野上弥生子の『秀吉と利休』(一九六四)の十七年後に、井上靖の『本覚坊遺文』(一九八一)が世に出た。この小説は、死去の十年前七十一歳の時の作品である。利休の弟子、本覚坊の独白の体裁で書かれている。本覚坊は三十一歳から利休切腹の時、四十歳まで十年間利休に仕えたとされている。
小説の構成は、夢に始まり夢に終わる。その間に、五つの章ごとに、かつての利休の高弟四人、東陽坊、岡野江雪斎、古田織部、織田有楽の順に出会いと対話、五章では、利休の孫にあたる宗丹と語らっている。終章は最初の夢に戻る。江雪斎の章では、彼が北条方にいたときに山上宗二から得た「山上宗二記」の写本を本覚坊に与えて疑点を問う形になっている。周知のとおり、山上宗二は、秀吉の逆鱗に触れて追放され、北条方にいるとき、捕らえられて秀吉に惨殺された。その著書『山上宗二記』は、今日、岩波文庫で目にすることが出来るが、茶の湯の秘伝とされている。
本覚坊は、有楽から借りた「山上宗二記」を書き写して、昔を思い出し、夢ともううつつともつかない、宗二の気迫に満ちた声を聴き取る。「〝無〟ではなくならん。〝死〟ではなくなる!」。おそらく、この言葉が、この小説のキーワードの一つなのであろう。
最初の一章は、東陽坊に道で呼び止められ対座した後、師利休の最期から二十日ほど立って見た明け方の夢の記述である。
「その時ふと気付いたのですが、私からかなり離れた前方を、もう一人の人間が歩いております。すぐ師利休だと気付きました。ああ、自分は師のお供をしてこの淋しい道を、冥界の道を歩いているのだと思いました。」「ところが冥界の道ではなくて、その道はどうやら京の道に向かっていることを知りました。誰もが踏み込めない冷え枯れた磧(かわら)の道は、やがて京の道に入って行くことでありましょう。」「が、そうしている時、師利休は足を停めて、ゆっくり私の方を振り向かれました。私がまだ付き随って来ていることをお確かめになったような、そんなその時の感じでした。」「暫くすると、師はもう一度振り向かれました。こんどは、もうここから帰りなさい、そういうように私をお見詰めになりました。」
そこで本覚坊は引き返して夢から覚める。著者がどのような意図を記述に込めようと、意識してようと無意識であろうと、象徴的な文章であろう。
辿っている夢の冥途の道とは何か、なぜ利休の冥途の道が京への道なのか、利休は本覚坊がついてくるのをなぜ拒み、本覚坊はそれに従ったのか。そうした疑問の一種の回答として、それぞれ月日を隔てながら、岡野江雪斎、古田織部、織田有楽、そして宗丹との出会いが持たれたのであろう。
終章は、すでに老境に達した本覚坊が、最初の夢の続きのような夢を見る。利休と対座して、つぶさに師と語るのである。本書の圧巻であろう。ほんの一部を引用する。秀吉と茶室で語る利休の言葉である。本覚坊は、夢ともうつつとも、つかずに聴き取る。
「上さま(秀吉)は茶室に入っても御立派でしたし、お目利きもたいへんなものでございました。でも、もっと御立派なのは武人としてであるに違いありません。こんどのお怒りではきれいさっぱりと、茶などを棄て、本当のお姿をお見せになりました。お蔭で、宗易(利休)の方は宗易の方で、長い夢から覚めて、茶人宗易に立ち返ることができたと思います。上さまのお力に縋って、この現世の中に、現世の富とも、力とも、考え方とも、生き方とも無関係な小さい場所を作ろうといたしました。が、そんなことはもともと無理なことでございました。自分ひとりがそこに坐っていれば宜しかったのでございます。それなのに、愚かにも多勢の方々をそこへ入れようと思いました。とんでもない勘違いでございました。」
野上弥生子との視点の相違は、権力者と芸術家の關係が、社会構造的にと言うよりも、むしろ、死に至る利休の足跡に焦点が当てられている。両者の関係が、時の経過によって、社会構造としてよりも、いっそう利休個人の足跡、あるいはエクリチュールへ密着している。その帰結として侘び茶の世界の収斂された一点である狭い茶室――一畳半の密室――を突き破り、生ではなく死へと結びつける、距離と経過を示している。追想は本覚坊の夢である。当然、作者井上靖の、対象に対する隔たりと、七十一歳という死に一歩近づいた視点から描かれている。利休の冥途への道を途中までたどった本覚坊と著者の筆跡は同じ道である。現世と無関係な小さな場所、それは死に収斂される。山上宗二も利休も古田織部も、いわゆる非業の死を遂げた。侘び茶の究極は、山本作品がエロティシズムへ、そして井上作品は、死へと収斂される。ジョルジュ・バタイユは「死にまで至る生の称揚」(澁澤龍彦訳)と書いて、エロティシズムと死との深い類縁に言及している。
