お久しぶりの方は(以下略)
さて、今回久々にってか数年ぶりに記事を書くのは、面白い思考実験的な話ができたからです。
その内容は、まぁ、漫画喫茶での一コマです。
客は時間を過ぎてカウンターに来たため、延長料金を取られると思った。
しかし、延長料金の請求は無かった。3分ほど過ぎていた。後に店員に聞いたところ、それは猶予時間である、と答えた。
それ以降、客は3分過ぎたギリギリでカウンターへ来た。1分でも長く使いたいからだ。
もちろん、延長料金は発生しなかった。
しかし、自分の前に客がいて、少し待たされた。時間を確認したが、もうすぐ4分になりそうだ。
だが、3分の時点で来ているのだから、延長料金は発生しないはずだ。時間の経過は、自分の前に客がいたからだ。
そこで延長料金を要求された。その客は、「それはおかしい」と言った。
付け加えて、「3分までに私はカウンターに来ていたので、延長料金は発生しないはずだ。」
しかし、店側の主張は、「本来は時間を過ぎた時点で延長料金が発生しますが、3分は猶予時間ですので、それを過ぎたら延長となります。」
さて、さて、これにて、客は納得がいかず、さりとて、店員は延長していると言います。
店側は時間を過ぎたら延長で、3分は猶予時間。
客側は自分が原因で3分を超えたわけではないのに、延長はおかしい。
双方の立場に立って考えてみましょう。
この点で重要なのは、客が「自分以外の要因で時間が過ぎてしまった」事です。
客からすれば、カウンターに客がいなければ、自分が滑り込むことができたので、間に合ったはずだ。
前の客が悪いとは言わないが、だからと言ってそれで過ぎた時間を請求されるのはおかしい。と。
実は、これは、私と、別の店員と、店長の間でのやり取りです。私はあくまで客として考え、店長や店員の意見に反対しました。
ああ、言っておきますが、私も店員です。
しかし、店長も店員も、「本来は時間を過ぎた時点で延長料金が発生しますが、3分は猶予時間ですので、それを過ぎたら延長となります。」
としか言わないのである。
なので、私が矛盾点をつく。しかし、店長は「本来は時間を過ぎた時点で~」としか言わない。
そう、こうやって、お互いの意見が反発し合い、ぐるぐる回ってしまうのです。
そのやり取りを私と店長のみにし、もう一人の店員は少し蚊帳の外にし、少し客観的にみられるようにしました。
そして、同じやり取りをグルグルしていることを指摘しつつ、なんとか妥協点を提案し、
店長が本来は時間を過ぎた時点で~」と言うのをねじ伏せて(強引)、キッチリとした部分を作って、一応の解決をしました。
そののち、BLスキーなさっきの店員に、蛇足として、
「これは蛇足ですが、さっきのやり取りを、性差別として考えてください。わかりやすく言えば、同性愛です。」
「あなたはBLダイスキーですが、(あくまで)世に言う普通の男性は、BLを嫌います。」
「そう考えると、ネットやツイッターで行われている、グルグル回るやり取りが解ると思います。」
と伝えました。
「あぁあ~!」
と、納得していました。
さて、これが何の思考実験かと言うと、
「双方の認識に差異がある状態での相互理解のできなさ」
をしっかりわかるものでした。
自分が店側として、「本来は時間ピッタリまでで、3分は猶予時間。それを過ぎたらダメ。」という主張と、
自分が客側として、「3分の猶予時間にはカウンターについていたが、自分以外の要因で時間を過ぎた場合の請求はおかしい。」ですが、
これを解りやすく言うと、
双方とも「時間が過ぎているかどうか」と、同じことを言っています。
ただ、3分のラインを超えた要因が「なんであれ」主張する店側と、
3分のラインを自分は守り、時間を過ぎたのは「自分以外」の要因だ、と主張する客となります。
そうなると、いかに店側が「時間が」と言っても、客側は「自分は時間通りにいた」となるわけです。
実際、客側からすれば、自分以外の要因で待たされたのだから、自分が払う必要はない、と言う主張は間違っていません。
実際、店側からすれが、本来時間を過ぎたら延長が発生するが、3分は猶予でしかなくそれを過ぎたら請求する、も、間違っていません。
では・・・・と、これが延々とグルグル回っていきました。
途中途中、互いの思考がおかしくならないよう、要所で、
「私はあくまでも客側で話しています。」
「店長は店側の立場で話しています。」
と言い、喧嘩にならないように調整しました。
それを少し外れた位置の店員は、多少店長寄りの考えでしたが、最後の蛇足でこれがなぜグルグル回るかを理解していもらえました。
まぁ、店長に店員がそれを言ってくれたかはまぁ、どうでもいい(実験材料にする対象にそんな感情は持たん)ので、これで、
「客の意見を理解できない人」「店の意見を理解できない人」「その二つがぶつかるのを多少理解した人」に分かれたことになります。
私は3つともわかっていますが。あえて客の立場としました。
さぁてさてさて、これがどのような話になるか。
こういった、「認識に差異がある者同士の相互理解の難解さ」は、双方を理解していないと理解できません。
では、どう理解すればよいか?
