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日記・物語・エッセイ・感想その他

利休が面白い(三) 夢という対象への距離

2013-12-22 20:54:07 | エッセイ
 野上弥生子の『秀吉と利休』(一九六四)の十七年後に、井上靖の『本覚坊遺文』(一九八一)が世に出た。この小説は、死去の十年前七十一歳の時の作品である。利休の弟子、本覚坊の独白の体裁で書かれている。本覚坊は三十一歳から利休切腹の時、四十歳まで十年間利休に仕えたとされている。
 小説の構成は、夢に始まり夢に終わる。その間に、五つの章ごとに、かつての利休の高弟四人、東陽坊、岡野江雪斎、古田織部、織田有楽の順に出会いと対話、五章では、利休の孫にあたる宗丹と語らっている。終章は最初の夢に戻る。江雪斎の章では、彼が北条方にいたときに山上宗二から得た「山上宗二記」の写本を本覚坊に与えて疑点を問う形になっている。周知のとおり、山上宗二は、秀吉の逆鱗に触れて追放され、北条方にいるとき、捕らえられて秀吉に惨殺された。その著書『山上宗二記』は、今日、岩波文庫で目にすることが出来るが、茶の湯の秘伝とされている。
 本覚坊は、有楽から借りた「山上宗二記」を書き写して、昔を思い出し、夢ともううつつともつかない、宗二の気迫に満ちた声を聴き取る。「〝無〟ではなくならん。〝死〟ではなくなる!」。おそらく、この言葉が、この小説のキーワードの一つなのであろう。
最初の一章は、東陽坊に道で呼び止められ対座した後、師利休の最期から二十日ほど立って見た明け方の夢の記述である。
「その時ふと気付いたのですが、私からかなり離れた前方を、もう一人の人間が歩いております。すぐ師利休だと気付きました。ああ、自分は師のお供をしてこの淋しい道を、冥界の道を歩いているのだと思いました。」「ところが冥界の道ではなくて、その道はどうやら京の道に向かっていることを知りました。誰もが踏み込めない冷え枯れた磧(かわら)の道は、やがて京の道に入って行くことでありましょう。」「が、そうしている時、師利休は足を停めて、ゆっくり私の方を振り向かれました。私がまだ付き随って来ていることをお確かめになったような、そんなその時の感じでした。」「暫くすると、師はもう一度振り向かれました。こんどは、もうここから帰りなさい、そういうように私をお見詰めになりました。」
 そこで本覚坊は引き返して夢から覚める。著者がどのような意図を記述に込めようと、意識してようと無意識であろうと、象徴的な文章であろう。
 辿っている夢の冥途の道とは何か、なぜ利休の冥途の道が京への道なのか、利休は本覚坊がついてくるのをなぜ拒み、本覚坊はそれに従ったのか。そうした疑問の一種の回答として、それぞれ月日を隔てながら、岡野江雪斎、古田織部、織田有楽、そして宗丹との出会いが持たれたのであろう。
 終章は、すでに老境に達した本覚坊が、最初の夢の続きのような夢を見る。利休と対座して、つぶさに師と語るのである。本書の圧巻であろう。ほんの一部を引用する。秀吉と茶室で語る利休の言葉である。本覚坊は、夢ともうつつとも、つかずに聴き取る。
「上さま(秀吉)は茶室に入っても御立派でしたし、お目利きもたいへんなものでございました。でも、もっと御立派なのは武人としてであるに違いありません。こんどのお怒りではきれいさっぱりと、茶などを棄て、本当のお姿をお見せになりました。お蔭で、宗易(利休)の方は宗易の方で、長い夢から覚めて、茶人宗易に立ち返ることができたと思います。上さまのお力に縋って、この現世の中に、現世の富とも、力とも、考え方とも、生き方とも無関係な小さい場所を作ろうといたしました。が、そんなことはもともと無理なことでございました。自分ひとりがそこに坐っていれば宜しかったのでございます。それなのに、愚かにも多勢の方々をそこへ入れようと思いました。とんでもない勘違いでございました。」
