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日記・物語・エッセイ・感想その他

『ナジャ』を読む その⑪ 最終回

2006-11-30 06:17:07 | 感想その他
 『ナジャ』の訳本は何回も精読して、今でも理解できない箇所をいくつか残している。たとえば、ブルトンがナジャと別れてから、新しい恋人を得た後の文章だが、「素晴らしい、決して自己を偽ることのない一つの手が、レ・ゾーブ(黎明)と記された青い空の色の大きな道路標識をぼくに指し示していたのだ。」(清水徹訳) である。どの訳本にも注釈がない。どうしてもイメージが捉えきれない。H・K氏にお窺いして、ようやくオーブaubeの複数形であることを思い出す。なぜ道路標識に「黎明」などという言葉があるのか、すべての翻訳が「黎明」となっているのだから訳が間違っているはずはない。
 仏和を引いてみると、別の意味もある。「①(鞍の)横木②(a)(水車の)水受け板(b)(外輪船の)外輪車」。
 そうすると対向車線から来る自動車の車輪に注意のことではないかなどと考えてしまう。ブルトンの 恋人はそんなことは百も承知で、ドライブ中に、空色の道路標識を指し示して、新たな意味「黎明」を暗示したのではないか。二人の関係は紺碧の黎明であろう。その少し前に、ナジャとドライブしていたとき、運転しているブルトンはナジャにしがみつかれ危うく命を落とすところであったと記している。それはナジャとの恋の結末が死を暗示していると思われたのであった。それと引き比べての新たな恋の性格を示しているのではないか。以上、おそらく私の解釈は間違っているであろう、私の勝手な妄想である。
 いや、待てよ、このような、間違っていようと、辞書を引いてまで妄想をたくましくさせているのは『ナジャ』 という書物の魅力なのではないか。もしかしたら、さらに想像をたくましくして、ブルトンはこうしたとんでもない誤解を大いに推奨しているのではないかと、思えてきたのであった。おまえは馬鹿なことを書いている、そう感じるあなたもブルトンの手の内かも。これから、隣町の図書館にあるという巖谷國士氏の『ナジャ論』を調べに出かける。古本で四千円もするのだ。               

『ナジャ』を読む その⑩

2006-11-29 06:16:57 | 感想その他

 ナジャが精神病院へ隔離された以降の記述を読むのに、かなりの戸惑いを覚えたのを、私は告白しなければならない。しばらく読書を放棄したほどである。二、三の注釈的な挿話を除いて少しも面白くない。ようやく曲がりなりにも読み通してみると、長い序文と同様に重要であり、ブルトンの試みがどの程度成功したか、私には判断できないが、『ナジャ』という書物の構成上ぜひとも必要であったろう。
 いや、ブルトンは、この部分を書けなかったなら、ナジャとの恋のいきさつを記さなかったかも知れない。ナジャのように中途半端な女性ではなく、完全な恋人を得たのだ。だが、その恋人の姿が、いくら読んでも、私には一向に浮かび上がってこない。
 ナジャという名前は、ナジャ本人が最初の日に「ナジャ。なぜって、これがロシア語で希望という言葉の始まりなの、始まりだけだから良いのよ」(清水徹訳)と告げたように、本名ではない、自分で名乗る通称である。
 ブルトンの新たな恋は、始まりだけであってはならない、フルネームが必要である。ところが不思議なことに恋人の名は記されない。恋の道行きも物語られない。実名を求めての物語は、愛の名における匿名の恋で終わったのであろうか。それとも、その愛は現実の私たち読者へと引き継がれるべき恋であり、愛なのであろうか。次の最後の引用はその消息を語っているように思われるのである。ここでの「君」はブルトンの新たな恋人を指している。あくまでもランボー的な結末ではないか!