店側の意見を理解するためには、まず、どのラインから延長料金を徴収するか、となります。
つまり、3分を超えたら。です。これは「時間を過ぎてから3分」です。
客側の意見を理解するためには、まず、どのラインから延長料金を徴収するか、となります。
つまり、3分を超えたら。です。これは「時間を過ぎてから3分」です。
文面では同じことを言っていますが、これは立場が違うと変わってしまいます。
店側では、3分は猶予時間であり、カウンターで待たせることもあるので、それを考慮したもの。です。
客側では、3分過ぎても延長料金の請求はない。となります。
店側は、カウンターで3分待たせることは無いので、3分ぎりぎりで来ても、それは猶予時間でしかないのだから、過ぎたら延長。
客側は、カウンターに来た時点で誰もいなければ待たされることなく時間に間に合うのだから、自分は間に合っている。
同じ文章でありながら、双方の認識はズレてしまっています。
なので、客側としては、「3分までは大丈夫」と言い、店側は「3分までは猶予時間」とぐるぐる回ってゆくのです。
基本的に、こういう時は、だれしも客として考えがちですが、店側としては、考えると、どうあろうと3分であるため、差異が生まれていると言えます。
そういった「差異がある」という事を理解できない(片方の認識の身持つ)と、どうあがいてもお互い理解し合えないわけです。
で、ここで同性愛の話を持ち出したのは、非常にわかりやすい、現在起きている同性愛差別への、双方の考え方となるからです。
同性愛における差別・否定派の意見はおおむね、
「自然の摂理に従っていない」(自然説派)
ただし、動物の世界では、同性同士の交尾ではないSEXや、ある鳥はオス同士がつがいとなり、メスが産んだ卵を育てる例もある。
しかし差別・否定派は、それを「エラー」としているが、人間に一番近い霊長類に同性同士の行為があり、また、同性のつがいを持つことがある鳥は、
ひなが巣立つ確率が高いとされており、自然で語る場合自然の偉大さに反論されることになる。
「少子化が増える原因、婚姻制度が憲法で保障されていない。」(政治派)
誤解されても困るので注釈するが、憲法では婚姻制度に書かれているだけで、そこに性別に関して書かれているわけではない。
少子化は子供を(複数)育てる家庭が減っていることであり、そもそも同性愛の方は、余程でなければ異性と子供を作らないため、
もともと少子化の要因とするには弱い。
「神が許していない」(特定の宗教派)
一部の派では認められていたり、人間以外を畜生とする所でも、動物の結婚式を請け負う協会もあるので、一概には言えない。
宗教を否定するわけではないが、極論を言えば、宗教を理由に正当化するのであれば、9.11のテロの事を良く考えるべきである。
宗教は目標であって、手段ではない。
「気持ち悪い。自分に向けられたらいやだ」(自己心理派)
感情的な話であり、セクハラ論議同様、感情論では感情論であると反論されるも納得しない、一番厄介な部分。
自分が正しい。それは構わない。だが、間違っていないと思っている一番厄介な存在。それゆえ、
「間違いがあったらそれを正すことのできる、正しい人間」ではなく、「ただの自己マンセー」となり下がっている。
「身内」や「同じ考えの人間」に逃げて接触を断つので、議論にならないし議論が続かない。
差別・否定派の考えはだいたいこんな感じ。
根本的な部分は最後の「気持ち悪い。自分に向けられたらいやだ」という、嫌悪感からのもので、
それが正しい理由を他に求めると言う、もはや意味不明の存在である。
ただし、中には、
「自分に向けられるのが嫌なだけで、自分に向けられなければどうでもいい」
という日和見が存在する。
これは、「自身に対して発生した場合、否定派か、肯定派か、そのまま中立化になる、まさに日和見の存在」である。
こういった事件があった。
同性に告白された青年が、断ったが、その後も変わらず友達でいようと言い、それで終わったが、
やはり一度意識してしまうと、危機感を覚えてしまい、告白した青年は依然と同様友人として接したにもかかわらず、