エクリチュールは読まれない限り、屍に過ぎない。本覚坊は、途中までたどれても決して、生きている限り利休には追いつけない。ところで、夢の利休が本覚坊を押しとどめて、ひとりたどる「京の道」とはなにか、彼はそこで誰と会おうと言うのであろうか。
小説の構成は、夢に始まり夢に終わる。その間に、五つの章ごとに、かつての利休の高弟四人、東陽坊、岡野江雪斎、古田織部、織田有楽の順に出会いと対話、五章では、利休の孫にあたる宗丹と語らっている。終章は最初の夢に戻る。江雪斎の章では、彼が北条方にいたときに山上宗二から得た「山上宗二記」の写本を本覚坊に与えて疑点を問う形になっている。周知のとおり、山上宗二は、秀吉の逆鱗に触れて追放され、北条方にいるとき、捕らえられて秀吉に惨殺された。その著書『山上宗二記』は、今日、岩波文庫で目にすることが出来るが、茶の湯の秘伝とされている。
本覚坊は、有楽から借りた「山上宗二記」を書き写して、昔を思い出し、夢ともううつつともつかない、宗二の気迫に満ちた声を聴き取る。「〝無〟ではなくならん。〝死〟ではなくなる!」。おそらく、この言葉が、この小説のキーワードの一つなのであろう。
最初の一章は、東陽坊に道で呼び止められ対座した後、師利休の最期から二十日ほど立って見た明け方の夢の記述である。
「その時ふと気付いたのですが、私からかなり離れた前方を、もう一人の人間が歩いております。すぐ師利休だと気付きました。ああ、自分は師のお供をしてこの淋しい道を、冥界の道を歩いているのだと思いました。」「ところが冥界の道ではなくて、その道はどうやら京の道に向かっていることを知りました。誰もが踏み込めない冷え枯れた磧(かわら)の道は、やがて京の道に入って行くことでありましょう。」「が、そうしている時、師利休は足を停めて、ゆっくり私の方を振り向かれました。私がまだ付き随って来ていることをお確かめになったような、そんなその時の感じでした。」「暫くすると、師はもう一度振り向かれました。こんどは、もうここから帰りなさい、そういうように私をお見詰めになりました。」
そこで本覚坊は引き返して夢から覚める。著者がどのような意図を記述に込めようと、意識してようと無意識であろうと、象徴的な文章であろう。
辿っている夢の冥途の道とは何か、なぜ利休の冥途の道が京への道なのか、利休は本覚坊がついてくるのをなぜ拒み、本覚坊はそれに従ったのか。そうした疑問の一種の回答として、それぞれ月日を隔てながら、岡野江雪斎、古田織部、織田有楽、そして宗丹との出会いが持たれたのであろう。
終章は、すでに老境に達した本覚坊が、最初の夢の続きのような夢を見る。利休と対座して、つぶさに師と語るのである。本書の圧巻であろう。ほんの一部を引用する。秀吉と茶室で語る利休の言葉である。本覚坊は、夢ともうつつとも、つかずに聴き取る。
「上さま(秀吉)は茶室に入っても御立派でしたし、お目利きもたいへんなものでございました。でも、もっと御立派なのは武人としてであるに違いありません。こんどのお怒りではきれいさっぱりと、茶などを棄て、本当のお姿をお見せになりました。お蔭で、宗易(利休)の方は宗易の方で、長い夢から覚めて、茶人宗易に立ち返ることができたと思います。上さまのお力に縋って、この現世の中に、現世の富とも、力とも、考え方とも、生き方とも無関係な小さい場所を作ろうといたしました。が、そんなことはもともと無理なことでございました。自分ひとりがそこに坐っていれば宜しかったのでございます。それなのに、愚かにも多勢の方々をそこへ入れようと思いました。とんでもない勘違いでございました。」
野上弥生子との視点の相違は、権力者と芸術家の關係が、社会構造的にと言うよりも、むしろ、死に至る利休の足跡に焦点が当てられている。両者の関係が、時の経過によって、社会構造としてよりも、いっそう利休個人の足跡、あるいはエクリチュールへ密着している。その帰結として侘び茶の世界の収斂された一点である狭い茶室――一畳半の密室――を突き破り、生ではなく死へと結びつける、距離と経過を示している。追想は本覚坊の夢である。当然、作者井上靖の、対象に対する隔たりと、七十一歳という死に一歩近づいた視点から描かれている。利休の冥途への道を途中までたどった本覚坊と著者の筆跡は同じ道である。現世と無関係な小さな場所、それは死に収斂される。山上宗二も利休も古田織部も、いわゆる非業の死を遂げた。侘び茶の究極は、山本作品がエロティシズムへ、そして井上作品は、死へと収斂される。ジョルジュ・バタイユは「死にまで至る生の称揚」(澁澤龍彦訳)と書いて、エロティシズムと死との深い類縁に言及している。
エクリチュールは読まれない限り、屍に過ぎない。本覚坊は、途中までたどれても決して、生きている限り利休には追いつけない。ところで、夢の利休が本覚坊を押しとどめて、ひとりたどる「京の道」とはなにか、彼はそこで誰と会おうと言うのであろうか。