 「君は故意にそうしたわけではなしに、私にとって最もなじみ深い様々な姿に形を変えた。また私の予感の様々な姿と入れ替わった。ナジャは、そうした姿の一つだったのだ。君がナジャを私の目から隠してしまったのは明らかだ。
 私は知りうる限りのことは、そうした様々な人物への変身も、君の前では立ち止まらざるを得ない点だ。それは君の身代わりになりうるものは何もないからだ。また私にとっては、こうした恐るべき、また魅惑的な様々な謎の連続も、君の前では永遠に終わらねばならなかった点も、私の知り得たすべてなのだ。」
 「はっきり言うが、君は私を、謎から永遠に背けさせてしまったのだ。
 君一人が存在していることを知っているように、現に君が存在している以上、おそらくこの書物が存在することも、さして必要なことではなかったに違いない。」(稲田三吉訳)

 「君」とは、ここでもブルトンの恋人であると同時に、今、『ナジャ』を読んでここまで辿り着いた読者である「きみ」のことかも知れない。その「きみ」は『ナジャ』という書物の呪縛から脱出できたのだ!

『ナジャ』を読む その⑨

2006-11-28 05:49:34 | 感想その他

 重要な課題を含んでいるので、『ナジャ』の本文の最後の文章を清水徹氏の訳で掲げておこう。ここで「彼岸」と訳されている箇所が、稲田三吉氏の訳では「来世」となっており、私としてはちょっと気になるのである。

 「非狂気と狂気との間には境界がない以上、ぼくとしては、このおのおのの所属である知覚や観念はそれぞれ別の価値を認める気になれない。異論の余地のこの上なく少ない真実よりも、無限に意味が深く、遙かに強く働きかける詭弁があるものだ。それをたんなる詭弁だとして否認するのは、偉大さにも欠けるし同時に面白くもない行為である。よし仮に、これまで述べて来たことが詭弁であったにせよここではっきりと告白しておかねばならぬ、これらの詭弁は、ぼくをして、ぼく自身に向かって、またこの上なく遠方から訪れてきてぼくと遭遇する人に向かって、あの常に変わらず悲痛な叫び、『誰だ、そこにいるのは?』という叫びを、投げかけさせるのに、少なくともいかなるものにもまして役立ったのだ。誰だ、そこにいるのは? ナジャ、君なのか? 本当なのだろうか、彼岸が、彼岸のすべてがこの生の中にあるというのは? ぼくには君のいうことが聞こえない。誰だ、そこにいるのは? ぼく一人しかいないのだろうか? それは、ぼく自身なのだか?」(清水徹訳)

 唐突であるが、若いブルトンの悲痛な問に、私の答えを述べてみたい。
そうなのだ、そこには誰もいない。ふと我に返ると、最初から、ナジャさえもいなかったのだ。ナジャは、あなたの、そして私の忘れ去られた遠くの幼年時代のことだ。ナジャの声が聞こえないのは当然で、あなた一人しかいないし、私一人しかいない。彼岸のすべてはこの生の中にある。ナジャを問い、幼年時代を問うことを何度も繰り返されることによって、おぼろげながらも過ぎ去ったか細い道を見出し、私たちはいささかでも前方に進むエンジンを見出すことが出来るのだ。それは、私たちが今日まで生きてきた「道」であり、ブルトンが「歩み」の先に、ふいに予感した「一本の道」なのではなかろうか。
 言葉の深い意味において、非狂気と狂気には区別が存在する。彼が「詭弁」という言葉を使ったのは、その区別にうすうす気づいていたからだ。非狂気の位置から、狂気は遡られねばならない、その逆では決してない。そして、再び元の位置に戻る。それは、生が続く限り反復されるのだ。拡散と収斂、聖と俗、エロスとタナトスの反復!
 そして「道」の観念の登場によって、始めて幼年時からの一貫した視点を見出すことが出来る。それは生命の内側からの一貫したエクリチュールの流れに、自らを見出すとも言えよう。ついでながら、『老子』における水は「道」と同じように解釈されるが、『ナジャ』における水――ナジャの燃える手のイメージは水の上を漂うのだが――もまたエクリチュールの「道」=筆跡を暗示しているはずであり、燃え尽きて水に流れるのである。
 その装置をブルトンは愛のエクリチュールに見出すこととなる。ぜひとも、ナジャとは別の、新たな愛が必要となる。


