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夢想⑨

2009-11-23 06:53:41 | 感想その他
 「幸福というものはある永続的な状態なのであって、それはこの世では人間に与えられないものらしい。地上ではすべてが絶え間ない流れのうちにあって、何ものも普遍の姿を持つことは許されていない。私たちの周りにあるものはすべて変わってゆく。私たち自身も変わってゆき、今日愛しているものを明日も愛しているかどうか、誰も確信を持って言うことは出来ない。だからこの世の生活の幸福を求める私たちの計画はすべて幻想なのである」「幸福というものは外見的なしるしを持たない。それを知るには幸福な人の心の中を読み取らなければなるまい。けれども満足感というものは目つきや、態度や、言葉の調子や、歩き方などによって読み取ることが出来るし、その様子を眼にする人に感染するものでもあるらしい。何かの祝い日などに民衆のすべてが歓喜に酔っているのを見、すべての人の心が人生の雲間にきらめく一瞬のしかし強烈な、悦楽の神々しい光にほころびるのを見るに勝る快い楽しさがあろうか」(今野一雄訳)

 「第九の散歩」に入ったが、前の散歩のときの言説と矛盾しているようにも感じられる。ここで言う「幸福」は幻想のものである。一方、真の「幸福」は「心の中を読み取らねば」得られないものなのだ。つまり、エクリチュールの白紙。
 しかも、真の「幸福」が内面的なものと捉えながら、「満足感」は大衆的な喜びの中に眼差しや表情や言葉の端々にみなぎるのを認めている。おそらく、ルソーは「幸福」というものが、満足感の表象に見るように、個人的なものではなく、それを超えたところにあると見ているのであろう。高度な思索的な探求を伴う、難解な文章ではないだろうか。
 実は、以降展開される記述、この「第九の散歩」に、私は魅力を感じていない。心に響いてこないのだ。「捨て子事件」で傷ついたルソーが、再び息を吹き返して、綿々と弁明に努める姿をどうしても拭い去れない。すでに彼は以前の散歩で、十分に書いているのだ。孤児院の前に自分の子を次々に捨てるような人間は、子供を愛しているはずはない。子供の教育を説く資格はない。そんな誹謗の声に、傷ついたルソーはくどくどと自分の善行の数々を書き記すのである。読んでいて「ジャン・ジャック、もういいよ!」と叫びたくなる。従って、引用はしたくない。いずれにしても、この「散歩」は上記引用の冒頭部分を除いて、内容的に繰り返しが多い。
 次回は最後の「第八の散歩」である。


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