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日記・物語・エッセイ・感想その他

オデュッセイア⑩ 結語

2010-09-30 06:24:59 | エッセイ
古代ギリシア人は、来世にいささかも甘い幻想を持つことなく、現世を生きて神々を讃えて、そこから人間的なささやかな節度ある幸福を見出したに違いない。神々と英雄の頌歌としてのホメロスの叙事詩に、自らを引き上げる、そうした意味で、詩的な物語であり、叙事詩であるのは当然であろう。
 人間疎外の世界を生きる私たち現代人へ、三千年も年月を隔てて古代ギリシアの充実した「存在」の息吹を聞き分けるというささやかな可能性を示唆する奇跡は、文学あるいは詩の栄光でなくてなんであろうか。
 エクリチュールの歴史的な発端が、神々と人間の物語として謳われた意義は、限りなく大きいといえよう。
 最後に、W・F・オットー著『神話と宗教』(筑摩書房刊)に感銘し、参考になったことを謝して記しておきたい。

オデュッセイア⑨

2010-09-29 06:43:00 | エッセイ
長い文学的な伝統として得られた今日のリアリズム的な手法が――ストーリーを辿るのではなく、意識の変容を描くという意味で――、キリスト生誕以前七百年もの昔にすでに獲得されていたという点だけに驚異があるのではない。ホメロスの世界においては、吟遊詩人たちが朗誦することによって、人間の勇気や智恵が賞賛され、しかも、その褒め称えられる根拠は、個人的な資質や矜持に帰せられることなく、神々の恵みとしてもたらされる。彼らは苦しみにおいても、それが神に起因するゆえに讃えた、と捉えたとしても大きな間違いを犯したことにならないだろう。
 呪文や経文を唱えるのではなく、まさに、語ることの創造的造形的な奥深い意味が、今日においては、精神分析で省みられた浄化としての語り書くことの効能が、そこにあると言えないだろうか。
『オデュッセイア』の第十一歌において、オデュッセイウスは、予言者テイレシアスの亡霊に会い、故郷イタケに帰国する方途について教えを乞うために冥界に下る。そこで、トロイア戦役の戦友である英雄アキレウスの亡霊に出会う。
オデュッセイウスは亡霊に語りかける。「以前、おぬしが世にあった時は、われらアルゴス勢はみな、おぬしを神同様にあがめていたし、今はまたこの冥府にあって、おぬしは死者の間に君臨し権勢を誇っているではないか。さればアキレウスよ、死んだとて決して嘆くことはないぞ」と。
それに対してアキレウスは答える。「勇名高きオデュッセイウスよ、わたしの死に気休めを言うのはやめてくれ。世を去って死人全員の王となって君臨するよりも、むしろ地上にあって、どこかの、土地の割り当ても受けられず、資産も乏しい男にでも雇われて仕えたい気持だ」。

オデュッセイア⑧ 本文引用――つづき

2010-09-28 06:43:01 | エッセイ
「お名前は存じませんが、神よ、お聞きください。ポセイダオンのおとがめを避けつつ海上から逃れ、祈りに祈った甲斐あってようやくあなたの許へたどり着きました。たとえば今のわたしが、さんざんに艱苦を嘗めた末、あなたの流れとお膝にすがって神助を乞うように、漂泊の人間が膝にすがってくれば、神々も無下にはなさらぬもの。どうか神よ。お憐れみください。わたしはまぎれもなく、嘆願者としてあなたの許へ参ったものです」
 (オデュッセイウスが)こういうと河神はすぐに自分の流れを止めて波を抑え、オデュッセイウスの進む水路をならして、つつがなく河の河口へ入れてやった。波浪との戦いに精根尽き果てて、両膝もたくましい両腕もぐにゃりと曲がってしまった。全身がふくれあがり、口と鼻からは海水が滝のごとく流れ落ちる。疲労困憊してしばしは呼吸も出来ず、声も出せずに半死半生の態で倒れていたが、やがて呼吸も戻って正気に返ると、身に巻いた女神のヴェールをほどく。それを海に注ぐ河中に投げると、大波が河の流れに従って再び海に運び去り、イノ(オデュッセイウスを憐れみ霊力あるヴェールを与えた海の神――引用者注)はすぐにそれを我が手に受けた。オデュッセイウスは河から離れ、藺草の根元に屈んで、稔りを恵む大地に口を触れた。