 野上弥生子との視点の相違は、権力者と芸術家の關係が、社会構造的にと言うよりも、むしろ、死に至る利休の足跡に焦点が当てられている。両者の関係が、時の経過によって、社会構造としてよりも、いっそう利休個人の足跡、あるいはエクリチュールへ密着している。その帰結として侘び茶の世界の収斂された一点である狭い茶室――一畳半の密室――を突き破り、生ではなく死へと結びつける、距離と経過を示している。追想は本覚坊の夢である。当然、作者井上靖の、対象に対する隔たりと、七十一歳という死に一歩近づいた視点から描かれている。利休の冥途への道を途中までたどった本覚坊と著者の筆跡は同じ道である。現世と無関係な小さな場所、それは死に収斂される。山上宗二も利休も古田織部も、いわゆる非業の死を遂げた。侘び茶の究極は、山本作品がエロティシズムへ、そして井上作品は、死へと収斂される。ジョルジュ・バタイユは「死にまで至る生の称揚」(澁澤龍彦訳)と書いて、エロティシズムと死との深い類縁に言及している。
 エクリチュールは読まれない限り、屍に過ぎない。本覚坊は、途中までたどれても決して、生きている限り利休には追いつけない。ところで、夢の利休が本覚坊を押しとどめて、ひとりたどる「京の道」とはなにか、彼はそこで誰と会おうと言うのであろうか。

利休が面白い(二) 侘びとエロティシズム

2013-12-22 20:50:37 | エッセイ
 最初に野上弥生子の『秀吉と利休』を読んだと書いたが、実は、昔のことでほとんど記憶になかった。山本兼一氏の『利休にたずねよ』(二〇〇八年)を興味深く読んで、野上の小説もあるのを思い起こして読み直した。さらに井上靖の『本覚坊遺文』を読んだのだ。調べると、三作とも映画化されたのだから面白い。映画は、原作の通りに描く必要はないが、監督なり脚本家、あるいは俳優による一つの利休解釈と見なすこともできよう。
 公開を待って近くの映画館で「利休にたずねよ」(田中光敏監督、脚本は小松江里子)を観てきた。この映画を観て、映画『秀吉と利休』と思い比べて明らかに構成が、影響を受けていると思われた。別に悪いことではなく、先人に学んでより良い作品に挑むのは芸術家として当然であろう。それは常識と言って良い。そして、山本兼一氏の原作も、実は、野上弥生子の小説の影響を強く受けているのを感じられた。作品はオリジナリティを競うものではなく、優れていればそれで良く、これも常識である。
 原作で、著者の想像力と力量が如実に表れるのは、野上作品では、利休の末息子である伊三郎の描き方であり、山本作品では、利休の青年時代――与四郎――の恋である。いずれも、資料があっての物語でなく、純粋の創作力のなせる業であろう。前者については、少しふれたので、ここでは与四郎の恋について語りたい。
 利休の実家は、堺の豪商と言っても良い、裕福な魚問屋である。よく知られているように、当時、堺は自由都市の様相を呈していて、舶来ものを含む物品の交流の中継地であった。戦国武将たちがその地の財力や情報に目を付けた。三好衆とあるから四国の豪族であろう、異国の美女を所望し、一時、利休の実家に匿われることになる。高麗の貴族の女である。その囚われの女に一目ぼれした与四郎は、ひそかに美女を略奪して、浜辺の番小屋に潜む。追っ手に突き止められて、心中を試み、女は毒を飲んで果てたが、自分は無様にも死に損なう。そのとき、女の懐にあった香合の小さな壺をおのれのものとする。その壺に、自分が美女の死体から切り取った爪つきの小指を収めて。与四郎は、予想した咎めもなく、実家に戻る。茶の湯の実力者紹鷗や実家の財力の後ろ盾があっての事件の収束である。与四郎、つまり後の利休が、囚われの異国の女に恋する場面を引用する。
「不思議なことに、美しい姫がなかにいると思うだけで、茶色い土の壁が、艶っぽく見えてくる。
――ばかばかしい。
 と、首を振ったが、いや、思い直した。