(とは100%言えないのは、それこそ異性間でもある話だが)、
友人たちに、「迫られた」ことや、「今怖い」、などを暴露してしまった。
そして、その同性愛者は、そのショック方から自殺してしまった。
詳しくはggr。
これはまさに、「日和見」が「否定」に変わった瞬間である。
危機感を覚えたとはいえ、この行動により、一人の命が失われてしまった。
それに対する意見も様々だが、目についたのは、
どちらに対しても「黙っていればいい」という意見だった。
・・・そんなの、結果論じゃないかと思うが、ともかく、日和見はそうやって立ち位置が変わる。
中には、「自分は無理だが、あなたが幸せになることを願っている」と、否定せず、多少庇護に回る人や、
バイであるため、OKしたりする人もいるだろう。
※注意点として、この同性愛に対する立ち位置で、バイは中間と言えるだけであり、どちらも行けるので「自分は」問題ないだけであり、
時として「自分以外」からの差別にさらされる可能性もある。
現在は、日和見はかなり日和見ではあるが、世の中の動きから、白黒つけようとする気配が出ているため、この日和見も引っ張り出され始めている。
この日和見が大多数だった時代では、むしろ、差別は存在せず、自分は嫌だがそっちは好きにやってくれ、で、均衡がとれていた。
それを崩したのが、双方の主張がつよくなったため、と、私は考えているが、もう、その段階は過ぎてしまっており、
話題が出るたびに盛んに議論されている。
さて、庇護・容認派であるが、
「自分がそうだから」(自己肯定派)
簡単に言えば、一番中心に存在するため。一番悩んでいるが、今の騒がしい時期が、一番認められる時代となっており、実際は複雑であろう。
盛んに同性婚が行われており、その姿も偏見である「汚いもの」ではなく、ただの愛であると、少しずつだが、知られ始めている。
個人的に、ブローバック・マウンテンが賞を取ったり、ついこの前も同じようなのが評価されたり、映画の世界でも受け入れられている。
特に、タイトルは忘れたけど、最近の奴は、あらすじやネタバレ見ただけで、全身を鳥肌が立ち、泣きそうになるほどの感激を覚えたほどである。
そのくせタイトルを忘れるとか、いつもの台無しである。
「ただの愛である」(アガペー)
愛し合う事に壁はないと思う人たち。むしろ、そういった壁を乗り越えたからこそ、強く結ばれる姿に、感動を覚えている。
多くの人がキリストの言う「アガペー」と言うものを持っており、その愛し合う姿は、憎み合う姿より遥かの尊いと思っている。
同性愛を賛否しているのではなく、ただ、愛し合う姿を見ているだけとも言える。
「ダイスキー」(腐女子、腐男子、百合好きなどの、同性物を愛でる派)
同性愛モノ好きの人たち。自分はそうではないが、BLや百合といったジャンルで萌える人たち。
自身がどうあるかはどうでもよく、ただ、それを尊いと思う人たち(BLスキー店員曰く)。
ただし、男で男(女)同士、女で男(女)同士を好き、と言う場合は、また別れることはあるが、おおむねすみ分けており、
互いに過干渉しないため、平和である。が、同性愛差別と言う話題に対して、少々疎い場合がある「日和見タイプ」も存在する。
逆に「もうだめだこいつ」も存在するが、どうあがいても「自分が好きかどうかである」存在なため、表にはあまり出てこない。
また、隠したがる傾向があることが多かったが、近年ではむしろ開き直って公言していることもあるが、ある意味、これは、
いくつかの漫画や小説、アニメの影響が少なからずあると思うが、まぁ、その辺は・・・・
「平等派」(権利派)
否定しない、と言うのが根底にあるタイプ。わかりやすく言うと、認めて認めて!と言う流れには乗らないのだが、
認めない!認めない!と言う流れには逆らうタイプ。ある意味では自己的な考えを持っており、
自身がどういう形であれ、他者に否定された場合は、しっかり立ち向かうタイプ。
否定しないが、大っぴらに賛成はせず、黙認と言う形を持っているため、実際は最大の庇護者。