オデュッセイア⑦ 本文引用――つづき

2010-09-27 08:09:08 | エッセイ
このようなことを胸中に思い巡らしている折りしも、山をなす大波がぎざぎざの岩へ彼を運ぶ。もしこのとき、眼光輝く女神アテネが思いつかせてくれねば、皮は破れ骨は粉々になっていたであろうが、とっさに両の手で岩を掴み、大波の通り過ぎるまで呻きながら岩にすがっていた。こうしてこの大波を避けたものの、帰す波が再び彼を強く撃ち、海上遥かに押し戻した。それはあたかも、穴から引き出される蛸が吸盤に、無数の小石が堅く付着しているさまにも似て、岩にすがった彼のたくましい手から皮膚が剥がれ、大波が彼の身をおおった。もしこのとき眼光輝く女神アテネが、彼に沈着な思慮を授けねば、あわれやオデュッセイウスもここに非業の最期を遂げたであろうが、波の下から頭をもたげると、陸地めがけて吐き出される怒涛を避けて、どこぞに波をまともに受けぬ入江の浜が見つかりはせぬかと、陸のほうへ目をやりつつ、岸に沿って泳ぎ続ける。やがて清き流れの河の河口に泳ぎ着くと、ここには岩もなく平坦で、そのうえ風も当たらず、これこそ上陸するには絶好の場所と思われた。河が流れて居るのを感得すると、心の中で祈っていうには、

オデュッセイア⑥ 本文引用

2010-09-26 07:03:56 | エッセイ
その時オデュッセイウスは二日二晩怒涛にもてあそばれ、幾度か死を目前に見たが、髪麗しい曙の女神が、三日目に朝をもたらせたとき、ようやく風はやんで穏やかな凪となり、大波のうねりに持ち上げられて前方に眼を凝らすと、間近に陸の影を見た。無残な病魔にさいなまれ、日に日にやつれ細りつつ、長らく病の床に呻吟していた父親が、うれしくも神々の加護で病苦を免れ、子供らが救われた父の命を喜ぶように、目に映る陸や森の姿が、オデュッセイウスにはなんともうれしく、少しも早く陸を踏もうと必死に泳ぐ。呼べば声の届くほどの距離まできたとき、海水が岩礁に当たる轟音を聞いた。大波が乾いた陸に吐き出され、凄まじい響きを立て、あたり一面が海水の泡に包まれている。船を泊まらせる入江も、碇を下ろす格好の場所もなく、海中に突き出た岸や岩礁に岩場ばかり。このときオデュッセイウスの膝も心もともに萎え、憮然として己が剛毅の心に向かっていうには、
「ああ情けない、思いもよらずゼウスが陸地を見せてくださり、わしもこうしてわだつみを見事に渡り終えたというのに、灰色の海から上がる手立てが見つからぬ。岸の前面には鋭くとがった岩礁が並び、大波がそのまわりに砕けて凄まじい響きを立てる。さらに滑らかな岩礁が切り立ち、岸の近くの海は深くて到底足が立たず、これでは水死を免れる望みはない。陸に上がろうとすれば、波にさらわれ岸壁に打ち付けられて、せっかくの努力も無駄になろう。また、岸沿いに泳ぎ続け、まともには波をかぶらぬ浜の入江を求めて進めば、またもや突風にさらわれ、わしがいかに呻き嘆こうと、魚の群れる大海へ流されるかも知れず、あるいはいずれかの神霊が、名に負う海の女神アンピトリテがあまた養っておられるごとき、巨大な怪獣をけしかけてこられる恐れもある。名にし負う大地を揺るがす神が、いかにわしを憎んでおられるか、わしにはそれがよく判っている」

