ASUKのババは日々元気に暮らしたい。

ハンドメイド 作りたいものだけ作る毎日
日々の出来事に愚痴も出てきます。

母の背中

2016-11-07 21:54:28 | ハンドメイド

今日はカシメや留めホックの練習 バッグの留め具が思うようなのがなくて

皮のはぎれで作れそう、、なんて思いあがって 夕方からトントンドーン

見事に失敗です。 カシメはOKだけど

ホックの場合 部品がどれも似たようなもの まして皮につけたいけど

オス側はOKなのに メス側がうまく付けれない 

あれ?組み合わせ間違ったかな?皮の厚みが厚いのかな?などと

めったやたらにトントンしているうちに 全部つぶしてしまった。

でも 懲りずにやりなおします。

 

話は変わりますが、母が96才です。

兄夫婦と一緒なのですが やはり年には勝てず

父が他界してから 数年前から元気がなくなり 

デイサービスに通っています

それでも 私たちや兄嫁の名前ははっきりわかり

「わかる?」と聞くと「わかるわ!」と笑っています。

そんな母の言葉「心が壊れてしまったよ」毎日自分の行動がおぼつかなくなって

思うようにならないときの歯がゆさと だんだんと昔の事を忘れて行く自分の姿 

ふと我に返った時の悲しみと恐怖

それがわかるだけにその言葉に涙が出ます。

常にミシンに向かっていた母の背中を文字通り見て育った私

家計や家族のため 日々ミシンに向かっていたその周辺で私は遊んでいました。

手作り洋服など 人と変わった服を作ってもらったり

姉のおさがりを直してもらったり それはそれで当たり前と思っていました。

主人と結婚するときに長男だからと反対されました。

若い私はそんな事気にもせずに 主人と結婚しましたが

数年もたたずに 母の言葉が身に沁みました。

自分で選んだだけに 後戻りはできないと思いましたが

結構な過酷な環境でした。

私たち親子は全く相手にしてももらえず ふたりの義妹家族だけが

舅や姑の家族みたいなことでしたから 義妹の子供たちを

冬の北風が吹く中をおぶって子守してましたが 私たちの子供は

舅が「姑をこき使うな、、」 とまで言われたので子守は

してもらえませんでした。

一事が万事 このような毎日でした。

主人が大けがをして 大手術したり長い入院生活でも

見まいに来たのは数回だけ 退院してからも休職

私が働きに出かけるようになり 子供たちをお願いしたけど

嘘を言って近所に借家を借りて出ていったときは

あきれてものも言えませんでした。

そのようなことを愚痴る私に母は何も言わずに聞いているだけでした。

母は兄嫁や他人の悪口も一切言いませんから 私も言うまいと思うけど

やはり わかってほしくて言ってしまいます。

やはり育った環境が違うと どこかにひずみができてしまうんですね。

お金の問題ではなく 親の価値観ですね、、世間体を気にする舅たち

私たち姉兄を自由に育てた父と母 余裕のない生活でもそれを感じさせない

私の育った環境  

主人の幼少からの過酷な労働 怒鳴るだけの舅 何事も主人を敵対視する言動

すべて 生家とは違っていましたから。。

何度離婚したいと思ったか そのたび母が黙ってミシンを踏む姿を思い出しました。

私の愚痴は子供たちには言いません。舅たちは子供にとって祖父で祖母であるので

良い思い出しかありませんからね。

あまり可愛がってもらえなかったと思う子供たちですが、

生前 姑が足が悪く 歩くのが遅くなると 一緒に歩いている孫たちの中で

わが娘だけが「おばあちゃん大丈夫?」と手を取って足並みそろえてくれる と

嬉しそうに言っていました。姑は少しは後悔の念もあったのかもしれません。

娘が嫁いで 時たま出る愚痴を今度は黙って聞いています。

なるべく娘のストレスが和らぐように少し言葉を添えて。。