 なかに美しい命が隠されていればこそ、粗土の壁が輝いて見える。こういう浮きたつような恋のこころが、茶の湯にもほしい。
 ――侘び茶といえど、艶がなければどうしようもない。
 いまは、侘び、寂び、枯(からび)、そんなくすんだ美学ばかりが賞賛されているが、艶を消し去り、鄙めかした野暮ったい道具をそろえても、こころは浮きたたない。
――だいじなのは、命の優美な輝きだ。
あの女を見ていて、そうおもった。
命がかがやけば、恋がうまれる。
夜、かすかな月の光にうかんだ土蔵の壁を見つめて、与四郎は恋していた。」(PHP文芸文庫四八六頁)
 引用は、利休が生涯をかけて追及した侘び茶の美学を青年利休の独白として語っている。おそらく著者の心情を反映したものであろう。その象徴として、好色な権力者の秀吉が欲しがり、身近では愛妻の宗恩が執着し嫉妬した秘密の香合の壺なのだ。著者の山本氏は次のように書いている。「女の小指は、桜色の爪があまりに美しかったゆえに、与四郎は食い千切った。食い千切って、緑釉(りょくゆう)の小壺に入れ、いまも懐に納めている。」(五二五頁)と。それを察知した師紹鷗の、末恐ろしい茶道者利休へ驚きと脅威は、あまりあろう。
 しかし、香合の壺に生の小指を入れて長く保存することが、可能なのかどうか、さらに遺体から、美しいからと言え、食い千切る実際行為は、一種猟奇的であり美学を超えているのではないか。もしそこに美学があるとすれば、利休のものではなく、むしろ、秀吉の美学ではないか。もっとも、黄金の茶室は、秀吉と利休によって作られたのであろうが。少なくても、権力と芸術の關係は、山本氏の小説よりも、野上氏の小説の方に描かれているのではないか。じつは、山本氏が言う茶の湯の美学は、秀吉を締め出し、切り捨てることによって、蕩尽の場としての、淫靡なエロティシズムに収斂されている。
 描いている世界は、野上氏と変わらないが、結末から物語られるように、外からの批評を排除した、狭い茶室の美学の世界であろう。だが、描かれた小説世界の埒外であるが、エロティシズムは密室性を打破する契機であることを忘れてはなるまい、若い与四郎の行動力に見るように。

利休が面白い(一) 死顔の威厳

2013-12-22 20:44:48 | エッセイ
 創作を志す者にとって、千利休の謎めいた死は、よほど意欲を刺激するのであろう。いくつかの小説が読むことができる。おそらく、参照した資料は、ほとんど変わらないと思われるから、それらを読み手がどのように捉えて作品化するのか、興味のあるところである。創作者でなくても、たとえば村井康彦の論考『千利休』(講談社学術文庫)を一読すると、自分でも、エッセイでも小説でも書いてみたいと一瞬思えるのではないだろうか。一介の茶坊主が時の権力者秀吉によって切腹させられる。逆説的には、利休の影響がいかに秀吉に深く作用し、怒りが尋常でなかったことを示している。利休は秀吉の茶道の師であったばかりでなく、今風に言えば、重要な政治顧問であった。
 にもかかわらず、その怒りの具体的な原因となると、利休の沈黙によって、今日でも憶測の域を出ない。一応、それらを箇条書きにしてあげる。
 由緒ある大徳寺の山門に自分の木像を飾り、その股下をくぐらせ、皇族や秀吉など貴顕を侮辱しようとした。茶器の鑑定などで自分の権威を利用して暴利をむさぼった。ここまではいわば表向きであり、以下は、陰でささやかれたことだが、秀吉の唐御陣――朝鮮出兵に反対した。利休の娘を秀吉の側女にするのを拒んだ。
 挙げた、理由のそれぞれにもっともらしい間接資料が存在する。長い江戸時代をへだてて資料がかなり現存すること自体が驚異的なのだが。それらをどのように解釈するか、創作者の自由にゆだねられる。
 私が読んだ利休の小説の最初、野上弥生子の大作『秀吉と利休』は、それらの理由のほとんどに触れているが、焦点は、両者の心理的な葛藤と秀吉の野望である唐御陣に対する利休の失言である。最初の二つの理由は処刑の口実としている。野上の小説は、一見、リアリズム風の心理劇を装いながら、権力と芸術の關係を深く鋭く見据えていることだ。