日和見だと思われたり、肯定しないから否定していると思われがちだが、いざ詰め寄ると手厳しい反論をする。
特に、「お前が関係なければいいのであれば、お前が騒ぐ必要はないだろう。お前が関係したならば、そいつらだけと話して、ほかの奴らを巻き込むな。」
と筋が通っているため、差別・否定派は関わってしまうと逃げる兆候にある。
関わらす、さりとて否定せず、観ず、さりとて見捨てず、と言う、敵に回すと怖いタイプ。
正論派がこの位置にいることもあり、正論で論破しようとするが、感情で話す人間と、理論で話す人間が、なかなかわかりあうことは無い。
と、これらが、先のグルグルを繰り返しているのである。
差別・否定派を悪く書いているが、その裏にはトラウマが有ったり、
宗教への信仰が高い故(同性愛を認める=認めない宗教の否定=自己否定につながるため)と、それぞれの事情がある場合があり、
一概には悪く言う事は出来ない。それもまたやはり、言論の自由であると言える。
その点で、しっかりしている人は、はっきりと「自分は否定するが、自分でなければ関係ない」と、ある意味リアクションのある存在でもある。
だが、悪く書いているタイプは、反発しかしないため、それに飲み込まれた緩いタイプも、過激な方向へ引っ張られてしまっているのだ。
でだ、また一つ事件を思い出したが、先日、白人至上主義団体のデモに、カウンター(反撃)として居た黒人青年に、暴行を加えて重傷を負わせる事件があった。
さて、これを見て、白人至上主義に悪いイメージを持つが、簡単に言うと、白人至上主義には、3つのタイプが存在する。
「白人として頑張るぞい団体」
多数の部族人種の中で、白人負けないもん頑張るもん!と言う、解りやすく言えば共同体と言える、本来のKKKの姿。
支え合うのが本質であり、今知られているような過激な存在ではなかった。むしろ、過酷な環境下で共に生きようと言う、良いものであった。
「白人様が至上なのだ」
自分ら以外の・・・アンスロサクス人だっけ?その特徴を持つ「白人」以外を、劣った存在だとした思想主義団体。
現在良く知られるKKKであり、ある意味では暴走したコミュニティの良くわかる姿。自分以外を劣っていると考えないと、
自分の足元がおぼつかない、他人のせいにしないと気が済まない、と、悪く書けばそうなるが、いくつかは、
白人以外の労働者に仕事を奪われたり、犯罪に巻き込まれたりと、何かを奪われた、奪われたと思っている人たちだったりもする。
そのため、過激な行動を行っても、自身が正義であるため、反省をしないと言う厄介な存在、らしい。
スポンサーがいると言う話はあるが、そのスポンサーは上記の共同体のスポンサーだったりして(本当に差別主義者かもしれないが)、
それを巻き込んだりと、他方に迷惑をかける存在となっている「一部のKKK」である。
活動が過激なので良く表に出るが、実際は、暴動を起こしている集団と大差なかったりする。
詳しい事は、自分で調べてね。私も多少なりとも偏見はあるし。
「ノブレス・オブリージュ」
検索して、どうぞ。
まぁ、ある意味では、「我々は素晴らしいのだ。だからこそ、民を導く義務があるのだ。」と言う、よくある美化されるノブレス・オブリージュである。
これは、貴族・王族で「自分らは至上」である、と言う、「白人至上主義」と変わらないものだが(貴族は基本白人らしいし)、その至上たる自分らが、
民の先頭に立ち、自らの姿をもって世を導くと言う、誇り高いものである。
今でも王朝が民に愛され、存続している姿は、ノブレス・オブリージュを体現した姿と言える。
古くはローマ時代から、奴隷制度はあったものの、尽くしてくれる奴隷は家族同然に扱い、時には文学を与え、ともに繁栄の道を模索したこともあるほどだ。
ただ、社会的に黒人を奴隷として扱う時代があり、植民地時代もあって、やはり奴隷に対する扱いは悪かったが、
一部では尽くしてくれる奴隷に、感謝の意を込めたり、家族同然に大切にしたりと、ノブレス・オブリージュをもって人々に触れる者もあった。
そして現代において、そのノブレス・オブリージュは、生き続けているのである。
