「衝動ってのはうらやましいものさ。」
時折、嫌がおうなくほしくなるものがある。
たとえそれが何であっても。
思わず買って後悔したとしても、それは自分の欲求を満たした代償に過ぎない。
要は、その衝動に至るまでと、その経過が問題だ。
そんな問題にいま直面している。
生活費に少し余裕ができて、一万円ぐらいの物なら買うことができる。
そして目の前には、その70%ほどの価値の物が二つある。
二つは買えないがどちらもほしい。
そんな時人は、その二つを比べる作業を頭の中で急ピッチで進める。
しかしその頭の中の考えではイーブンである。
こういうときは他人の意見を聞く。
「こっちのほうが面白い。」
そう言われるが、実はほとんど聞いていない。
もしかしてもう一つのほうが面白いかもしれないのだ。
物や人によっては、趣味や趣向、付加価値から思い出の品まで、ひろく判別する要素がある。
それらをふるいにかけて、吟味し、より厳重に選別し、決断を下すのだ。
そう、このとき人は決断を迫られている。
そのあと後悔しようとしまいと別として、いまその場に迫られている選択なのだ。
諦めるには価値が大きいときほど、選ばなかった方の価値は大きくなる。
悩んだ挙句、衝動買いだと決め付け、自分をごまかして諦める。
しかし次に訪れたときには片方がなくなり後悔する。
だがその次に訪れたとき、そのなくなったものが再び目の前に現れる。
決めた、またなくなる前にこっちを買おう。
買った帰り道、もう片方のことなどわすれ、いま買ったものを楽しむべく、期待に満ち溢れた顔で歩いていると、こう言われる。
「嬉しそうだな。でも、悩んでいるときも楽しそうだったぞ?」
「本当にほしいものがあることもそうだが、そういう衝動ってのはうらやましいもんさ。」
「他人にとってはな。」
・あとがき
誰かに「本当にほしいものがあったらどうする?」とか、
「どうやっても間に合わないところで、大切な人が危険にさらされていたら?」と聞かれたことがあります。
私はこう答えました。
「力ずくで」。
思いっきり「力で解決できないこともある。」といわれました。
しかし、狂おしいほどに欲する、物、者、事については、私は全力をかけて行動する意味で言いました。
何もせずに祈るだけじゃ、解決しても自分はただ祈っているだけにすぎず、その祈る対象にすがっているだけにすぎない、そう思うからです。
かの名作ポセイドン・アドベンチャーでは、牧師がそう言っています。
そして自分の中の神=自分の心に祈れ=頼れといっていました。
捕らえ方は別として、私の考えもそうです。
ただ、信仰の対象を疑うのではなく、それを逃げ道にしないことが大切だと思います。
たとえ神の教えであっても、人を助けるのは人であり、実行する人の心だからです。
それゆえ、自分の思いに忠実で、なおかつ迷いながらも進む人間は、うらやましいと言われるのでしょうね。
たとえそれが愚かなる行いだとしても。
時折、嫌がおうなくほしくなるものがある。
たとえそれが何であっても。
思わず買って後悔したとしても、それは自分の欲求を満たした代償に過ぎない。
要は、その衝動に至るまでと、その経過が問題だ。
そんな問題にいま直面している。
生活費に少し余裕ができて、一万円ぐらいの物なら買うことができる。
そして目の前には、その70%ほどの価値の物が二つある。
二つは買えないがどちらもほしい。
そんな時人は、その二つを比べる作業を頭の中で急ピッチで進める。
しかしその頭の中の考えではイーブンである。
こういうときは他人の意見を聞く。
「こっちのほうが面白い。」
そう言われるが、実はほとんど聞いていない。
もしかしてもう一つのほうが面白いかもしれないのだ。
物や人によっては、趣味や趣向、付加価値から思い出の品まで、ひろく判別する要素がある。
それらをふるいにかけて、吟味し、より厳重に選別し、決断を下すのだ。
そう、このとき人は決断を迫られている。
そのあと後悔しようとしまいと別として、いまその場に迫られている選択なのだ。
諦めるには価値が大きいときほど、選ばなかった方の価値は大きくなる。
悩んだ挙句、衝動買いだと決め付け、自分をごまかして諦める。
しかし次に訪れたときには片方がなくなり後悔する。
だがその次に訪れたとき、そのなくなったものが再び目の前に現れる。
決めた、またなくなる前にこっちを買おう。
買った帰り道、もう片方のことなどわすれ、いま買ったものを楽しむべく、期待に満ち溢れた顔で歩いていると、こう言われる。
「嬉しそうだな。でも、悩んでいるときも楽しそうだったぞ?」
「本当にほしいものがあることもそうだが、そういう衝動ってのはうらやましいもんさ。」
「他人にとってはな。」
・あとがき
誰かに「本当にほしいものがあったらどうする?」とか、
「どうやっても間に合わないところで、大切な人が危険にさらされていたら?」と聞かれたことがあります。
私はこう答えました。
「力ずくで」。
思いっきり「力で解決できないこともある。」といわれました。
しかし、狂おしいほどに欲する、物、者、事については、私は全力をかけて行動する意味で言いました。
何もせずに祈るだけじゃ、解決しても自分はただ祈っているだけにすぎず、その祈る対象にすがっているだけにすぎない、そう思うからです。
かの名作ポセイドン・アドベンチャーでは、牧師がそう言っています。
そして自分の中の神=自分の心に祈れ=頼れといっていました。
捕らえ方は別として、私の考えもそうです。
ただ、信仰の対象を疑うのではなく、それを逃げ道にしないことが大切だと思います。
たとえ神の教えであっても、人を助けるのは人であり、実行する人の心だからです。
それゆえ、自分の思いに忠実で、なおかつ迷いながらも進む人間は、うらやましいと言われるのでしょうね。
たとえそれが愚かなる行いだとしても。