オデュッセイア⑤

2010-09-25 06:13:32 | エッセイ
ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』は、トロヤを陥落させたギリシア軍の大将の一人、オデュッセイウスが帰国の途中で難破して、多くの部下を失い、大海をさ迷う。漂着した各地で神話的な怪物や魔女に遭遇し未知の国々を訪れ、九死に一生を得て、単身、故郷のイタケにひそかに帰国する。彼の財産を蕩尽し、妻へ求婚を続ける貴族どもを皆殺しにして王権を回復する物語である。
 元はといえば、神々が彼の凱旋帰国を望まず、数々の試練を課したからにほかならない。とりわけ、彼によって巨人キクロプロスを失明されられた海神ポセイドンの怒りは凄まじく、故郷にたどり着くまでオデュッセイウスを痛めつける。一方、女神アテネはトロヤ戦役以来一貫して彼を庇護し、恩恵を与え続ける。以下の引用は、故郷イタケに帰り着くまでの最後の訪問地パイエスケ人の国へ漂着したときのくだりである。(岩波文庫の松平千秋訳『オデュッセイア』上巻・第五歌146頁から)。

オデュッセイア④

2010-09-24 06:11:19 | エッセイ
ホメロスによって語られた物語は、語られたときすでに民族の歴史の遠い記憶――今日的な表現では民族の無意識と呼ぶべきもの――に属していた。おそらく、吟遊詩人によって語り伝えられたものを、文字使用の一般化によって、書き継がれたものであったろう。ホメロスと称する作者が、紀元前七百年頃に実在したとしても、大筋では伝説・伝承に負うところが多かったに違いない。
 つまり、叙事詩『オデュッセイア』は神々の〈黄金の時代〉と〈鉄の時代〉である古代ギリシア世界との接点にあるものであり、現実の物語というよりも、至福の、栄光の物語であり、古代ギリシアの延長たる現実世界と混同されてはならない、聖なる神々の世界の物語であった。
 ホメロスとは、いささかも視覚的なイメージによって成立せず、特異な信仰とはいえ、宗教的感動によって共有されるべき物語であり、私たち現代人が本書を読むとき、飛ばし読みする箇所にこそ、反って真実があると思われる。端的に言えば、ホメロスの世界は、古代ギリシア人にとって超歴史的な歴史なのであって、彼らはそれ以外の歴史を必要としなかったともいえよう。ツキディデスが古典期の終焉を史実的に綴った『戦史』でさえも、いわゆる歴史書として書かれたものではなく、歴史的な教訓劇なのである。
ついでに付け加えれば、古代ギリシアの悲劇作家の作品とも、その個を超越した宗教性において、ホメロスは大いに性格を異にしている。

オデュッセイア③

2010-09-23 06:43:33 | エッセイ
古代ギリシアに関する考古学的な発見は、ホメロスの世界の歴史的な位置づけを可能にしている。オリエント的な巨大な構築物と財宝の備蓄の文化の影響を強く受けたミケーネ・クレタの時代は、紀元前千二百年頃に繁栄し、そのころ、トロイア戦争と後世に呼ばれた二十年にも及ぶ戦争が勃発した。小アジアに位置する裕福な都市国家トロイアに、ギリシア本土からアガメムノンを総大将とする連合軍が襲い掛かったと推定されている。『イリアス』などを読む限り、敵も見方も古代ギリシア語を話す同族と思われる。当時すでに、鉄器も用いられていたが、青銅器が主流の文化で、文字も日常的には使用されていなかったと思われる。
 その後、同じギリシア語族に属するドリア人の南下があり、オリエント的な文化遺産は徹底的に破壊され抹殺されて、以降、すでに触れた古典期ギリシア(紀元前四百年ごろ)に至るまでの約六百年間は、いわゆる暗黒の時代が到来する。その間、ポリス間の熾烈な抗争が行われ、ギリシア文字が一般化されて、急速なポリス文化の発展がもたらされた。航海術が格段に進歩して、ギリシア連合軍は、大国ペルシアとの戦役に勝利し、今日、古典期と呼ばれるギリシア文化の絶頂期を迎える。言うまでもなく、その中心は、戦役に主導的な役割を果たしたアテナイである。パルテノン神殿の建設はそのシンボルともいえよう。