語るに落ちるのでここまでにするが、白人至上主義でありながらも、模範となって正しい道を示す姿は、まさに「素晴らしい白人」である。
ちなみに現代では、貴族の銘をいただく人種は、もはや決められていないのである。日本人でももらってるしねぇ。
とまぁ話がそれたが、要は、白人を至上と思う人たちでも、やはり、同じ言葉で認識が違うのである。
「白人」を「至上」にして誇ろう。
「白人」は「至上」である。
「白人」として「至上」であろう。
これもまた、認識の差異なのである。
このように、認識の差異で、互いがぐるぐる回ることになっている問題は、そこら中に存在するのである。
それこそ、隣人とのトラブルもそうだったりと、身近な部分である。
そして、これが、一番難しい問題なのである。
一部の人は、「差別主義者に親切丁寧に説明する必要はない」と考える、と言うより、「差別が悪い事がなぜわからない」と言った方が解りやすいかな?
その認識と、
「自分が認めないんだから認めなくて何が悪い」と考える、と言うより、「それが間違っていると言っているのになぜわからない」かなぁ。
との認識のぶつかり合いである。
「差別反対」の人は、「それは間違っている」と言い、
「差別」の人は、「それは間違っている」と言っているのだ。
互いに互いが「間違っている」と言い合いながらも、その主義主張が違うのだから、グルグル回るのである。
分かりやすく言えば、
「差別と言う行動・言動は、現在の人間社会において、存在してはならないものである。」
※注意点として、やはり、かつての植民地政策による奴隷差別や搾取する政策が、間違っていたと言える人らでもある。かといって、
自身の国を卑下することは無く、また、他の国を卑下することなく、「今で今を」で語っている。
「自分が間違っていると思っていることが、世の中の当たり前と同じなのだから、自分は間違っていない。」
※注意点として、平均を重んじると言うより、自身が平均であることに安堵を覚え、異端を排斥するタイプ。
自分が中心で、世の中心にいあるから間違っていないと言う考えのため、たとえ自らの国が間違っていたと言われても、
「今の」自分は間違っていないと言う、「自分の今」を語っている。
この二つのぶつかり合いなので、互いの意見がそうそう交わることは無いのだ。
今回は同性愛にシフトしているが、差別を反対する人たちは、あらゆる差別に対して考えている。
しかし、同性愛の差別をしている人たちは、それが別にシフトすると「自分は関係ない」と声を上げなかったり、
自分が差別の対象になると(多くの場合は思い込み)、途端に差別だと騒ぐのである。
まぁ、こういった話は、ある国の話で良く聞いていると思うが。
※私個人は、基本的に個人を見て判断するので、国で判断はしないが、そういうことをやっている人らは、そういうことをしなかったり、
日本で静かに暮らしている人らに、多大な迷惑をかけていることすら考えていないことが多い。ゆえに、そういった連中は、私は嫌いである。
自分=世界と言う、なんとも誇大妄想の果てな存在であるため、ブーメラン投げまくるのである。
で、思考実験の話に戻すと、実際分かりやすい。すごくやすい。
客と店を差別者や反差別者どちらに見立ててみ同じだが、互いの意見がほとんど理解できていないくせに、その反論として自分の主張を繰り返すのである。
そうやって、グルグルグルグルと無駄ともいえることを繰り返しているのだ。
で、私はなんとか、店長から、「お客様にスッと腑に落ちる一発で決める説明を欲しい」を聞き出そうとしても、
「繰り返すしかない。」
と言うのである。
これが、今回の思考実験の結果の一つである。
「自分が間違っていないと考えている以上、それ以外の事を考え付く事すらしない。」
と、双方が思っている限り、
差別、に対して、
「差別はしてはならない。」
「間違っていると言って何が悪い」
の繰り返しになってしまっているのである。
「間違っていないと言っている相手に間違っていると言っても、間違っていないと言うだけである。」
さて、では、「自分は正しい」と思ってはいけないか、というと、そうではない。
