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日記・物語・エッセイ・感想その他

タナトス⑤ 対象欲動と自我欲動

2010-08-31 05:11:55 | エッセイ
さっそく読んでみよう。人文書院版の『フロイト著作集3』収録である。訳は浜川祥子氏。

「食欲は個体を保存しようとする様々の欲動の代表と考えられるし、愛は自分以外の者に向けられている。そして、自然によってありとあらゆる形で優遇されているこの愛という欲動の主要機能は、種の保存である。そこでまず、自我欲動と対象欲動の対比が考えられた。私がリビドーと名づけたのは、こうして、対象欲動のエネルギーであり、かつこのエネルギーだけである。こうして、自我欲動と、もっとも広い意味での愛である対象に向けられた「リビドー的」欲動との対比が成立した。これらの対象欲動の一つであるサディズムは、愛とはあまり縁のなさそうなことを目的としている面が著しいし、いろいろな点で自我欲動に接近していることも明らかであり、リビドー的な意図を持たない征服欲と深い関係があることは紛れもない事実だったが、この矛盾は理論的に解決できた。なぜなら、サディズムは明らかに性生活の一部で、性生活には優しいものと残忍なものがあってさしつかえないと考えられたからだ。神経症は、自己保存欲とリビドーの要求との間の戦いの結果と考えられたが、この戦いで自我は、勝利を収めたかわり、重大な苦難と断念という犠牲を払わなければならなかったのである」473頁
「けれども、われわれの研究が抑圧されるものから抑圧するものへ、対象欲動から自我へと進んで行ったとき、上に述べたような理論の修正は不可避であった。そのさい決定的な役割を演じたのは、ナルシシズムの概念が導入されたこと、すなわち、リビドーは自我自身にもまつわりついていること、それどころか、リビドーのそもそものホーム・グランドは自我であり、いわば自我はいまなおリビドーの本拠地であることが判明したことである。このナルシシズム的リビドーは、対象に向かうことによって対象リビドーともなれば、ふたたびナルシシズム的リビドーの姿に戻ることもできる」474頁
「ナルシシズムの概念が導入されたことによって」「リビドー概念は危機に陥った。自我欲動もリビドー的だとされたのだから、ある時期において、C・C・ユングがすでに早くから提唱していたように、リビドーすなわち欲動エネルギー一般だと考えざるを得ないかに見えた」474頁

タナトス④

2010-08-30 06:01:30 | エッセイ
精神分析の専門家でもない私たちが、フロイトの著作を読むのに、とんでもない誤解や勘違いは避けて通れそうもない。だが、『文化への不満』のように、精神分析の専門書というよりも、文化論として書かれた著作を専門家の手元だけに留めて置くのは、もったいない気持になる。後に見るように、フロイト自身「死の欲動」を思弁的な推測とみなしているのだから、素人ながら遠慮なく踏み込んで行っても良いのではないかと思えてくる。
本書の第六章は、快楽原則――エロスの欲動――に並んで、「死の欲動」(一般にタナトスとも呼ばれる、ただしフロイトの用語ではない)を論じた章である。対立するこの二つの欲動については、すでに『快楽原則の彼岸』でかなり詳しく記述している。そこでは最初に快楽原則と現実原則との関係を次のように書いている。

「快楽原則は心的な装置の原初的な働き方にはふさわしいものであるが、外界の重圧のもとで有機体が自己を保存するためには、最初から不適切なものであり、その上、著しく危険でもある。自我の自己保存欲動の影響のもとに、快楽原則は現実原則に代わる。現実原則は、最終的に快を獲得する意図を放棄することはないが、満足を延期し、満足の様々な可能性を断念し、快に至るまでの長い迂回路においてしばらく不快に耐えることを促し、強いるのである」(中山元訳)

 表題の通り、快楽原則の彼方にあるものを見据えながら、それを明らかにするために、詳しい分析が続くのだが、あまりに論点が多くて『快楽原則の彼方』を要約的に読み取るのが困難と思われたので、敬遠して『文化への不満』を読むことにした。