「彼が今日までつくりあげたものは、秀吉のためではあるがほんとうは彼自らのものである。彼でなければ決して創造しえなかった意味から、数寄屋の小障子一枚にしろ、厳然とそこに彼が生きていることは、生きていた時にもまして秀吉に思い知らせるはずであった。利休の死顔の威厳に充ちた蒼白の静謐は、これらの自信と誇りが与えたものである」(新潮文庫四一八頁)
 この文章は物語のほとんど最後の文章だが、読み過ごしせずに、じっくり味わうべきであろう。
「彼が今日までつくりあげたもの」とは、言うまでもなく利休の侘び茶という芸術であるが、それにとどまらず、茶道を通して接してきた著名な武人・茶人などへの精神的な影響は、手紙などで間接的に偲ぶことができる。あまり良い表現ではないが、利休は清濁あわせ呑む巨人であったからこそ、侘び茶ばかりか、秀吉好みの黄金の茶室や盛大な北野大茶湯さえも愛でることが出来たのだ。おそらく、秀吉というパトロンなくして利休の茶道は完成されなかったのではかなろうか。もちろん「彼(利休)でなければ決して創造しえなかった」のではあるが。残念ながら、芸術は、体験と素材なくして表現の地平を広げられないのだ。この小説の結末は、意外にも、著者の創作になる、利休の末息子・伊三郎の放浪で終わる。才能に恵まれながら、父利休を権力にすり寄るものとして嫌悪して、あらゆる束縛を拒み、茶道から遠ざかる、尻切れトンボで終わっている。
 お茶の世界に疎い人のために言えば「数寄屋の小障子」とは、一畳半という狭い茶室に、たとえ武人であろうと、刀を持って入れず、腰をかがめて、押し入れよりも狭い入口から入る小窓のような〈にじり口〉を指している。儀式と言えば、それまでだが、その一期一会の四時間もの空間こそ、利休の世界なのだ。秀吉でさえも、この茶室であれば、腰をかがめた。大徳寺山門の股くぐりは、秀吉にとって、利休の茶室のくぐり戸と、不思議な類似に私たちは気を付けるべきかもしれない。
「生きていた時にもまして秀吉に思い知らせる」とあるが、これは野上の空想や創作ではない、秀吉は処刑を後悔するそぶりこそ見せないが、何度か亡き利休を思い出しているのは資料として残っている。最後の機会であった、秀吉への助命嘆願を利休が拒否したという根拠にもなろうか。
「利休の死顔の威厳に充ちた蒼白の静謐」、野上は、ここでも利休への同情から、おもんばかって書いているのではない。利休個人の死顔というよりも、むしろ死一般の静謐と威厳を描いて、利休の死に先だって秀吉に虐殺された高弟山上宗二の死をも重ねている。ある意味で、利休も宗二も、切腹や虐殺だからこそ、想像され、読むことによって蘇るのだ。
 小説ではなく、資料に基づき村井康彦氏は、利休の死首を次のように描いている。
「利休の首は蒔田・尼子両人が聚楽の城へ持参したが、実検に及ばずとて、ただちに一条戻橋に曝された。それもおのれの木像におのれの首を踏ませるという無残な姿で。大徳寺山門の額も同じく獄門にかけられたという。」(前褐『千利休』二九四頁)

ボケと悟りと

2013-12-10 20:27:52 | エッセイ
 この夏(二〇一三)、妻が暑さで病気になり入院する破目になった。費用を銀行で引き下ろして通帳を確認しているとき、脇に置いた現金二十万円ほどを盗まれた。まさに迂闊で、盗られたものが出てくるはずはないと思われたが、行員に奨められるままに盗難届を出した。現場検証の立ち会いや調書のための供述など煩瑣な時間を過ごした。
 ところで、記憶能力の衰えと言ってしまえば、それまでだが、そのとき私が銀行のAТMコーナーでどのように行動したか、ほとんど覚えておらず、あてずっぽうに、警官の質問に答えて、機械的に答えているに過ぎないとつくづく思われた。まるで幻か幽霊のようにコーナーを漂っていただけなのだ。