『ナジャ』を読む その⑧

2006-11-27 06:21:28 | 感想その他

 ナジャに関わるブルトンの日記とエピソードの記述は、次の引用に見るように、彼女が精神病院に収容されたところで終わる。本書の主要な部分はをなすナジャとの恋愛小説は終わったのである。

 「もう数ヶ月前に私は、ナジャが気が狂った女であるということを教えられた。彼女の住んでいるホテルの廊下で、さまざまな常軌を逸したふるまいに出た結果、彼女はヴォークリューズの精神病院に入院させられてしまったのだ。」(稲田三吉訳)

 ナジャが街から姿を消した後、ブルトンの怒りは、既成社会における精神病隔離政策に及び、まるで実在のナジャを忘れたかのごとく、論難が延々と続く。精神病院への隔離は、たんに収容患者にとって治癒の可能性を奪い、不幸にするばかりでなく、本来、健常者と境界のけじめのない個性を切り捨て、しいては人の生涯における幼児性を否定するものであり、社会的な意味でもダイナミズムを奪い、致命的な損傷を及ぼすとするのである。彼の怒りは留まるところを知らない。

 「私の考えによれば、すべての入院は、いずれも自由意思にもとづいたものであらねばならないのだ。私は今なお、人々が、なぜ一人の人間を自由から奪ってしまうことができるのか分からずにいる。彼らはサドを監禁した。またニーチェを監禁した。またボードレールをも監禁したのだ。夜、突然、人を訪ねてきて狂人用の拘束服を着せてしまうとか、そのほかのあらゆる手段を使ってその人の自由を奪うというやり方は、ちょうど、警官が人のポケットの中にピストルをすべり込ませるやり方と好一対である。もし私が狂人で、数日前から入院させられていたと仮定してみよう。そうしたら私は、自分の錯乱状態が一時的に与えてくれる病勢の弛緩の時期を利用して、私の眼前に現れた誰かを、それが医者ならばもってこいだが、その男を非常な冷酷さで殺してしまうだろう。そうすれば少なくとも私は、凶暴性の患者と同じく、個室を与えられることになろう。そしておそらく私をそっとしておいてくれるに違いない。」(稲田三吉訳)


『ナジャ』を読む その⑦

2006-11-26 06:07:54 | 感想その他
 二人の決別について、本書の中で様々な角度から語っているが、その内でも、衝撃的な事件は、やはり、次の引用に見るナジャが語る身の上話であろう。この物語の一つのクライマックスであり、私たち読者はあやうくブルトンにもらい泣きしそうになる。連続して書かれた日記の最後の日である。それ以降も数日、つきあいは続くのだが。

 「彼女が或る日、ビヤホール「ツィンメル」の客席で顔の真ん中を殴られて血を流したという話。それは彼女が、相手が下劣な男であるというただそれだけの理由で、自らを与えることを拒んだことで一種悪意に満ちた悦びを味わった、その相手の男から殴られた話なのだが――そればかりか彼女は、助けを求めるために大声で何度も叫んで時間をかせぎ、男の洋服を血だらけにしてやった後で姿をくらましたらしいが――そんな話を、十月十三日の午後、かなり早い時間に、なんの理由もなしに話し出したのだが、その時ばかりは私も危うく立ち去って、もうこれっきり彼女に会うまいと思ったほどであった。こうした実にいやらしいアヴァンチュールの、いかにもなさけない物語を聞かされて、私がもはや絶対に取り返しがつかないという名状しがたい感情を味わわされたことは事実だが、しかし私は、彼女の話を聞き終わった後で、かなり長いこと涙を流していた。もう自分は決して涙を流すようなことはあるまいと思っていたはずなのに。」「またこの地平線の上で、それに類する日々が今後も彼女にとって訪れるかも知れないと言うこと、それを思うと、私は自分の中からすっかり勇気がなくなってしまうのを感ずるのだった。そんな私を見て、その時の彼女はひどくいじらしい女になっていた。私がその時心に決めた、彼女にもはや会うまいという決心を少しもぶちこわすようなことはせずに、むしろ逆に、彼女は涙を流しながら、私の決心をぜひとも貫くようにとすすめるほどの強さを、その涙の中から汲み取っていたのだ!」(稲田三吉訳)

