発祥に「遡る」思想であるベルクソン哲学は、行動に出発し生命にたどり着く。『創造的進化』は、その生命から系統樹という手の形を通じて、行動であるエクリチュールに至る。執筆の手は、始原の生命であるエラン・ヴィタールとの間で収斂と拡散を繰り返す。
つまり、系統樹は逆さ円錐を逆立ちさせ、円錐に戻して完成された。砂時計は何度でもひっくり返される。
だが、この装置は、砂時計とは違う。既述のとおり、始原も到達位置も底抜けである。ベルクソン哲学の根源にあるのは、始原も到達位置も不分明なもの、イマージュであり、カオスである。
「道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。天地の始めには名なし、万物の母には名あり。故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼(きょう)を観る。此の両者は同じに出でて名を異にす。同じきところ之を玄と謂う。玄の又玄、衆妙の門」(『老子』第一章・「徼」は境の意味)
ベルクソンは、その始原のイマージュを自然な出産の前に、イマージュから観念を、社会的に役立てるために、早産させる。もっとも、ベルクソン個人の責に帰すべきでなく、ギリシア哲学以来の西欧哲学の伝統である。
西欧哲学において異質なベルクソン的イマージュは、内側の思想であり、社会はその外側である。ルソー的に言えば、内側は自然状態、外側は社会状態ということになる。
老子は、内側の思想の成熟を待つ自然分娩の思想である。外側から言えば、甘えの思想であろう。外側を内側から決壊させる批評としての甘えであり、外側に先んじて内側はなく、外側の矛盾から生成される。老子は孔子に先立って生まれたのではない。ベルクソン哲学も概念哲学への批判哲学であると私は解している。
逆さ円錐は、円錐の批評に他ならず、その構造には潜在的に円錐が含まれている。ちなみにマルクス経済学の「使用価値」は「交換価値」への批評概念である。《起源に遡ること》は常に批評といえよう。現象学を省みれば、その詳細はいっそう明らかになる。
「戸を出でずして天下を知り、牖(ゆう)を窺わずして天道を知る。其の出づること弥々(いよいよ)遠ければ、弥々少し。是を以て聖人は、行かずして知り、見ずして名づけ、為さずして成す」(『老子』四十七章・「牖」は窓の外ほどの意味)
つまり、系統樹は逆さ円錐を逆立ちさせ、円錐に戻して完成された。砂時計は何度でもひっくり返される。
だが、この装置は、砂時計とは違う。既述のとおり、始原も到達位置も底抜けである。ベルクソン哲学の根源にあるのは、始原も到達位置も不分明なもの、イマージュであり、カオスである。
「道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。天地の始めには名なし、万物の母には名あり。故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼(きょう)を観る。此の両者は同じに出でて名を異にす。同じきところ之を玄と謂う。玄の又玄、衆妙の門」(『老子』第一章・「徼」は境の意味)
ベルクソンは、その始原のイマージュを自然な出産の前に、イマージュから観念を、社会的に役立てるために、早産させる。もっとも、ベルクソン個人の責に帰すべきでなく、ギリシア哲学以来の西欧哲学の伝統である。
西欧哲学において異質なベルクソン的イマージュは、内側の思想であり、社会はその外側である。ルソー的に言えば、内側は自然状態、外側は社会状態ということになる。
老子は、内側の思想の成熟を待つ自然分娩の思想である。外側から言えば、甘えの思想であろう。外側を内側から決壊させる批評としての甘えであり、外側に先んじて内側はなく、外側の矛盾から生成される。老子は孔子に先立って生まれたのではない。ベルクソン哲学も概念哲学への批判哲学であると私は解している。
逆さ円錐は、円錐の批評に他ならず、その構造には潜在的に円錐が含まれている。ちなみにマルクス経済学の「使用価値」は「交換価値」への批評概念である。《起源に遡ること》は常に批評といえよう。現象学を省みれば、その詳細はいっそう明らかになる。
「戸を出でずして天下を知り、牖(ゆう)を窺わずして天道を知る。其の出づること弥々(いよいよ)遠ければ、弥々少し。是を以て聖人は、行かずして知り、見ずして名づけ、為さずして成す」(『老子』四十七章・「牖」は窓の外ほどの意味)