 たまたま、盗難に遭い、記憶を辿らねばならない立場に立たされたのだが、普段の、散歩にしても、幽霊のごとくに漂っているに過ぎなく、後は、一応、記憶と呼ばれる手段でつじつま合わせをしている、それが実態ではないか。
 読書体験と言うのも、特殊な感動は別として、散歩や日常行動とあまり変わらずに、目で字を追いながら、空白の時間を過ごしているのではないか。たまたま、故寺田透のエッセイ集『海山かけて』(三七頁・みすず書房)を読んでいてこんな文章にぶつかった。
「生きた行為する人間の自己認識は、それがどんなに平常な行為の場合でも、細部に目を寄せれば寄せる程空白だらけといふのが実相ではなからうか。決意と呼ぶに足る程のことをして何かをする際の人間の決意は、いつだって狂気に類し、空白に突入し、それを突き抜けるしわざのやうなものだといふのは、小生年来の確信である。」
 なるほど、言われてみれば、「決意」というのは、曲者で、どこが仕方なさや自己放棄の感覚、欺瞞がつきまとう。感情に忠実であるならば、決して決意などしないのではないか。おそらく、幼児は、我欲を貫いても決意などしない。そして「決意」の後には落とし前のように「狂気」がやってくる。
 「決意」といえば、もっとも大がかりな手段、国政の決定権としての議会制民主主義なるものがある。有権者は投票所へ行き、支持者の名前や政党を記入する。ここでの投票という「決意」は、「狂気」に追い込まれた結果ではないか。民主主義といえども、独裁や寡頭政治と変わらない、単なる「狂気」の合法化ではなかろうか、そんな疑問がわいてくる。それでも民主主義が、よりましな制度なのは、繁雑な手続きによるあらゆる遅延が決定の狂気をいささか熱さまし的に作用するからではないか。
 先走ってはいけない、「狂気」や「決意」の前に記憶の「空白」があるのではないか。いや、そうではなく、「決意」ゃ「狂気」が逆に遡って記憶をもたらしているのではないか、記憶の「空白」なる事態も、そんな疑いを持たずにはおれない。そして、困ったことに人は老いるにつれてボケと言う機能低下を考慮に入れなければならない。
最近、道元の著を紐解き始めて、仏教的な「空」や「無」が、記憶の「空白」でないとしたら、どのような観念操作なのか、たとえば、無常観の徹底という説もあるが。
 私は、この「空白」こそがエクリチュール――書く行為――の領域であり、端的に言えば、ペンに対する用紙の位置なのではなかろうか。当然ながら、文化と呼ばれる水準であり、「狂気」に対する遅延の働きをもたらすのではないか。ペンや筆で用紙に書く行為(エクリチュール)こそ、「狂気」であり「決意」だと私は思っている。
 話は変わるが、私の叔父は、日蓮宗の熱心な信者で講元を務めたこともあった。晩年は、四六時中仏壇の前で経を唱えていた。最晩年になると、仏壇を離れていつもニコニコ笑っていた。あれほど物知りであったのに、何を訊いても、まともな答えが返ってこなくて、物足りない思いをしたものだ。つまり、本物のボケになってしまった。おじいちゃんは「悟り」に達したと云った人もいた。
 ボケと悟りはどのように違うのか。もし、記憶力の喪失を伴わないのが「悟り」と言うならば、一種の観念操作の域を出ておらず、エクリチュールと呼んでよいのではないか。
 私は道元を読んでいて、ボケと「悟り」との違いをいまだに理解できないでいる。なぜならボケは一つの死であろうから、生から死という「位」(くらい)、換言すれば、別次元に移ったのだから決定的な断絶があって、生の立場から、ボケも悟りと同質ではないかと。
 エクリチュールに生きる私は、今のところ、エクリチュールと言う「狂気」が終わったら、自分の生を終えたと理解したい。膨大な著書を遺した道元を、エクリチュールに生きた人間と理解している。引用の最後、「年来の確信」もそのことを意味しているように私には思われる。ちなみに寺田透氏は、道元学の碩学である。
「生も一時の位なり、死も一時の位なり。」(『正法眼蔵』「現成公案」の一節)