 引用について、説明はいらないであろう。ナジャは子供のような、あるいは妖精のような無垢で無防備な魂なのだ。それが陵辱される。《陵辱》は多くの文学の潜在的な主題と言って良い。それどころか、もしかしたら、唯一の主題であるかも知れないのだ。もちろん、ブルトンはナジャのために泣くのであるが、実は、自分の内部に抱える純粋性が犯されたと感じたからこそ、大の大人が泣くのだ。もしかしたら、愛する者の陵辱は、大人が泣くことの出来る唯一の事件かも知れない。私たちがオフェリアの死を悲しむのも、玉の井の荷風がお雪と別れるのも、大庭葉蔵が次々と愛人を棄てるのも、同じ心情で結ばれている。ロートレアモンは真っ正面から《陵辱》を描くことによって、文学的な生命を持ち得るのだ。
 さらに、ナジャの場合、特異な感受性を示しながらも、一般で言うところの、精神を犯されているのだ。二重に犯されているとも言える。いや、彼女を精神病と断定する根拠はほとんど見当たらない、せいぜい分裂症的な傾向と言えるかも知れない、と急いで付け加えておこう。この後、ブルトンは少年院が犯罪者を作るように精神病院は精神病患者を作るとまで断言している。
 そうした彼女の傾向が一層強まり、一方的に際限もなく語り続けたり、話し相手への関心を全く失ったり、人前で狂態を演じたり、ブルトンの許容の限度を超えてくるに従って、ナジャの恋が彼女の症状を悪化させたのかも知れない、とブルトンは考え、怖れるのだ。
 (ちなみに、ブルトンはナジャと最初のランデブーで自分が妻帯者であることを告げており、ナジャには故郷に子供がいることをほのめかしている。)

『ナジャ』を読む その⑥

2006-11-25 21:58:41 | 感想その他

 「手」のエピソードに、ここまでこだわってきたのだが、「火の手」のイメージがナジャから二度にわたり、語られる事によって、さらに、新たな展開を見せる。いずれも二人でパリの街を歩いての話である。
 一度目。

 「彼女はまた立ち止まると石の欄干に肱をついた。その欄干の上から、ちょうどその時刻、さまざまな光をうつしてきらきら輝いている河の流れの上に、二人の視線がじっとそそがれた。『ほらあの手、あのセーヌ河に映っているあの手、あの手はどうして水の上で燃えているのかしら。火と水とが同じものだってことは本当だわ。でも、あの手にはどんな意味があるのかしら。あなたはあの手をどんなふうに解釈なさる? ねえ、私にもっとよくあの手を見せてちょうだい。なぜあなたは出かけることを望むの。何をこわがっているの。あなた、私が具合がとても悪いと思っていらっしゃるんでしょ? 私はどこも具合なんか悪くないのよ。ねえ、火と水、水の上の燃えている手、それはあなたにとってどんな意味に感じ取れて? 以下略』」(稲田三吉訳)

 もし、彼女が狂女だとしたら、おそろしく明晰な頭脳をしている。ブルトンが「手」の、つまり、物書きであることを知っているのだ。その「手」が「水」に流され、あるいは「火」に燃え尽きてしまうことを畏れているのである。それから四日後にナジャはまた火の手について語る。