私が思う「自分は正しい」は、
「自分は正しい。だが間違っていないとは言わない。だから間違っていたら間違いを正す。だからこそ、私は正しいのだ。」
なのである。
実際、差別を無くすのは簡単である。差別は罪となればよい。
だが、それは「思想の弾圧」につながるのである。差別する側にも言い分があるのだ。
だからこそ、「思想を弾圧するのではなく、互いに差別に対する認識を統一することで、差別と言う存在自体根絶するのが最も正しい。」
と、私は、深く思うのである。
さて、そろそろ一万文字なので、ここらでまとめを。
「人を殴る資格があるのは、殴られる覚悟のある人だけである。」
人を差別するならば、自らが差別されることを、覚悟しなければならない。
そして、その差別に立ち上がると言うのならば、まずは、
「自らの差別と言う思想を捨て去ることから始めなければならない。」
人はおろかである故、私も、無意識な差別をしているやもしれない。
なればこそ、私が差別されたのならば、私が差別していることを思い知り、その差別を、自分の間違いを正し、差別に立ち向かうだろう。
そして声高高に宣言するのである。
「差別など、存在しない、ただの妄想である。」と。
いかがでしたか?久しぶりなので疲れましたが、結局1万文字ほど書いてしまいました。
ちょっとしたことからこれは面白いと、思考実験を始めたおかげで、素晴らしいネタに出会えました。
最近はツイッターにアカウントを誤って作ってしまったので、いい機会だとニコニコニュースやらで小さくネタを拾ってはネタやらで返しているので、
よろしければそっちも見てみては?オススメしないけど。
ハッシュタグ?そんなもんかつけるくらいなら文章を伸ばすわ!(ハッシュタグって、文字制限にかかるんだっけ?)
と言うわけで、これにて。
ああ、ただ一言。
「私が差別している、と断言できる存在は、差別している存在に対してである。」
ではでは~
注釈!
現在では、同性愛者と言う言い方はせず、L?G?Bなんたらとか言うらしいが、私からすると、
「同性」を「愛する」者と、「異性」を「愛する」者に、差を感じていないのである。
ちなみに私は、異性愛者・・・・ではなく、愛せればどっちもOKかもしれない、である。
だって、愛しちゃったら、ねぇwそんなもんじゃないの?wwwww
『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』
フリードリヒ・グスタフ・エミール・マルティン・ニーメラー作。
この詩を知れ。
さて、今回久々にってか数年ぶりに記事を書くのは、面白い思考実験的な話ができたからです。
その内容は、まぁ、漫画喫茶での一コマです。
客は時間を過ぎてカウンターに来たため、延長料金を取られると思った。
しかし、延長料金の請求は無かった。3分ほど過ぎていた。後に店員に聞いたところ、それは猶予時間である、と答えた。
それ以降、客は3分過ぎたギリギリでカウンターへ来た。1分でも長く使いたいからだ。
もちろん、延長料金は発生しなかった。
しかし、自分の前に客がいて、少し待たされた。時間を確認したが、もうすぐ4分になりそうだ。
だが、3分の時点で来ているのだから、延長料金は発生しないはずだ。時間の経過は、自分の前に客がいたからだ。
そこで延長料金を要求された。その客は、「それはおかしい」と言った。
付け加えて、「3分までに私はカウンターに来ていたので、延長料金は発生しないはずだ。」
しかし、店側の主張は、「本来は時間を過ぎた時点で延長料金が発生しますが、3分は猶予時間ですので、それを過ぎたら延長となります。」
さて、さて、これにて、客は納得がいかず、さりとて、店員は延長していると言います。
店側は時間を過ぎたら延長で、3分は猶予時間。
客側は自分が原因で3分を超えたわけではないのに、延長はおかしい。
双方の立場に立って考えてみましょう。
この点で重要なのは、客が「自分以外の要因で時間が過ぎてしまった」事です。
客からすれば、カウンターに客がいなければ、自分が滑り込むことができたので、間に合ったはずだ。
