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日記・物語・エッセイ・感想その他

DVD「ポルノグラフィア」を観る

2011-11-09 17:09:47 | エッセイ
 レンタルのDVDを借りるのに、題名が一応参考になる。が、内容とかけ離れたとんでもない迷作にぶつかる。「尻に憑かれた男」というブラジル映画がある。このデスクには、女の尻に頬ずりしている中年男がプリントされている。ポルノ映画かと思って借りれば、なかなかの芸術品で、女の美しい尻を堪能できるばかりか、ジョルジュ・モランディの静物画並みの映像美に圧倒された。
 「ポルノグラフィア」というポーランド映画を見つけた。これにも少女が大股を開いた写真がプリントされているが、とりわけ下品というほどではない。ポルノグラフィを辞書で引くと「性的な興味をそそるような描写を主とした文学・書画・写真・映画の類」とある。こんな定義を適用すれば、アメリカ映画などほとんどどぎつい性交を描いており、私に言わせれば、九十%がポルノ映画と言って良い。借りてきた「ポルノグラフィア」は掘り出し物であった。
 簡単にストーリーを記しておく。ナチスが敗色を濃くしているポーランド戦線、独軍の支配下にある田舎村が舞台である。ヴィトルド(語り手)とフレデリクの二人組が友人ヒポリト宅に滞在して退屈を持て余している。そこで美少女ヘニア(ヒポリトの一人娘)と使用人の美少年カロルと出会う。二人は幼馴染なので仲がいいが、恋愛感情はない。少女の方は、近郊の裕福な弁護士ヴァツワフと婚約している。芸術家の二人組は、幼馴染二人の恋愛感情を目覚めさせて、この婚約を破談に追い込むことを、暗黙の約束事とする。この企ては、覗きとも言える、かなり淫靡なものであり、題名の由来でもある。もっと端的に言えば、彼らのストーリーに沿って二人を恋愛に追い込み、二人を主人公にした小説か、戯曲を作り上げようというのだ。それも、作者の干渉をできるだけ避けて、彼らが無意識に自然に――。ヴァツワフは、そんなこととは知らずに、二人の若者の仕組まれた行動を覗き見することとなり、嫉妬の感情が芽生える。
 婚約者の邸宅で会食があって、みんな呼ばれる。弁護士を女手一つで育て上げた母親は、敬虔なカトリック信者で立派な婦人である。会食中に、婦人が席を立ち台所へ行ったときに事件が起きる。忍び込んでいたコソ泥にナイフで刺されて、大量の出血、みんなが見守る中で他界する。コソ泥の少年は近くで捕えられ、連れてこられる。少年は、自分の傷口を見せて、暗闇の中で婦人ともみ合ううちに、婦人は自分の台所ナイフで刺したのだと。誰も信じようとしないが、フレデリクは、犯人の言い分を信じている。婦人は、暗闇の中で動転して、カトリック信者に似合わぬ殺人を犯すところであったのだ。とっさの場合、信仰も役に立たなかった――。犯人の少年は、警察沙汰にせずに、ヒポリトの屋敷に連れてこられ、監禁される。戦時なので、いずれ私刑の対象になるのであろう。ヴァツワフは、最愛の母を突然失い、婚約者の仕組まれた疑惑の行動で、混乱状態に陥る。ヒポリトは、外聞を気にして、娘の婚約者によるリンチを許さない。
 独軍はいよいよ窮地に陥っている。ヒポリトの屋敷に出入りしている独軍の高級将校シェミャンの殺害の命令が、地下組織から下される。部屋に閉じこもる将校に、だれが手を下すか問題となる。大人がみんな尻込みするなかで、フレデリクは、カロルにやらせようと提案。衆議一決してカロルに伝えられる。彼に動揺はない。あたかも、小説の役割のように。フレデリクの策略で、ヘニアが部屋をノックして扉を開けさせて、カロルが飛び込んでナイフで将校を殺害するというもの。つまり、若い二人の共犯。なんと飛び込んで殺害したのは、中に潜んでいたヴァツワフであった。将校はすでに弁護士によって殺害されていたのだ。ヴァツワフにとって、ヘニアの登場は予想もしなかったであろう。母親殺しとダブって、息子が私たちには見える。自殺か他殺か。
 戦時下に、恋愛遊びのような物語設定は、確かに違和感がある。ただし、ポーランド知識人は、複雑な状況下にあったことを忘れてはならない。地下組織は、共産主義者に握られていたであろう。実際、戦後、ポーランドは長い間、ソ連の衛星国とされたのだから。もちろん、カトリック勢力も抵抗できなかった。ヒトラーとスターリンのはざまで、彼らは苦悩して、一種の芸術至上主義の雰囲気を醸し出したのだ。エロチシズムに導かれて、純粋な小説を描く。そこに芸術家二人組の目論見があった。原作はポーランドの文豪ヴィトルド・ゴンブロヴィッチである。「わたしはエロティックでない哲学を信じない。わたしは非セックス化された思想を信用しない」、これは原作者の言葉である。私はかならずしも、信ずるわけではないが、退廃の題名には、説得力がある。