 「私たちはそのセーヌ街の方へ曲がった。やがて彼女はふたたび深い放心状態におちいった。そして一つの手が空中にゆっくりと描いている稲妻のあとを追ってみよう、と私に言った。『いつもあの手なのよ』そう言いながら彼女は、ドルボン書店の向こう側にきらめいている広告燈の上の手を、ほんとに指さして見せた。たしかにそこには、私たちの頭上はるかの所に、何ものかを賛美しているかのように、人差し指をまっすぐに伸ばした赤い一つの手が輝いていた。彼女は飛び上がった。そして遂に自分の手をそれにたたきつけることが出来た。『火の手だわ。これはあなたのことなのよ。ねえ、わかる? これはあなたなのよ。』そう言ってから彼女はしばらく黙っていた。おそらく彼女は両眼に涙をたたえていたらしい。そこから不意に私の正面にまわると、ほとんど立ち止まるようにしながら、まるで人けのない何所かの城の中で、広間から広間へと誰かを呼びながら探し歩いてでもいるかのように、実に異常な呼びかけ方で私に話しかけてきた――『アンドレ? アンドレ?……あなたは私のことを小説に書くのよ。あなたはきっと書くわ。いやと言っちゃ駄目。ね、注意するのよ。すべてはみんな弱くなって、そして消えてしまうんだわ。だから、私たちの中から何かが残らなければならないのよ……以下略』」(稲田三吉訳)

 ここでは、ナジャは予言者、あるいは未来の幻視者と言って良いだろう。彼女は、ブルトンが今書かなければ決して書かないことを知っている。そして、彼に書かれなければ、燃え上がる手は燃え尽き、河の流れに流れ去り、自分も永遠に消え去ってしまう『ナジャ』の運命を予言しているのである。もちろん、現実の二人の恋の終焉がさし迫っていることを暗示している。実は、ここで実在のナジャの魂は失われ、『ナジャ』という未だ書かれていない書物の魂に引き継がれたのかも知れない。言うまでもなく、燃える手とは、執筆するブルトンの手の象徴である。(本書には数々の写真や図版が挿入されているが、肝心のこの広告燈の写真が見当たらないのは、ちょっと不思議で、記述は、ブルトンの創作に負うところが大きいのではないかと、私は疑っている。)

 *今日は一泊旅行でブログ掲載が遅れてしまった。


『ナジャ』を読む その⑤

2006-11-24 06:01:12 | 感想その他

 ナジャは貧しい。安ホテルに逗留して、時折、いかがわしい仕事にありついて金を得ることもある。定職はないので、一日、街をぶらついて過ごす浮浪者でもある。夕方になると地下鉄に乗って、仕事帰りのサラリーマンを眺めながら、今かれらがなにを考えているか、想像して「律儀だな」などと感心する。そんな話を聞いていたブルトンはいらいらしてくる。まるでナジャに説教をするように語り出す。

 「ああした奴隷状態を強いられ、しかも普通はそこから逃げることすら出来ずにいる人間が、ぼくは可哀想でしかたがない。でも、ぼくがそうした人間に好意をもつのは、その人の苦悩のきびしさ故ではない。その人が抗議をする際の荒々しさだけが、ぼくをしてその人間に好意を抱かせるのだ。」「およそ受け入れがたい命令に従わせられながら、あるいは牢獄で、あるいは銃殺を執行しようとする隊列のまえに立たされて、しかもなお人が自らを自由であると感ずることは可能だと思う。しかし、そのような自由を創っているのは、もちろんその人がいま受けている迫害ではないのだ。自由というものは、永久につづく解放であらねばならないと思う。だから、そのような解放が可能であるためには、しかも絶えず可能であるためには、今あなたが話していた人々の大多数が束縛の鎖でおしつぶされているように、ぼくたちもやはり押しつぶされてしまってはならないのだ。だが、この自由というものはまた、おそらく人間的に見ればそれよりも更に、非常に長い、あるいは非常に短い、だがすばらしい歩みで、束縛をときはなたれた人間だけがその歩みをすすむことができるものでもあるのだ。」「そうした歩みだけがすべてなんだ。でもその歩みは、いったい何所にゆくんだろう。それが真の問題なのだ。その歩みは、結局一本の道を描き出すことになるだろう。」(稲田三吉訳)