タナトス③

2010-08-29 05:20:47 | エッセイ
「ドイツでは、ナチスはフロイトの本を猥褻だとして焼くことを命じた。チェコスロバキアでは、フライベルクの白壁の家につけた「フロイト生誕の家」の青銅の標識は引き剥がされた。
 1938年の春の、ある朝、ウィーンに入った最初のナチスの分遣隊は、ヒトラーの肖像を飾った大きな旗を持って行進して、リングシュトラーゼを通って、大学の大理石の柱のそばを行進した。
 ただちにレオポルトシュタットおよびベルクガッセのノーベル・ゲットー(ウィーンのユダヤ人居住地)は、恐怖に包まれた。世界の人がフロイトの安全を気づかった。アーネスト・ジョーンズ(フロイトの弟子)はロンドンから飛行機でやってきて、まだパスポートが手に入るうちに、すぐにでも家族とともにウィーンを去ることをフロイトに薦めた」(宮城音弥訳)

 フロイトはそのとき決断ができず、後にマリー・ボナパルトの資金援助で、ロンドンへ亡命したのが、それから数ヵ月後の夏であった。ウィーンに留まることを選んだ老妹四人は、ナチスの強制収容所へ送られ虐殺された。このように「死の欲動」によって突き動かされたかのような、世界史的な不安と予兆の時代に、『文化への不満』が書かれたことは、決して無視できない背景といえよう。

タナトス②

2010-08-28 06:14:41 | エッセイ
フロイト(1856-1939)の八十余年の長い生涯において、『文化への不満』(1930)は、晩年に書かれた著作と言っていいだろう。ラッシェル・ベイカーの『フロイトその思想と生涯』によれば、「死の欲動」について論じた『快楽原則の彼岸』(1920)およびこの著作を執筆したころ、フロイトは口内に癌が発生し病状は進行していたという。ヘビースモーカーであった彼は、結局、1920年代後半から死に至るまで、癌と闘い続けたことになる。その期間は、第一次大戦の混乱がようやく収まり、安堵したのも束の間、ナチスの台頭によって、ヨーロッパ全土に暗雲がのしかかった時代であった。苦難を極めた生涯における名声の絶頂期に、ロンドンへの亡命を余儀なくされ、そして死という波乱の経過を辿ったのであった。以下はベイカーの書からの引用である。ここで会合とは、彼の七十五歳を祝しての公開会合である。
「フロイトはその会合に出席しなかった。彼の愛した蘭の花が彼の待合室いっぱいに飾られた。それは家族のアパートまで溢れた。世界中のすべての地方から、彼の好んだエジプトの遺品、花瓶、護符、指輪、小像、石の彫刻など、多くの贈り物が送られてきた。世界中で、彼は作家であり、現代における最大の名文筆家の一人であるとして知られるようになった。彼が作家になろうとした若い頃の意図は無駄ではなかった。
 彼の文章の明快さに対して、ドイツが与える最高の文学賞で、多くの人の羨望の的であるゲーテ賞が与えられた。
 チェコ政府は彼の名誉を祝福した。モラヴィアのフライブルクの村ではシュロッセルガッセの古い白壁の家――ここで彼は1856年五月六日に生まれた――に名誉の標識がつけられた」

タナトス①

2010-08-27 06:30:14 | エッセイ
「私は自己保存および種族保存をエロスの概念の下に総括し、それと静かに働き続けている死への衝動あるいは破壊衝動とを対立させた。衝動はごく一般的に、生命あるものの一種の弾力性、かつて存在し外的な障碍によってなくされてしまったある状況の回復への止み難き心の動きとして把握された。本質的に保守的なこの衝動の性質は反復脅迫の諸現象によって解明される。エロスと死衝動との共働・離反がわれわれに生命の姿を明らかにしてくれるのである」(生松敬三訳『フロイト自伝』新潮文庫)

トロイアの女⑰ 結論

2010-08-26 07:30:49 | エッセイ
ギリシア悲劇における題材と現実との関係は、あまり近づくことを許さないアポロンの領域、メタファーであって、文芸(ムーシケー)の本質に属する。
 詩法の一手法として、直喩的なものを超えて、物語そのものをダイナミックに捉えるメタファーの在り方として、迫り来るアテナイ存亡の危機とメロス島事件をダブらせたエウリピデスの悲劇に私は一瞬くるめきを感じたのであった。
 紀元前404年、アテナイは、ついにスパルタ、テーバイ、コリントスなどペロポネソス同盟に完全に敗北して、屈辱的な条件で降服する。以降、アテナイは、マケドニア、その後、ローマの台頭によって、二度と昔日の栄光を取り戻すことはなかった。

