子育て・私流

子供を三人育て、孫も五人になった。
男親の私がどのように考え、子供や孫に接してきたかを書く。

目の付けかた その4 土方からさラリーマンに

2009年05月14日 | 我が家のつれづれ
私が21才の時の話である。
私の中学生15才から20才の高校卒業までの青年期は、終戦というドン底から日本が立ち上がろうとする時代あった。

昼間は、親父の仕事(煉瓦職)の手伝い、仕事が暇な時には焼け跡かたずけと肉体労働の毎日であった。
東京全体が戦災で焼け野原、我が家から10キロくらい先まで見通せる。

「土方からサラリーマンへ」
このタイトルの内容は、前回のその3に書いたのでご覧下さい。

なぜ転職する気になっのか、その理由は幾つかある。

 A.一つは、お袋の言った一言「家族全員で働いていて、景気のいい時にはいいが、
       いざ不景気にでもなれば一家全滅だね。」の言葉が私の胸にこびりついていて離れないこと。
 B.二つ目は、職人を抱え、それに家族労働者4人で毎日忙しく働いていても、
   我が家の財政は、何時も「すかんぴん。」
   親父には、金銭感覚がない。要するに金銭の勘定が拙い。計算が出来ないのだ。
   
 C.二人の兄貴も親父の仕事を手伝うということになり、一番年下の私はこのままでは、
   将来、何時も手伝いのままであろうと考えられる。
 D.この際、親父の仕事から離れても、我が家としても困ることはないだろう。
   私が土方から転職して、サラリーマンになり、もしも、上手くいかないとすれば、
   私は「大工さん」などの、親父とは、別の職人に戻ってやり直す道もある。

 E.もう一つの大きな理由は、夜間でもいいから「大學に行きたい」
   我が家では、私より上の子供は、小学校卒業と同時に「住み込み働き」と言う、
   「貧乏人の子沢山」のやりくりとして、「他人の家庭に奉公に出される」のだ。
   別な言い方をすると「食い扶持へらし」と言う。
   こんなわけで、「読み書き、ソロバン」が出来る人が居ないのだ。

   私としては、これを打破する時機は、今しかないという思いが、転職させる動機になったのだ。


「地元信用金庫に就職し大学へ」
一度地元信用金庫に就職願書を出して、就職面接を受けたが、「顔は日焼けで真っ黒、言葉は職人言葉」「態度・風体も勤め人でない」

こんな状態からか、一回目の就職試験は失敗した。
それから少しして、担任の先生の再交渉もあって、再度の面接で就職が成功した。

10日程の職業訓練を本店で受けて、支店の配属先が決まった。
高校で、幸い私と机を並べていた学友がいる同じ支店の配属になった。

本店から配属されたのは、高校卒業の私を入れて男子2人・女子1人の3人だ。
年令は私が20才(定時制高校と終戦で浪人し2年送れて卒業)、後の二人は18才である。

私の学友は12月かに勤務していて、4月から勤務しながら夜間大学に通学する許可を支店長から貰っていて、大學の入学試験も済ませたと言う。

支店配属の挨拶の後に、私は支店長に「学友と一緒に夜間大學に通学したい」とお願いした。
支店長に気持よく「頑張りなさい」と言ってもらえた。

「大學の入学準備」
支店に配属されたのが、4月に入ってからなので、大學も通常の入学者の受け入れは終わっている。
門戸が開いている、二次・三次募集がある大学を学友と二人で一生懸命探す。
勤め先から大學まで通える時間の範囲でないと4年間は通え切れない。

昭和25年当時は、東京の大學も入学生も少ない。大体東京に在住している人が少ない。
あまり勉強できない私もこんことで、二次募集の「紅陵大學夜間部」現在の拓殖大學に入学出来た。

「親父の元をはなれての独立」
親父の元を離れての私の独立である。

入学金、月謝、授業料、教科書代、交通費など、すべて自分ひとりで賄うことになった。
仕事を5時に終えて、大學に通い、家に帰る時間は何時も午後10前後。
今なら、「コンビニ」などがあり食べ物は直ぐに手に入るが、当時は食べ物を買う時間も店舗もない。
毎日家に帰るまで、「お腹がグウグウなる。」
遅い夕食を毎日終えてはやばやと寝るのみ。

「勤めながら夜間大学を無事終える」

信用金庫に勤めながら、夜間大學を無事卒業したのは、昭和30年、私が24才のときである。

戦後、旧制中学3年に編入して一年、新制高校夜間部四年、夜間大學四年と仕事をしながら「9年間」通ったことになる。