 長い引用になってしまったが、ここには当時のブルトン(三十一才)が到達した思想のすべてが告白されている。おそらく、ホームレス同然のナジャにとっては、とても理解できなかったろう。
 興味深いのは、ブルトンが手の「労働」を嫌悪しながらも、「歩み」と「道」を認め、そこに希望を見出していることである。本来は個人のエクリチュールの象徴である「手」を否定して、シュールレアリスム運動の「道」の強調であり、運動のリーダーとしての思想的な自負が窺える。


『ナジャ』を読む その④

2006-11-23 06:02:55 | 感想その他

 『ナジャ』の本文は、パリの路上でナジャとの出会いに始まる十日間の日記風記述である。一九二六年十月四日から十三日まで、連続してナジャに関するブルトンの記述は続く。それ以降も二人のランデブーは続くが、この十日間は、ナジャとはいかなる女性かを描いて、読者に息つく暇を与えないほど知的な刺激に満ちている。
 フランスの地方都市リールからバリに一人で出てきた、若い女性であるが、今で云うところの分裂症なのであろうか、少々常軌を逸していて、つき合う男も変人揃い、話すこともインスピレーションに富んでいて、行動もエキセントリック、一方的にしゃべりまくったりもする。彼女はブルトンとの出会いを運命的なものと感じたようだし、ブルトンにとってはシュールレアリスムの申し子のような女性と思われ強く惹かれていく。
 以下は、知り合って間もなく、唐突に自分の過去を語り出したときのエピソードである。彼女には故郷に恋人がいたのだが、恋人の迷惑になるのではないかと怖れて、パリに出奔したのである。

 「それから一年近くたった或日、彼女はその青年にパリでばったりで出会った。二人ともひどく驚いた。青年は彼女の両手をとりながら、とても変わってしまったね、と言い、それから彼女の両手をじっと見つめながら、それがとてもよく手入れがされているのにびっくりした。(いま私の眼のまえにある彼女の両手は、あまりよく手入れが行きとどいているとは言えなかったが。)そこでこんどは彼女のほうが、自分の両手を握りしめている成年の一方の手をそれとなく見つめて、その小指と薬指とがしっかりとくっついてしまっているのに気づいて、思わず叫び声をあげてしまった。「まあ、あなた怪我したの!」青年はやむを得ず、もう一方の手を彼女に示してみせた。そちらも同じような畸形を呈していた。そこまで話してきて彼女は、非常な感動をこめて長々と私に問いかけてきた――「そんなことってあるでしょうか。ひとりの人とかなり長い間いっしょに暮らしてきて、しかもその人をたっぷり観察するチャンスも沢山あったし、とくに彼の肉体上のこまごました特徴なんか見つけだすことには、夢中になっていたはずなのに、それでいながらその人をあまりよくは知っていなかったなんて……、しかもあのことに気づきさえもしなかったなんて!あなたはどうお思いになるかしら。恋に目がくらんで、そんなことも起こりうるとお思いになる? で、あの人ったらとても怒ってしまって、もう私、だまってしまうよりほかになかったわけなの。でもあの手……。その時あの人、何か私のわからないことを言ったんです。言ったことのなかで、一つの言葉がどうしてもわからないんです。『間ぬけ! ぼくはもう、アルザス・ロレーヌに帰るよ。愛することを知っている女がいるのは、あそこだけだ。』って言って。でも、なぜ、間ぬけなんでしょう? あなたにはお分かりにならない?」もちろん私は、いま彼女がつたえたその青年の言葉というのに、はげしく反発した。」(稲田三吉訳)

