Kawolleriaへようこそ

日記・物語・エッセイ・感想その他

記憶忘却とフェティシズム

2012-01-06 18:50:48 | エッセイ
 フロイトが精神分析の対象としたイェンゼンの小説『グラデイーヴァ』にずっとこだわり続けている。彼の精神分析に納得できないところがあるのだ。
 小説の主人公である若き考古学者ハーノルトは、古代のレリーフに描かれた女の足のふとした表情に執着する。雨の歩道を、裾をからげて歩む若い女のつま先が、まさに地表を離れようとして足の裏が直角になった瞬間を思わせるのである。それが古典的な価値というよりも、ずっと現代風な感覚というから、おそらく官能的なフェティシュな(偶像崇拝的)印象なのであろう。
にもかかわらず、作家は、脚線美への官能的な情動をいささかも記していない。情動を完全に抑止したかのごとく、石膏という死の足かせで固められている。強くて、厭わしい性的な欲望のそのままが強度を保証するリレーフという硬質の素材を無意識が選んだのであろう。以降、物語は、レリーフと同じ形という類似を求めて、主人公は翻弄される。あたかも、ガラスの靴に魅せられた、「シンデレラ」の王子様のように。結末は、故国ドイツから遠く隔たった廃墟の街ポンペイで、レリーフの原型であるべき、美しい脚とくるぶしを持つ現実の女性に巡り合うという経過をたどる。その女性は、ポンペイにやってきた観光客ではなく、つい鼻先に住む幼友達であった。物語は、転倒されているのであって、紆余曲折を経ながら、遡って、彼の情動の真の原因を探り当てるということになる。ただ、こうした分析では、幼児体験をたとえ探り当てたとして、なぜそれが強烈なエロチックな情動を伴うのかが、説明できない。幼児体験のさらに先に、情動を伴うなんらかの契機がなくてはなるまい。
 私が群馬に疎開していた時だから、六、七歳の頃の体験である。養蚕の盛んなところで、いくつかの美しい繭をもらい引き出しに入れておいた。それらが殻を破っておしろい粉をまぶしたような蛾が出てきた。激しく翅を震わせながら、ただちに交尾を始める。尻がぷっくり膨らんで大きいのが雌なのであろう。それが小さめの雄と結びつく。そこには雌の彼らなりの選択があって、未熟な雄とは決して結びつかない。私は、交尾から除外された雄への同情と同時に、雌の毒々しいまでの生命力に圧倒され、その蠢く尻の姿に強い官能を感じた。いったいこのエロチックな、私の情動はどこから来るのか。雌を母、交尾する雄を父、交尾できない雄を自分、おそらく、エディプス期の典型的な症状なのかもしれない。
 この場合も、エディプス的な三角関係が、なぜエロチックな情動を伴うのかを説明できない。人間以外の生物にも、同じような情動が伴うのであろうか。エロチシズムは、高度な言語能力と関係あるのであって、動物には、そうした概念を必要としないのではないか。
 女の脚や尻、あるいは胸、それへの情動は、解発された性的な衝動と、得てしまった言語能力との不一致に由来するのではないか。情動と言語概念がいつも「ずれ」ているのだ。逆説的には、ソシュール言語学が明らかにしたように、その「ずれ」が能動的な言語能力を人に付与していると言えよう。だが、言語は決して情動を代用できない、示唆的な記号に常にとどまる。石膏レリーフは、言語表現と同質であろう。記号が示唆している情動は、遺伝子的に組み込まれて生殖のためのホルモン系を含む機能の活動であろう。しかも、人間の場合、エディプス的な三角関係という、言語的社会的な場によってフェティシュな記号に情動が集約されるのだ。マスメディアの影響が乏しかった時代は、たった一文字でさえも、エロチックな情動を引き起こす喚起力の例はいくらでもある。
 私たちの若いころは、田村泰次郎の小説「肉体の門」が店頭を飾った時代であった。小説の内容を知らないまでも、題名の「肉」という文字が女のエロチックな視覚的な部位を想像させたものだ。そうした意味で、今日、文学表現の喚起力であるメタファーの強度は著しく衰えたと言えよう。つまり、表象と内容の「ずれ」のダイナミズムが失われることであり、意識へとの集中力が衰えることであろう。
 逆に、示唆力そのものの強度があまりに強まると、メタファーの機能さえも失われて、フェティシュに固着化して、意識の滞り状態が起きる。それが、ハーノルトが陥った記憶忘却の状態であろう。
若き考古学者に固有症状ではなく、思春期を契機とする、幼児体験などの記憶喪失は、万人のものではないかと、私は疑っている。フロイトは、記憶喪失とフェティシズムについて尽くしていないと思われるのである。凡庸ながら、私はうすうす気づいている。並外れた思考力と記憶力に恵まれたフロイトにとって、記憶の完全な喪失などあり得ない前提なのだということ。