付記
一、プルタルコスの「アルキビアデス伝」によれば、アルキビアデスのオリンピア馬車競技優勝(紀元前416年、つまりメロス事件の年)の際に、エウリピデスが彼の頌歌を書いており、古伝では、エウリピデスの墓碑銘はツキディデスによって書かれたとされている。また、ソクラテスは、エウリピデスと親交があったとされている。そのソクラテスの取り巻きに祖国アテナイの反逆児アルキビアデスが見出せる。ソクラテスの処刑の遠因にアルキビアデスとの関係をほのめかす学者もいる。
二、太田秀通氏の『生活の世界史③ ポリスの市民生活』によれば、ペロポネソス戦争直前のアテナイの人口は「概算として市民3~4万、家族を含めて12万~13万、メトイコイ(在留外人のこと)1万、奴隷約10万ぐらい」とある。

トロイアの女⑯ 悲劇と現実

2010-08-25 08:16:21 | エッセイ
サルトルは、1965年に、エウリピデスの作品をなぞって戯曲『トロイアの女たち』(芥川比呂志訳・人文書院)という作品を発表している。ベトナム戦争を意識して、ヨーロッパ植民地主義とそれに抵抗するアジアの戦いと位置づけている。エウリピデスの原作に極めて忠実であって、サルトルの作品というよりも潤色と呼べよう。彼がほとんど変更の余地がなかったほど、エウリピデスの悲劇は彼の意にかなった作品であったのであろう。ただ、エウリピデスは一方的に作品によってメロス島におけるアテナイの蛮行を糾弾したのではないことに注目したい。少なくとも、反戦を意識した作品ではない。
 ギリシア悲劇は、集団的陶酔の神デュオニゾスをまつる祭壇から発展したものであり、十五名の合唱隊コロスの存在は、その拭えない歴史を物語っている。コロスから俳優――三人以上は登場できない決まりがあるので、仮面と衣裳を変えて一人で何役もこなした――が離脱して悲劇が生まれたのである。劇と観客との関係は、デュオニゾス的な陶酔にあったといえるだろう。
 悲劇は、すでに触れたように、歴史的な事実をそのまま表現するのは稀であり、ほとんどが、ホメーロスの叙事詩、ギリシア伝説、神話、英雄譚を題材としていて、それがルールと言って過言ではない。少し乱暴に言えば、現実をそのまま扱ったのでは、古代ギリシア人の好みに合わず、下世話になって悲劇の体をなさなかったのだ。
演じられる劇作空間は、殺人の現場を舞台で表現することが禁忌であったことでも分かるように、ミュトス(創作物語)とポイエテース(詩人)を支配するアポロンの聖なる領域である。これは遠矢射るアポロンが隔たりの神であることに起因している。
要約すれば、劇そのものは、もっともギリシア的な神であるアポロンの領域であり、劇場空間はディオニゾスの領域に属し、ギリシア悲劇は、ギリシア精神の要である両者の融合の場であったと推測される。

トロイアの女⑮

2010-08-24 07:08:58 | エッセイ
ツキディデスの「メロス対話」とエウリピデスの『トロイアの女』を併読すると、あたかも、前者のロゴス(真実を語る言語)に対して、後者がミュトス(創作物語)で応じたようにとれ、同時にすぐれてメタファー関係にあることは言うまでもないが、その間のずれは少しも感じられないといえよう。人間の驕慢と盲目を暴いたヒューマニズムの作品! それだけであろうか。
 周知のように、ホメーロスの『イリアス』の世界は、海を渡ってやってきたギリシア連合軍と小アジアに位置する裕福な都トロイアとの十年に及ぶ戦いであり、ドリス人南下以前の物語である。ギリシア悲劇が書かれたのは紀元前五世紀からさらに遡ること、七百年も前の時代とされる。叙事詩として巷で語られるほかに、歴史的な記憶としては、当時のギリシア人にはまったくなかったといってよい。
 エウリピデスは、すでに述べたように、アテナイ側とスパルタ同盟軍の戦いであるペロポネソス戦争の時代に活躍した悲劇作家・詩人である。『トロイアの女』では、スパルタの卑劣と残虐を描き、――メネラオスはスパルタ王であり、ヘレネはその王妃――トロイア戦争にはあまり深く関与しなかったアテナイを随所で褒め上げている。狼藉をはたらくギリシア軍は、スパルタを象徴しており、包囲され落城したトロイアをアテナイになぞられているようにとれる。後年、『戦史』に描かれたシケリア遠征以降、アテナイはスパルタ軍に包囲され降服して、長い戦争は終結する。そうした事態を詩人の予言能力とみるかどうかは別として、記録から確認できないが、『トロイアの女』の上演当時、すでにアテナイはスパルタ軍に実質上包囲されていたと思われる。
 一方で、この悲劇作品をメロス島事件に見立てれば、逆転して、ギリシア軍はスパルタ側ではなく、アテナイ軍であり、トロイアの女は、アテナイによって成年男子が根こそぎ処刑され、婦女子は奴隷化されたメロス島市民ということになる。
作品では、作者エウリピデスを含むアテナイ人の立場は、加害者と被害者に二重化されており、矛盾はいっそう逼迫して深刻といえよう。

