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ストーカーとエクリチュール

2013-05-16 19:12:43 | エッセイ
 ストーカーが社会問題化している。卑劣な犯罪であって、被害者の恐怖は計り知れない。一般的には特定の女性に対するつけ回しであるから、性的な偏執であろう。
 多くの現代文学は、特定の人物の意識と心理を描くのだから、一種のストーカー行為にほかならない。著名なところでは、ジョイスの『ユリシーズ』の登場人物レオポルド・ブルームなどは、著者によって浴場湯舟での自慰の場面まで、つけ回され描かれている。言うまでもなくプルーストの大作は、全篇がストーカー的な著作と呼んでよい。ロートレアモンの『マルドロールの歌』では、ストーカーのマルドロールに残虐な方法でメルヴァン少年を殺害させている。前者は、性的な意味でのストーカーではなく、小説の心理的な手法である。後者は、マルドロールが少年にホモセクシャルな欲望を持っているのだから、小説の虚構とはいえ、現実のストーカーを描いているとも言える。なによりも、文学のストーカー的な本質は、モビー・ディックを追い続けて破滅したエイハブ船長に体現されているかもしれない。もちろん、文学作品と現実の事件では次元を異にしているので比較は禁物であろう。ただ、性的なストーカー行為が、ともすれば、殺人に至りかねない危険な側面をロートレアモンやメルヴィルの作品は教えている。
 そもそも異性を四六時中追い回すのは、動物の生態を観察すれば、性的な関係を迫ること以外に理解しようがない。ストーカーでなくても、性欲を持っている男性は、誰でも特定の女性を追い回したくなる。それは当然のことだ。それを傍目が気になったり、相手の迷惑をおもんばかったり、自分の人間としてのプライドが邪魔して、実行に移さないだけだ。逆からいえば、傍目にも目立たず、相手の迷惑も軽微であり、自分のプライドも傷つかない程度なら、社会的に許容されていると言えよう。それまで禁止したら、男女の自由恋愛どころが、社交自体が成り立たない。
 ストーカーの心理は、エクリチュールと似ている。ただし、書くことに徹していて、エクリチュールの本質である、書いたものを、あるいはおのれの心を読むという行為が欠落している。
《書く行為》=エクリチュールの概念では、「書く行為」と「読む行為」は不可分な関係にある。「書く」は一般に思われているよりもずっと「見る」に近い。「書く」は「見る」と同様に反射的な行為であって、原初的には「掻く」である。ただし、より高度な「書く行為」は「読む行為」を前提としている。したがって、「読む」と切り離された「書く」自体は、精神作用を伴わない物理的な行為である。暴力的とも言えよう。ところが、「読む」は文字なり映像なり対象とおのれと間に精神作用を介在させざるを得ない。「書く」から切り離された意識的な「読む」は「書く」と比べれば比較にならないほど、苦痛を与える。人間はこの苦痛を耐え忍んでエクリチュールの思想に達したのだ。また、「見る」の基本的な作用は、自然の有り様をおのれに都合が良いように、切り取り、本来の自然のあり方を殺害することに直接通じている。
 書くとは、ペンで妄想を捌くことであり殺すことに繋がる。読むは、ペンによっていったん殺されたものを新たなものとして生き返らすことである。エクリチュールは書いたものを読む、そしてそれが反復され継続される。
 犯罪的なストーカーは、おのれを読むという行為が未熟なのだ。ストーカーでなくても、性的な欲望に関しては、誰しも精確におのれを読むことはできない。だが、それでもエクリチュールの本質である継続は放棄されないから、事後的であれ、おのれの非に気づかざるを得ない。ところが、犯罪的なストーカーは、ほとんど自分を読めないし読もうとしないから、反省はやってこない。ストーカーの再犯率が高いのも解る気がする。始末が悪いのは、性的な犯罪には、あまり罪悪感がないことだ。逆に、一種の欲望への忠実さとして、深く納得する場合もあるのではないのか。
 犯罪的ストーカーの生活誌や心理的な来歴について、資料がないので、なんとも断言はできない。しかし、犯罪抑制のためには、自分の心を表現し読む訓練が不可欠なのではないかと思える。読書の習慣も必要だろう。要は、エクリチュールの本質を取り戻すことが必要なのではないか。少なくとも、私自身は、ストーカーの欲望を、人様に迷惑のかからない、読書と創作=エクリチュールによってようやく抑えていると言える、いまのところ。
 じつは、犯罪的なストーカーを生み出すもっと大きな社会的な要因がある。仕事もしないで、生きる目的もなく暇を持て余す人間が多いことも忘れてはなるまい。食うための職も得られず、まじめに働いても食えない人間がいる一方で、働かなくても食える寄生的な人間がいるのだ。ストーカーばかりでなく万引き、法に触れない範囲ではパチンコやゲームや競馬、果ては長電話――、いくらでもあげられる、いずれもストーカーと近い位置にある気晴らしを。
 人様の迷惑にならない限り断罪する気は毛頭ないが、社会的な矛盾であることは間違いない。