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工芸製本(ルリユール)の世界観

2014-03-23 20:47:47 | エッセイ
 大量の食品が賞味期限切れで廃棄されていく。食物ばかりでなく、街には放置自転車があちこちに散らばり、山奥にまでリサイクルされるべきテレビや冷蔵庫が捨てられている。書物にしても同じで、ごみ置き場には、書籍・新聞雑誌が積み重ねられている。すべてが、最初から捨てられる運命ではなく、好んで食べられ、愉しまれ、読まれたものであろう。あるいは、そのように期待されて生産されたのだ。一方で、その日の食にも困り、深刻な飢餓状態に悩まされている世界が隣り合わせにある。
 書物一つの歴史を辿ってみても、一冊の本がいかに珍重され、探し求められ続けてきたかを考えれば、想像力は語りつくせないのではないか。書物が書かれるまでの過程、文字を書き表すペン先一つの変遷も、それによって記される紙など用具の歴史も、途方もないものであろう。
エクリチュールの一つの帰結であるパソコンによる執筆にしても、マウスとキーボードはペンであり、モニターは紙なのだ。それでも、当然、原初のスタイルへの憧憬は、決して忘れられるはずもない。合理性の名のもとに、その間に、置き忘れ、血を流して欠落してきた膨大なものの怨嗟をともないつつ。
さかのぼり行き着くところは、ペンと紙と書物という物質要素に至る、それを読む孤独な人影が浮かび上がってくる。それがエクリチュールの原点なのだ。
 ペン先や万年筆にこだわる場合もあるだろうし、さまざまな紙質に執心する場合もある。一冊の本にこだわれば、その装丁などたたずまいが興味の中心になる。しかし、ここでも大量に出版される、廃棄を当初から予想されている生産出版物ではなく、手書き・手作業で一冊の本を他人のためではなく自分のために作るというのがもっとも凝った在り方であろう。自宅を自分で造る人もいるようだが、不器用な自分にはとうてい本など造れない、製本は絵画や彫刻と同じく技術もセンスも必要なのだ。
 本来、読書は、必要な知識を得るためにあるのではなく、書き上げたエクリチュールを書物として作り上げてそれを作った過程に劣らず、しっかりと熟読すること、総体的立体的な過程を読み取ることではなかろうか。リルケが『マルテの手記』で「貴婦人と一角獣」のタピスリーを描くのは、こうした視点なのだ。
 ひたすら当座の必要に応じた読書にとってこれほど不合理な作業はないであろう。逆説的に、読書が、知識を得るという枠組みであるとすれば、大量生産が前提となる。エデンの園でイヴが知識の木の実を食べてアダムにも薦めたのは、愛よりもむしろ大量生産への道を切り拓いたと評すべきかも知れない。
 ある工芸製本展を観てきた。愛書家が、蔵書の中から、愛着のある一冊を選んで、工芸製本家に依頼して、新たに製本してもらうのだ。愛着のある本だから、もとの本のイメージを損なわない範囲で。そこでは、西洋の工芸製本――ルリユールと呼ばれている――の伝統技法に則り、表紙・背表紙・箱などを高級皮革や特殊な色紙、そして背表紙には金の箔で題名を入れる。そうした本が十点ほど陳列されていて豪華で贅沢な雰囲気を醸していた。製本家の作品であるから一点一点、同じものはなく個性的なものであった。
 もちろん、展示は工芸製本の宣伝のものであるが、本来の用途は、蔵書の一冊を工芸製本した立派な本が、自分のためであって、人に見せるとしても、ごく限られた範囲の者であろう、そのようにプライベートな性格のものなのだ。
 私はふと空想した。それは錬金術師の竈のようなものではないか。それを読むことが竈に火を入れる愉悦なのだと。
取り寄せたパンフを読めば、一冊、十万円ほどで作ってもらえる。納期は数か月を要する。製本には、もとの本の形態によっていろいろ制約があるようで、なんでも工芸製本できるわけではない。説明だと、いったん本をばらすので、古書店で見かける戦前のしっかりした製本の本が一番適しているのだそうだ。一昔前に、現在よりもずっと本が珍重され、丁寧に作られた時代もあったのだ。
 家に帰って、蔵書を調べたが、やはり愛着があるのは、自分の処女出版に当たる私家版の作品集『凹面鏡の焦点にて』であることが分かった。また、その最初の本だけが、製本の状態も工芸製本に向いていて、他はどう考えても工芸家の手に渡せる製本ではなかった。
 確かに、一冊十万円以上、しかも自分の著作、いったい何のためにという気もする。エクリチュールの原点に返りたい、そんな気持ちの象徴として――。価値観が極端に隔たっている女房に話すわけにもいかない。ただ、手元に置いておくだけだ。嫁に行った娘が家に来たら、自慢してやろうか。
手垢やほこりから守るために他の本と一緒に書架に飾るわけにはいかない。たった一人のための革表紙の特装本! 注文した本が到着するのを心待ちにしている。ときには、他人にも見せたくなろうか、物好きとして呆れられるにしても。(了)