近年、「道化師の蝶」で芥川賞を受賞した円城塔氏の「これはペンです」を読みはじめたら、タイプボールの話が冒頭から出てきた。語り手である「姪」のもとに「叔父」から手紙が来る。叔父は文字のもじりであり、文字ばかりでなく言語体系の隠喩である。姪は、命名の駄洒落かも。書いたり語ったりする文字が、語り手の意識的な作用を離れて自立して、逆に、語り手を操作し始めている現実を、物語化したのが、この作品なのだ。受賞作の方が、小説としては数段練れているが、大筋は同じと言えよう。特殊なタイプボールが誕生日祝いに「叔父」から「姪」に贈られてくる。昔、祖父が使っていてお蔵入りしている電動タイプライターのタイプボールを交換せよというのだ。ここまで書くと、映画通の読者は、虫の形に変形したタイプライターが登場するクローネンバーク監督の「裸のランチ」(原作バロウズ)を思い浮かべよう。映画の方は麻薬がらみの幻想だが、こっちはインターネット社会の現実である。これから、円城氏の著作の解説を試みるのではない。
だが、タイプボールについて説明しよう。もちろん、私もタイプライターの実物を知らないわけではないが、その中枢部に位置するタイプボールなるものをまったく知らなかった。webで調べると、かなり詳しい画像が出てきて、説明も添えられていた。タイプの印字部分にゴルフボール大の球形があって、その表面にアルファベットなど活字が整然とぎっしり並んでいる。キーボードを操作すると、球が回転して打鍵した活字が印字部分にポジションを取ってカーボンを透して用紙に印刷されるのだ。欧文のように活字が少ない場合は、ゴルフボールほどで済むかもしれないが、漢字圏や和文では、膨大な球となってしまい、実用化はほとんど不可能だろう。物語の贈られてきたタイプボールが具体的にはどのようなものか、説明はない。このボールの秘密が、物語のモチーフであろう。
表題が「これはペンです」とある通り、このタイプボールは、ペンと比べれば巨大だが、筆記用具のペン先なのだ。一方で、このボールは、キーボードによって動かされる自己完結的なルービックキューブなのを忘れてはなるまい。まして、意識から物質への回路が断たれ、物質から意識への回路だけが機能するとすれば、タイプボールは、遊戯的なルービックキューブに極めて近い。その逆の流れも無視できない。つまり、タイプボールは、ボールペンではないかと言う。余談になるが、ボールペンのアイデア自体はかなり古いものだ。実用化までの過程は、かなりの歳月を要した。私たちの年代では、粗悪なボールペンに苦労したものだ。ボールが機能的に回転せずにガリガリと用紙を削るばかりだったり、油液がどっとあふれ出たり、なにしろ、ペンのような優美な線や微妙なニュアンスを描くにはほど遠かった。ボールペンの書き心地や筆跡の改善は、ペンと比べれば、まだ途上にあるのは否めない。とはいえ、ペンからポールペンへの変革は、タイプボールの登場に見るように、原理的な大きな革命である。一面では情念的な(インクの)流れを金属ボール一個で制御して、概念化に成功したと言えるのだから。だが、この変革によって失われたものがあるのではないか。円城塔氏の二つの著作は、その失われた領域を取り戻そうとする、徒労とも言える試みなのだ。そうした事態は、ペンを使って書く時にも起きている。雑多な記憶や妄想的な思考から文字表現へ至るのには、多くの削除と誇張によって成り立っている。自己表現として確立されたエクリチュールは、ペンによって時間をかけて発展した文化なのだ。ところが、インターネットの時代、webは巨大なタイプライターのようなライティング・ソフトに相当して、象徴としてのタイプボールを介して、書き手の意識に侵食し支配することとなる。「道化師の蝶」で細かな銀の網目の小さな捕虫網を振り回しても、「これはペンである」では、既存のものと精巧なタイプボールを交換しても、事態は変わらない。決して「蝶」の幻影は捉えられないし、「姪」は、物書きとして覚醒できない。しかも、著者は、実は象徴としての「稀代の多言語作家・友幸友幸」や「自動論文生成プログラム」が、その「蝶」や「姪」の存在によって、ようやく、成り立っているのを知っている。にもかかわらず、回路は断たれているのだ。もしかしたら、蝶や姪は、そもそも、物語の自己完結的な推論・説明体系からは、原理的に存在できないのではないか。
おそらく、《ルービックキューブ→タイプボール→ボールペン→ペン》というエクリチュールの流れを逆転させて、スタティクなペンのイニシアチブを取り戻さねば、決して蝶や姪は捕らえられないのだ。なぜなら、蝶は詩であり、姪は人間実存なのだから。リアリティ自体ではなくリアリティの質が問われていると言えようか。(了)
〈参考〉インターネットのフリー百科事典「ウィキペディア」より電動式・電子式タイプライターの項を検索引用。「アームがらみを避けるために、一定のタイムラグを持って活字を打つようにする機構が工夫された。やがて活字の打刻機構も工夫されることになり、IBMは一九六一年に発表したセレクトリックにゴルフボール様の部品の表面に活字が印字されている「タイプボール」を搭載し、一九七八年には「デイジーホイール」が開発され、その後の打刻機構の主流となる。」