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日記・物語・エッセイ・感想その他

筆記用具としてのタイプボール

2013-08-21 20:43:18 | エッセイ

 近年、「道化師の蝶」で芥川賞を受賞した円城塔氏の「これはペンです」を読みはじめたら、タイプボールの話が冒頭から出てきた。語り手である「姪」のもとに「叔父」から手紙が来る。叔父は文字のもじりであり、文字ばかりでなく言語体系の隠喩である。姪は、命名の駄洒落かも。書いたり語ったりする文字が、語り手の意識的な作用を離れて自立して、逆に、語り手を操作し始めている現実を、物語化したのが、この作品なのだ。受賞作の方が、小説としては数段練れているが、大筋は同じと言えよう。特殊なタイプボールが誕生日祝いに「叔父」から「姪」に贈られてくる。昔、祖父が使っていてお蔵入りしている電動タイプライターのタイプボールを交換せよというのだ。ここまで書くと、映画通の読者は、虫の形に変形したタイプライターが登場するクローネンバーク監督の「裸のランチ」(原作バロウズ)を思い浮かべよう。映画の方は麻薬がらみの幻想だが、こっちはインターネット社会の現実である。これから、円城氏の著作の解説を試みるのではない。
 だが、タイプボールについて説明しよう。もちろん、私もタイプライターの実物を知らないわけではないが、その中枢部に位置するタイプボールなるものをまったく知らなかった。webで調べると、かなり詳しい画像が出てきて、説明も添えられていた。タイプの印字部分にゴルフボール大の球形があって、その表面にアルファベットなど活字が整然とぎっしり並んでいる。キーボードを操作すると、球が回転して打鍵した活字が印字部分にポジションを取ってカーボンを透して用紙に印刷されるのだ。欧文のように活字が少ない場合は、ゴルフボールほどで済むかもしれないが、漢字圏や和文では、膨大な球となってしまい、実用化はほとんど不可能だろう。物語の贈られてきたタイプボールが具体的にはどのようなものか、説明はない。このボールの秘密が、物語のモチーフであろう。
 表題が「これはペンです」とある通り、このタイプボールは、ペンと比べれば巨大だが、筆記用具のペン先なのだ。一方で、このボールは、キーボードによって動かされる自己完結的なルービックキューブなのを忘れてはなるまい。まして、意識から物質への回路が断たれ、物質から意識への回路だけが機能するとすれば、タイプボールは、遊戯的なルービックキューブに極めて近い。その逆の流れも無視できない。つまり、タイプボールは、ボールペンではないかと言う。余談になるが、ボールペンのアイデア自体はかなり古いものだ。実用化までの過程は、かなりの歳月を要した。私たちの年代では、粗悪なボールペンに苦労したものだ。ボールが機能的に回転せずにガリガリと用紙を削るばかりだったり、油液がどっとあふれ出たり、なにしろ、ペンのような優美な線や微妙なニュアンスを描くにはほど遠かった。ボールペンの書き心地や筆跡の改善は、ペンと比べれば、まだ途上にあるのは否めない。とはいえ、ペンからポールペンへの変革は、タイプボールの登場に見るように、原理的な大きな革命である。一面では情念的な(インクの)流れを金属ボール一個で制御して、概念化に成功したと言えるのだから。だが、この変革によって失われたものがあるのではないか。円城塔氏の二つの著作は、その失われた領域を取り戻そうとする、徒労とも言える試みなのだ。そうした事態は、ペンを使って書く時にも起きている。雑多な記憶や妄想的な思考から文字表現へ至るのには、多くの削除と誇張によって成り立っている。自己表現として確立されたエクリチュールは、ペンによって時間をかけて発展した文化なのだ。ところが、インターネットの時代、webは巨大なタイプライターのようなライティング・ソフトに相当して、象徴としてのタイプボールを介して、書き手の意識に侵食し支配することとなる。「道化師の蝶」で細かな銀の網目の小さな捕虫網を振り回しても、「これはペンである」では、既存のものと精巧なタイプボールを交換しても、事態は変わらない。決して「蝶」の幻影は捉えられないし、「姪」は、物書きとして覚醒できない。しかも、著者は、実は象徴としての「稀代の多言語作家・友幸友幸」や「自動論文生成プログラム」が、その「蝶」や「姪」の存在によって、ようやく、成り立っているのを知っている。にもかかわらず、回路は断たれているのだ。もしかしたら、蝶や姪は、そもそも、物語の自己完結的な推論・説明体系からは、原理的に存在できないのではないか。
 おそらく、《ルービックキューブ→タイプボール→ボールペン→ペン》というエクリチュールの流れを逆転させて、スタティクなペンのイニシアチブを取り戻さねば、決して蝶や姪は捕らえられないのだ。なぜなら、蝶は詩であり、姪は人間実存なのだから。リアリティ自体ではなくリアリティの質が問われていると言えようか。(了)

〈参考〉インターネットのフリー百科事典「ウィキペディア」より電動式・電子式タイプライターの項を検索引用。「アームがらみを避けるために、一定のタイムラグを持って活字を打つようにする機構が工夫された。やがて活字の打刻機構も工夫されることになり、IBMは一九六一年に発表したセレクトリックにゴルフボール様の部品の表面に活字が印字されている「タイプボール」を搭載し、一九七八年には「デイジーホイール」が開発され、その後の打刻機構の主流となる。」