オデュッセイア②

2010-09-22 06:35:07 | エッセイ
古代ギリシア人は、死後の世界を霊魂がただ影のように漂うものとして、決して美化しなかった。にもかかわらず、永遠で至福の世界としての、神々の存在を疑うのは、少なくとも、公式な席で表明するのは、ポリス共同体の否定へと繋がるものとして、厳しく咎められた。自分たちの生存は、神々の至福の世界から比べるならば、死後の世界のように、あやふやではかない存在であるが、神々は――人間と同様に喜怒哀楽の生活を続けているが――永遠の栄光によって祝福されて存在しており、老いることも死もなく、そのあること自体がはかない人間にとって大いなる恵みであり慰めであると。なんと慎ましやかな精神であろうか。ギリシア的な節度とは、この謙虚な敬神の精神にあると断言しても過言ではない。個人的な救い、つまり魂の救済は、信仰によってではなく、神々の恵みと当人の節度に任されていた。おのれの魂が救われるとか、永世を得るとか、利己的でさもしい動機とは、無縁なつつましい精神といえよう。しかし、だからと言って、彼らは神々への信仰と儀式を決してなおざりにはしなかった。彼らの文化は、生粋の自立の精神と美的な感性、あえて言えば、芸術的造形的信仰という史上稀な信仰によって支えられていたのである。見方を変えれば、ポリスの成員である市民と奴隷との階級的な隔たり、あるいは、緊張によって裏付けられていたとも、今日的な観点から捉えられよう。

オデュッセイア①

2010-09-21 16:57:45 | エッセイ
文学作品として『オデュッセイア』を読むとき、多くの前提が必要となる。私たちが今日の形で目にするこの叙事詩が、どのように成立し、かつてどのように読まれたかを度外視して読むならば、煩雑な繰り返しと、決まり文句、荒唐無稽な怪物退治、無意味な宝物の羅列、そして、なによりも主人公オデュッセイウスの血なまぐさい蛮行に、人はほとんど読み通す神経を持ち合わせないのではないか。本書のダイジェスト版を読んだり、粗筋を辿るだけの読書ならば、もちろん、いかなる前提も要さない。
 とはいえ、ストーリーが変化に富み、絵画的な要素を織り込んだ本書は、古代ギリシアの壷絵から現代小説、「ユリシーズ」ものとして現代映画に至るまで限りない題材を提供し続けていることは周知のとおりである。
 ギリシア人がフェニキア人の影響を受けて文字を作り出す以前の、紀元前七百年頃成立したと推定されるこの叙事詩は、いわゆる文学作品ではない。しかし、口承伝説と言い切るには、あまりに古代ギリシア人の生活と歴史に深く結びついており、限りなく文学作品に近いということも出来る。ただし、重大な条件付きであるが。
 この叙事詩は、人類文化の一つの頂点を極めたかに見える、ソクラテスの、プラトンの、あるいはソフォクレスやツキディデスの、ペリクレスの古典期ギリシアにおいて、自らの時代を「鉄の時代」として蔑視して、天地開闢に始まる神々の時代を「黄金の時代」とみなし、そして、人間と神々との直接的な接触を可能であった「青銅の時代」の物語として語り継がれたのが、大いなる至福の物語である『イリアス』であり、本書なのである。