Kawolleriaへようこそ

日記・物語・エッセイ・感想その他

さすらいの青春

2013-02-08 08:03:11 | エッセイ
探していたVHS「さすらいの青春」をヤフオクで入手した。アラン・フルニエ(一八八六〜一九一四)の名作『ル・グラン・モーヌ』(モーヌの大将)を原作にしたジャン・アルビコッコ監督の作品である。六六年の制作だから、私が二十代の頃のフランス映画である。日本でも封切りされたのであろうが、記憶にない。DVDの時代、処分を免れていたテープデッキを使って観た。フィルムが悪いのか、映像が不鮮明で、しかも滲んでいるというか、ぶれているというか、とんでもない不良品をつかまされたと思った。繰り返し観ているうちに、たしかにぼやけているが、意図的なものかもしれないと思われてきた。私がすでに原作を読んでいて、夢のような幻想的な雰囲気がこの著作の生命線である。
 映画の原作の山場は、主人公のモーヌが、偶然、野原で紛れ込んだ祝祭である。
 フルニエの生きた時代は、第一次大戦以前の、近代化の波がヨーロッパを覆い、発明と啓発に人類にとって理想が垣間見られた時代でもあった。大都会と農村との間には、時間差があって、互いに理想化して、現代とローマン的古代文化の共存に酔える瞬間、そこに書くべきなにものか、稀な文学的な空間が存在した。フルニエより十歳年下で、資産家の家に生まれた賢治の場合も、故郷の花巻と東京との間を何度も往還を繰り返して、文明開化の息吹きを誰よりも新鮮に感じ取ることが出来たのだ。賢治の文学のバタ臭さは、幼年期への回顧と文明開化のハイカラ精神の混在であって、彼の童話は、本来的には、子供のためのものでなく、懐かしさを感じ取る能力を得る青年期の詩的な感性に属している。
 映画に戻ると、都会から転校してきた大柄なモーヌ(十七才)が迷い込んだのは、没落した田舎貴族の息子フランツが仕組んだ前時代的な婚礼の祝祭なのだ。それに先立って、すでにモーヌはなにものかへの期待と欲望に陶酔していた。おあつらえ向きの祝祭であった。映画の映像は、この場面から、私に違和を感じさせて、ずれてぼやけたようなものになる。原作を読んだときの感動と比べれば、表層を描いたとしか思えない。
 筋書きは、世間知らずで、ロマンチストのお坊ちゃまフランツが、パリでかわいらしい娘を見つけて、田舎の居城で祝宴を挙げようとする。ところが貧しい針子の婚約者は、怖気づいてしまい、逐電。結局、用意された祝宴は早々に解散になる。
 華やかでいて悲惨な結果に終わったこの宴で、モーヌは美女イヴォンヌ――フランツの姉――を一目見て、恋に陥る。突然、恋を仕掛けられた彼女にとっては、初めての恋であったのであろう。
 学校に戻ったモーヌにとって、忘れられない恋の体験となり、後の学校生活で、イヴォンヌの弟と知らずにフランツと知り合い、彼女のパリでの滞在住居を聞き出す。
 パリにやってきたモーヌは、偶然出会った若い女にイヴォンヌが結婚したことを知らされる。実は誤報であったのだが――。落胆した彼は、同情するその女と親しくなり、婚約状態となる。そこへ、友人のフランソワから、イヴォンヌが結婚しておらず、一家は落ちぶれたとはいえ、健在であることを知らされる。モーヌは、フランソワのはからいでイヴォンヌとの再会を果たす。実は、彼が婚約状態にある娘こそ、フランツのもとを去った婚約相手ヴァランチーヌなのだ。モーヌは娘と別れて、イヴォンヌに結婚を申し込む。結婚の初夜、自殺をほのめかすフランツの悲痛な悲しみの口笛を聞く。モーヌは、彼が口笛を吹いた時には必ず助けに行くと固く約束していた。フランツとともに、行方不明のヴァランチーヌを捜しに、旅に出る。
 フランツは、大人に慣れきれず、いつまでも幼年時代にこだわる万人の心の象徴である。彼をちやほやする家族や友人たちも、おのれの幼年期を懐かしむ人たちなのだ。モーヌが、フランツとの友情を振り切れずに幸福な結婚生活を諦めたのも、そのためだ。無意識とはいえ、モーヌの行動は、それを裏切り踏みにじって行くのである。結果的には、初心なイヴォンヌに恋を仕掛けて結婚し、大切な友人の婚約者を、性的な関係は持たなかったようだが、凌辱したことになる。
 『ル・グラン・モーヌ』が名著なのは、著者フルニエが、フランソワの思い出の形で、モーヌを主人公にして、幼年時代と呼ばれる無垢を踏みにじる形でしか、過酷な人生への門出はありえないことを描いたこと。と同時に、茫漠とした点線でしかない記憶をなぞりモーヌという情熱家の行動の実線で塗りつぶす、文学の本質の一面――凌辱――を、絶妙に示したことであろう。映画の映像のずれは、幻想を描く映像芸術の苦闘の姿にもとれようか。一夜妻イヴォンヌは、モーヌの娘を生み落して産褥で他界。鉗子に挟まれて、ようやく生まれた娘は、帰還したモーヌの手に渡り、最初の障害も乗り越えて、文学的な感動の運命ように、危うくも成長していく。