宇宙人王さんとの遭遇

2013-08-09 08:11:20 | エッセイ
 年を取ることの苦痛の一つは、考える方向の転換が難しくなることだ。気晴らしや考えの転換が上手に出来なくなる。一言でいえば、気分転換能力が若い頃よりも衰える。若い者も同じなのだが、それが自覚されることが少ないとも言えるかもしれない。
コメディ・タッチのSFだと思って借りてきたDVD「宇宙人王さんとの遭遇」(一〇一三年一月発売)はきわめて不愉快なイタリア映画で頭にこびりついた。まず、ストーリーを紹介しよう。
 中国語の翻訳者である若い女性ガイアが、ある日、法外な報酬で秘密組織から雇われ、アジトに連れられてくる。中国語を操る、ある人物との尋問の通訳をさせられる羽目に。最初、人物の姿は隠されているが、いかがわしさを感じたガイアが、強く本人を見せるように要求したので面接尋問が実現する。なんと、イカのようなグロテスクで不気味な形をした宇宙人。それも身動きできないように椅子に縛られている。イタリアに居住する黒人女性のアパートに忍び込んでいたのを、警察が捕らえたのだとのこと。宇宙人は中国語しか話さない、彼の言い分によると、事前調査で、中国語が地球でいちばん話されているので習得したと。厳しい尋問で、地球にやってきた目的を、繰り返し聞かれるが、一貫して「地球人との親善」のためとしか答えない。尋問者は、次第に高圧的になって、宇宙人王さんを侮辱したり、脅迫したり、果ては電気ショックの拷問まで始める。宇宙人は、哀れげな声を上げて泣き叫ぶばかり。ガイアが何度もこの尋問の違法性を指摘して抗議するが、無駄である。拷問を目撃してこらえきれなくなった彼女は、ちょっとした隙を見つけて、尋問室を脱出する。施設から逃げ出そうとするが、警戒が厳重でそれもできない。その間に、なにか緊急事態が起きたらしく、館内に人の気配がなくなる。尋問室に鞄を置いてきたので、それを取りに戻り、まだ、縛られたままの哀れな王さんを助ける。あちこち、さまよううちに自宅に戻る。窓から見た光景に愕然とする。無数の宇宙船が空から街を攻撃している。迎え撃つ飛行機は次々に撃ち落されている。地球の破滅がやってきたのだ。ガイアの背後で、王さんは、「あなたは人が好過ぎた」と語る。これで終わりである。

 大半が、宇宙人の尋問場面で出来上がっている映画で、見る方も拷問に立ち会っているような苦痛を感じるように出来ている。
不愉快に感じたのは、中国語を宇宙人が話す理由である。それは、どうでも良いのかも。日本語でもアラビア語でも良い、外国語を話す者への偏見であり、皮膚の色や容貌など外見が異なる者への人種的な差別意識が見え見えだったから。彼らを対等な人間として扱えないという潜在意識。
なによりも、自分の偏見や差別を克服して、いじめられて可哀そうな宇宙人を救助したいというガイアの善意が、愚弄され侮辱されていること。
 製作者は、世界各地で頻発している政治的なテロ事件を念頭に置いて描いているのであろう、緊急時に拷問もやむを得ない、多数のためには少数の犠牲は当然、そうした観点を重ねている。現実に、キューバのアメリカ軍事基地グアンタナモでは、今日も閉鎖されていない。そこではアメリカ軍によるテロ容疑者に対する日常的な拷問が繰り返されているのであろう。最近では、元CIA職員の男がネットの個人情報を違法な手段で取得してスパイ活動していると内部告発をして話題となっている。
 製作者は意図的に対立的な要素、テロリストと国家権力、公益と善意、非日常と日常、差別意識と嫌悪感情をごちゃまぜに混同させて、結局は、狂信的で党派的な側に味方し誘導している。映画や報道・インターネットを含めてメディアの匿名性は、常に、ファシズム的な方向に扇動する危険を内包しているように、私には思える。
 映画の不愉快さに戻れば、中国人にとっては私以上に不愉快だろうが、製作者の悪意があまりにも露骨に見えることだ。理屈とは別に、生理的感情としてやりきれなさを感じさせられるのだ。しかも、仕掛けた製作者は映像権力の影に隠れていて見えない。抗議しようにも抗議できない。それがいつまでも頭にこびりついた原因だろう。
 偏見や悪意が世界をすっぽりと覆ってしまう暗黒時代の到来も、決して夢でないような気分がしてきた。東京の片隅で始まった韓国人への不当なヘイトスピーチも気狂いじみている。放置している右翼内閣も同罪ではないか。なお、この作品はヨーロッパの映画祭で数々の賞を取り話題となったとのことだ。背景に、大国中国の影響の増大ばかりでなく、アフリカからの移民を抱えたイタリアの社会問題があるのであろう。
 それにしても、まだ見ぬ宇宙人を描くのに、想像力がなぜ醜くグロテスクな映像を選ぶのか、不思議である。ひき比べて、それほど人類は心身ともに美しいのか。ところで、宇宙人が人間と同じく征服欲を持つと、なにを根拠に同定できるのか、おそらく簡単な問題ではない。正常と異常の判定でさえも、人間にとっても困難なのだから。
 やはり、イカのような中国人王さんと宇宙人の地球攻撃を結びつける、この映画は、手の込んだヘイトスピーチではないか。