 ここで重要なのは、なぜ、ブルトンがナジャに同情して、その青年に猛烈に反発したか、である。アルザス・ロレーヌはドイツ国境の紛争地であるから、青年は一時の休暇か、所用で、パリに滞在したのであろう。青年が怒るのも常識的にはもっともである。責められるのは、かえってナジャの神経の異常な迂闊さであるはずだ。
 だが、労働の神聖を認めないブルトンにとっては、労働の象徴である「手」に気づかなかったナジャをとっさに擁護したのであろう。ブルトンもまた感動のために現実を無視するのもいとわないタイプなのである。しかも、手である「労働」が戦場で「戦争」に奉仕するに至っては、許し難い心情であったろう。ちなみに、わずかばかりの、私のフランス語の知識では「戦争」は女性名詞であるから「愛することを知っている女」は彼が帰っていく戦場を指す。

『ナジャ』を読む その③

2006-11-22 05:16:56 | 感想その他

 続いて、すぐにブルトンは次のように書いて、詩的で美しい文章で序文を終わらせている。

 「さあようやく着いた、アンゴの館の塔は吹きとび、そこの鳩たちのおとす一面の羽毛の雪が、広い中庭の地面に触れては溶けてゆく、そして以前は瓦の破片を敷きつめてあったその中庭も、いまや本物の血でおおわれている!」(巖谷國士訳)

 アンゴの館は実在の古い建物で『ナジャ』はここで執筆されたのだが、「ようやく着いた」は、もちろんアンゴの館に辿り着いたに違いないが、ここまで人生を辿ってきてナジャを主人公とする物語を語る準備が出来た、序文は終わったという意味を含んでおり、なによりも、アンゴの館の一室で机の上に白紙を置き、ペンを握った姿のブルトンを想像しなければならない。
 なんとも言えないほど凄惨で華麗な文章の「本物の血」は、無意識的には、傍らに置かれたインク壺のインクであろう。ここでも私はランボーの姿を垣間見るのである。たとえば、次のような「出発」と題する有名な詩。

 飽きるほど見た。幻はどんな空気にも見つかった。
 飽きるほどあった。町々のざわめき、夜になっても、日が照っても、
 いつもいつもだ。
 飽きるほど識った。生活の停滞。――おおざわめきと幻よ!
 新しい愛情と響きへの出発だ!
            (高橋彦明訳)

 ブルトンのこれから『ナジャ』を書くという行為の開始は、ランボーの「出発」と同等な心情での出発なのだ。真の現実という超現実を求めて。
 ランボーにふれたので先に書いてしまえば、これから登場するナジャは、ある意味ではオフェリアなのである。ランボーのこれも人口に膾炙した詩「オフェリア」の一節を挙げておこう。オフェリアは水死したハムレットの恋人なのは云うまでもない。

 天! 愛! 自由!
 雪が火に溶けるように君はそれに溶けていったのだ。
 君の見た大きな幻に君の言葉はつまり
 ――おそろしいあの無限に君の青い眼はおびえてしまったのだ!
                        (高橋彦明訳)

 この一節には、ナジャの悲劇的な終末を暗示しているばかりでなく『ナジャ』に全篇にちりばめられたキーワードが星空のごとく輝いている。私はランボーについては寡聞だが、詳しい読者はいくらでも『ナジャ』におけるランボー的な側面を指摘できるように思われる。
 周知の通り、シュールレアリストにとって、パリ・コミューン期が産んだ詩人ランボーとロートレアモンは神のような存在である。

 カットの画像は都営地下鉄の構内に貼ってあったポスター、見捨ててもらって一番困るのは、身内のスニーカーではない、他者の痛みではないか。度が過ぎて不愉快になるポスター。

