れみの情を取り上げて、ルソーは、本来「社会状態」のものである法律と道徳に頼らない、自律調整的な制御の自足的な基礎を明らかにする。
 次の引用で、ルソーは人間感情において大きな比重を占め、軋轢となる愛情生活について考察する。一見、社会生活と直接関連がないと思われる恋愛感情についての分析は見事である。ルソー自身の生涯が、サロン的な恋愛遍歴と夫婦生活で、当時から非難の的とされたことでも分かるように、矛盾だらけであったことを思い出さずにはいられない。
 しかし、思想的な作品の本質は、著者の性格と生涯が、それと直接にはかかわらず、その補助的な傍証に留まるのではなかろうか。内面の一貫性は的確につらぬかれている。

人間不平等起原論23

2011-03-26 06:51:58 | エッセイ
「憐れみが一つの自然的感情であることは確実であり、それは各個人における自己愛の活動を調節し、種全体の相互保存に協力する。他人が苦しんでいるのを見てわれわれが、なんの反省もなく助けに行くのは、この憐れみのためである。また、自然状態において、法律、習俗、美徳のかわりをするものはこれであり、しかもその優しい声には誰も逆らおうとしない長所がある。すべての丈夫な未開人は、どこかほかで自分の生活物資が見つけられるという希望があれば、か弱い子供や病弱の老人が苦労して手に入れた生活物資を取り上げる気を起こさせないのは、この憐れみの情である。「他人にしてもらいたいと思うように他人にせよ」というあの崇高な、合理的な正義の格率のかわりに、「他人の不幸を出来るだけ少なくして汝の幸福を築け」という、確かに前のものほど完全ではないが恐らくいっそう有効な、自然の善性についてのもう一つの格率をすべての人の心に抱かせるのは、この憐れみの情である」(74頁)

人間不平等起原論22

2011-03-25 06:32:36 | エッセイ
「この著者は自分の定めた原理について推理するときに、自然状態とはわれわれの自己保存のための配慮が他人の保存にとって最も害が少ない状態なのだから、この状態は従って最も平和に適し、人類に最もふさわしいものであった、と言うべきであったのだ。ところが彼は、未開人の自己保存のための配慮の中に、社会の産物であり、法律を作る必要を生み出した多くの感情を満足させたいという欲求を、故なくして入れた結果、まさに反対のことを言っている。悪人とは頑丈な子供なのだ、と彼は言う」(70頁)

 ルソーの反論は、ホッブズが「自然状態」を論ずるのに、主として「社会状態」の中で発生する悪徳を論拠として、不当に混入させているとする。ルソーに言わせれば、悪人とは幼心を失った頑迷な大人ということになろう。

人間不平等起原論21

2011-03-24 07:05:37 | エッセイ
 ルソーは細心の注意を払い慎重にペンを進めているので、回りくどくて分かりづらいが、このように言っている。いったん成立した社会においては、言語は不可欠だとしても、社会生活成立以前に言語が必要不可欠としたかどうかは大いに疑問である。なぜなら、通常の状態では、猿や狼よりもずっと自然に適応する能力に恵まれている人間が、群れをなして社会を作る必然性はどこにもなく、社会生活を前提とする言語さえも必要であったか、どうか、疑問を投げかけている。
 ついで、ルソーは、イギリスの政治学者ホッブズ(1588-1679)を反駁して書いている。ホッブズは『リバイアサン』の著者として今日も知られており、その学説によれば〈万人の万人に対する戦い〉が社会成立以前の自然状態だとする。

人間不平等起原論⑳

2011-03-23 07:59:25 | エッセイ
 長い引用になったが、感性的で個別的な人間存在から出発して、知的でありながら疎外された社会的な人間存在に至るというルソーの一貫した方法が、言葉の起原についても綿密に適用されている。抽象を捉えれば具体は見えず、具体を見れば抽象が捉えられないという関係にある。ルソーは次のように、ここでの言語論を締めくくっているが、当然のことながら、人間存在にとって言語の起原は、根源的な問いであろう。彼の思想の真骨頂がここにあると言える。彼が特殊な困難な状況における人間性を前提にしているのでないことに注意したい。(彼には別に『言語起原論』があることを注記しておく。)

「言語の制定にとってすでに結合した社会が必要であるのと、社会の設立にとってすでに発明された言語が必要であるのとどちらがより必要なものであろうか、という問題である。こうした起原の問題がどうであろうと、人々をその相互の欲求によって接近させ、彼らに言葉の使用を容易ならしめるための配慮を、自然がほとんど行わなかったということから考えて、自然がいかに彼らの社交性を準備することが少なかったか、そして彼らがそういう絆を打ちたてるために行ったあらゆることに、自然がいかに寄与するところが少なかったかを、少なくとも知ることが出来る。実際、このような原始状態において、猿や狼がその同類を必要とするよりもむしろ人間の方がほかの人間を必要とする理由を想像することは不可能である」(67頁)

人間不平等起原論⑲

2011-03-22 07:08:32 | エッセイ
「一般観念は語の助けを借りないでは精神の中に導入されることは出来ないし、悟性は文章によらないでは一般観念を把握しない。これが、動物がなぜそのような観念を作ることが出来ず、また、それに依存する改善能力を決して獲得し得ないかという理由の一つである。一匹の猿が少しもためらわずに一つの胡桃からほかの胡桃に飛び移るとき、彼がこの種の果実について一般観念を持っていて、その原型をこの二つの個体と比較しているのだ、というふうに考えられるだろうか。疑いもなくそうではない。一方の胡桃を見たことが他方の胡桃から彼が受けた感覚を記憶から甦らせ、そして彼の目が、幾分変容されて、これから受け取ろうとしている変化を彼の味覚が告げ知られるだけのことである。すべての一般観念は純粋に知的なものである。ほんの少しでも想像がそれに混ざると、直ぐにその観念は個別なものになる。木一般のイメージを心に描いてみるが良い。あなた方にはどうしてもそれが出来ないはずである。あなた方がそうしまいと思っても、小さいか、または大きい木を、葉のまばらなか、または繁っている木を、色の薄いのか、または濃い木を見ないわけにはいかないだろう。そしてあらゆる木に見出されるものしか見ないことが、あなた方の意向次第であるとすれば、そのイメージはもはや一本の木に似ていないだろう。純粋に抽象的な存在は同じようにして思い浮かべられ、または言葉(ディスクール)によってのみ考えられる。……それゆえ一般観念を持つためには、文章を言い表さなければならないし、話さなければならない。というのは、想像が停止するや否や、精神は言葉(ディスクール)の助けを借りないかぎりもはや前に進まないからである。そこで、初期の発明者たちが、すでに彼らの持っていた観念にしか名称を与えることが出来なかったとすれば、最初の名詞は固有名詞以外ではけっしてありえなかったということになる」(64-65頁)