嗤う荷風

2011-11-09 17:01:12 | エッセイ
不可解で、不愉快なことがある。初めから、プロパガンダめいた文章は書きたくないのだが、原発事故のことである。
福島県出身の元プロスポーツ選手二人が、謝罪もしないで、のうのうと今でもテレビに出演して、被災地でボランティア活動をしたことを誇示し、やってきた政治家を恫喝したことを自慢している。
事故の直前まで、原発の安全性を、声を大にしていて宣伝していたのは、彼らではなかったか。東電から与えられた原稿を読んだだけで彼らに責任がないというかも知れないが、戦争責任の場合、そんな責任逃れが許されるのか。しかも、彼らは、多額の宣伝費をもらったばかりでなく、どうやら、政党とつながりのある確信犯のようなのだ。
 二つも原爆を落とされ――いかなる理由によっても米軍の都市大空襲や原爆投下は許されない戦争犯罪だ――何十万もの犠牲者を生み出し、今も後遺症に苦しめられている人たちがいるというのに、地震の巣のような日本列島のいたるところに原発を作り上げた責任はどこにあるのか。言論の自由を謳歌しながら、原発そのものの危険性と東電の腐敗した体質を精確に報道してこなかったマスコミの良心と責任はどこにいってしまったのか。
だが直接の責任は、こうした原発体制を作り上げた、自公長期政権にある。こんなまともな論理が、なぜ取り上げられないのか。
じつは、彼らを選んだのが、主権在民の国では、国民なのだ。国民の反省がないがしろにされて、民主党政権の揚げ足取りに終始しているのは、不当であるばかりでなく、見苦しい。
今日、送られてきた、ある詩集の「あとがき」を読むと、東日本大震災と原発事故に触れていて、国民を健気と持ち上げて、指導層のテイタラクをやり玉に挙げている。もういい加減に、こうした無責任な、図式的な捉え方はやめるべきだろう。国民が健気なら、政治家にも健気な面もあるのであり、政治家が堕落しているなら、それを選ぶ国民も堕落しているのだ。
今日の政治的な混乱も、もとはと言えば、衆議院で民主党に投票しながら、わずか数か月あとの参議院選で、自民党に投票した、付和雷同する国民とそれを煽り立てるマスコミの、目先の利害しか読もうとしない、政治的な未熟さにあるのではないか。これでは、どのような政党が政権を取ろうと、先行き、政治に期待できるはずがない。国家財政は危機に瀕している。衆愚に堕した国民に、復興税の名のもとに公平に負担を強いるのは、むしろ当然ではないか。
永井荷風は、すでに戦前の日記に次のように書いている。黙して熟読すべきであろう。
「日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり。政党の腐敗も軍人の暴行もこれを要するに一般国民の自覚に乏しきに起因するなり。個人の覚醒せざるがために起ることなり。然りしかうして個人の覚醒は将来においてもこれは到底望むべからざる事なるべし。」(昭和十一年二月十四日付『断腸亭日乗』)