『ナジャ』を読む その②

2006-11-21 05:45:29 | 感想その他
 長い序文の最後で一ダースほどの奇怪な一致や偶然の事件をブルトンは記して、ナジャという個性的な女性が登場する本文に備えるのだが、序文の最後は、含意に富み、一読わかりにくいところがある。
 『ナジャ』という作品は、巖谷国士氏が解説で書いているように、「手」と「目」にかかわる事件や文章が多く、それらのシーニュの物語として捉える側面を残しているが、ある日、一人の夫人が、自分の嵌めていた空色の手袋をシュールレウリスム本部に置いていこうとする。それをブルトンが固辞すると、そのときは引き下がったのだが、後日、この「手袋の夫人」の家で、異様な感じのブロンズの手袋を目にするところとなり、そこで、古い板彫りを見せられる。
 一見、壺の絵柄なのだが、脇から見ると「虎」に見え、反対側から見ると「天使」に見えるのである。
 これだけなら不思議はないのだが、その前に、友人のアラゴンに注意を促され、路上のホテルの看板「赤い家」が違った方角から眺めると、「家」が消えて「赤いROUGE」が「警察POLICE」と読めるのである。
 これらの符合は、ブルトンの政治的な不安を表しているに違いない。ロシアにおいて、世界で初めて労働者階級が政権を樹立し、その脅威がヨーロッパ全土に伝播する中で、スターリン政府は政敵を粛正して赤い警察になり下がり、「天使」から「虎」になってしまったという疑念である。
 アラゴンもブルトンも一時共産党に入党したほどだが、後に、周知の通り二人は袂を分かち、アラゴンはマルキストとして終生主義を貫き通したが、ブルトンは、「永久革命」論のトロツキーと接触し反スターリニズムを標榜した。
 ちょつと脇道に逸れたように思われるかも知れないが、ここで、ブルトンが手袋にこだわったのは、「手」=「労働」の象徴に、話をもっていきたかったのではないかと思われるのである。
 ブルトンの労働観が窺われる文章で『ナジャ』の長い序文を終わらせているのは極めて興味深い。実に、ブルトンは書く行為であるエクリチュールの「労働」の側面を分析している。

 「私は自分が昼のなかを歩む人間だなどと思いこむよりも、夜のなかをさまようほうが好きである。労働しなくてはいけないというなら、生きていてもしようがない。誰もが自分自身の生活の意味の啓示をそこに期待する権利をもっている出来事、私もまだそれを見出してはいないかもしれないが、しかしそれへの途上で私自身を探しつつあるこうした出来事は、労働とひきかえにあたえられるものではないのだ。もっともこれは話の進みすぎだろう、なぜならたぶん以上のことを、何にもましてあのとき私に理解させてくれたのは、しかも、まさにそのことが正当化してくれるのは、もう伏せておくこともあるまい、ほかならぬナジャの登場だからである。」(巖谷國士訳)

 「昼」と「労働」が「夜」と「出来事」そして、結論と「過程」が対比されていることに注目したい。ブルトンは「昼」と「労働」と結論の論理による専制を拒否して、「夜」と「出来事」と「過程」を称揚している。
 ここでも、スターリニズムを暗に批難しているのである。ただ、ブルトンは極端に走りすぎているとも云える。本来は、「夜」があっての「昼」であり、「労働」に支えられての「出来事」、結論に至るための「過程」という流れの中で弁証法的に捉えねばならないのだから。
 もっとも、ブルトンが「出来事」に次ぐ「出来事」、感動に次ぐ感動、絶え間ない追求を続けるならば、一種の永久革命の道であり、ランボー的な、詩的な道であるから、論理を飛び越えている。
 それはそれとして、私たちが読んでいる『ナジャ』なる書物は、労働の産物であり、ブルトンがなんと意識しようと実際にペンを執って書いているという労働の結果である。