トロイアの女⑭

2010-08-23 05:30:55 | エッセイ
メネラオス退場。コロス詠唱のあと、告げ役のタルテュビオスがアステュアナクスの遺体と亡きヘクトルの遺品の楯を持って登場する。
 ヘカベは嘆く「これほどの幼子を恐れたとあっては、さてさてギリシャの面目は丸つぶれではないか。理もなく恐れるのは見苦しいことじゃ」「そなたの墓に、詩人はいったいなんと碑銘を刻むであろう。「その昔、アルゴス(ギリシャのこと)の武士たちが怖れあやめたる幼児ぞ、ここに眠れる」とでも。ヘラスの恥をさらすにはこよない句であろう」「しかし、また、神様がこれほどまで根こそぎに、トロイアを亡ぼされることがなかったら、私らは名も知られず、後の世の人に歌い継がれることもなかったろうし」
 こうして、トロイアが火の海に覆われ倒壊する中で、コロスによる「いたわしい祖国をあとに、アカイア(ギリシアに同じ)の船を目指して、われらは足を運び行く」の詠唱で、エウリピデスの悲劇『トロイアの女』は終幕する。

トロイアの女⑬

2010-08-22 05:43:02 | エッセイ
虜囚の女たちの中に、ひときわ美しい女がいる。ヘレネである。着飾って、トロイア敗戦の今も美しいヘレネの前で、夫メネラオスは、不貞な妻として成敗するのをためらう。ヘレネは、したたかである。必死に抗弁というよりも、ヘカベがパリスを生んだのがいけないのだと強弁する。美の本質を考える上で、味わい深いセリフであろう。

「そのパリスが、女神お三方のご器量を品定めする判者となり、アテナは、己を優者に選ぶならば、プリュギア人(トロイア人の異称)を率いてヘラス(ギリシア本土のこと)を打ち平らげさせようと誘われ、ヘラはアジア、ヨーロッパの両土の王たらしめようと約されました。これに対してアプロディテ(美神)は、私の容姿を誉めそやした上、もし美しさで他のお二人を凌ぐことができたらならば、その私の体をパリスに与えようと約束されたのでございます」「アプロディテが他のお二方に勝たれ、ひいては私がパリスの妻となったことが、ずいぶん、ギリシャのためになっております。そのためにこそ、あなた方は、夷狄に侵され、武器をとって戦ったあげくの果てに、その支配に甘んずるということもなくすんだのです。――もともとパリスに無理無体に妻にされ、お国に対してはあれだけ尽くしながら、恩賞どころか、あんなにひどい目にあってきた私が、あなたの手にかかって殺されるわけがどうしてありましょう」

 動揺するメネラオスに代わって、ヘカベがヘレネを論難する。

「倅は美貌、他に優るものもなかったが、倅を見たそなたの心がすなわちキュプリス(アプロディテのこと)となったのじゃ」「ギリシャで乏しく暮らしていたそなたは、みなれぬ豪奢な衣裳と黄金の飾りに輝くパリスの姿を見るや、たちまた心は惑い、スパルタを棄て、この黄金に溢れるプリュギアの町を贅の限りを尽くして、傾けようと望んだのであろう」「本来ならば、身には襤褸を纏い髪も剃して、恐れおののきつつ現れるのが当然、今までの犯した数々の過ちを思えば厚顔無恥の心を洗い去り、慎みを旨とするのがそなたのとるべき道ではないか」