前の客が悪いとは言わないが、だからと言ってそれで過ぎた時間を請求されるのはおかしい。と。
実は、これは、私と、別の店員と、店長の間でのやり取りです。私はあくまで客として考え、店長や店員の意見に反対しました。
ああ、言っておきますが、私も店員です。
しかし、店長も店員も、「本来は時間を過ぎた時点で延長料金が発生しますが、3分は猶予時間ですので、それを過ぎたら延長となります。」
としか言わないのである。
なので、私が矛盾点をつく。しかし、店長は「本来は時間を過ぎた時点で~」としか言わない。
そう、こうやって、お互いの意見が反発し合い、ぐるぐる回ってしまうのです。
そのやり取りを私と店長のみにし、もう一人の店員は少し蚊帳の外にし、少し客観的にみられるようにしました。
そして、同じやり取りをグルグルしていることを指摘しつつ、なんとか妥協点を提案し、
店長が本来は時間を過ぎた時点で~」と言うのをねじ伏せて(強引)、キッチリとした部分を作って、一応の解決をしました。
そののち、BLスキーなさっきの店員に、蛇足として、
「これは蛇足ですが、さっきのやり取りを、性差別として考えてください。わかりやすく言えば、同性愛です。」
「あなたはBLダイスキーですが、(あくまで)世に言う普通の男性は、BLを嫌います。」
「そう考えると、ネットやツイッターで行われている、グルグル回るやり取りが解ると思います。」
と伝えました。
「あぁあ~!」
と、納得していました。
さて、これが何の思考実験かと言うと、
「双方の認識に差異がある状態での相互理解のできなさ」
をしっかりわかるものでした。
自分が店側として、「本来は時間ピッタリまでで、3分は猶予時間。それを過ぎたらダメ。」という主張と、
自分が客側として、「3分の猶予時間にはカウンターについていたが、自分以外の要因で時間を過ぎた場合の請求はおかしい。」ですが、
これを解りやすく言うと、
双方とも「時間が過ぎているかどうか」と、同じことを言っています。
ただ、3分のラインを超えた要因が「なんであれ」主張する店側と、
3分のラインを自分は守り、時間を過ぎたのは「自分以外」の要因だ、と主張する客となります。
そうなると、いかに店側が「時間が」と言っても、客側は「自分は時間通りにいた」となるわけです。
実際、客側からすれば、自分以外の要因で待たされたのだから、自分が払う必要はない、と言う主張は間違っていません。
実際、店側からすれが、本来時間を過ぎたら延長が発生するが、3分は猶予でしかなくそれを過ぎたら請求する、も、間違っていません。
では・・・・と、これが延々とグルグル回っていきました。
途中途中、互いの思考がおかしくならないよう、要所で、
「私はあくまでも客側で話しています。」
「店長は店側の立場で話しています。」
と言い、喧嘩にならないように調整しました。
それを少し外れた位置の店員は、多少店長寄りの考えでしたが、最後の蛇足でこれがなぜグルグル回るかを理解していもらえました。
まぁ、店長に店員がそれを言ってくれたかはまぁ、どうでもいい(実験材料にする対象にそんな感情は持たん)ので、これで、
「客の意見を理解できない人」「店の意見を理解できない人」「その二つがぶつかるのを多少理解した人」に分かれたことになります。
私は3つともわかっていますが。あえて客の立場としました。
さぁてさてさて、これがどのような話になるか。
こういった、「認識に差異がある者同士の相互理解の難解さ」は、双方を理解していないと理解できません。
では、どう理解すればよいか?
店側の意見を理解するためには、まず、どのラインから延長料金を徴収するか、となります。
つまり、3分を超えたら。です。これは「時間を過ぎてから3分」です。
客側の意見を理解するためには、まず、どのラインから延長料金を徴収するか、となります。
つまり、3分を超えたら。です。これは「時間を過ぎてから3分」です。
文面では同じことを言っていますが、これは立場が違うと変わってしまいます。
店側では、3分は猶予時間であり、カウンターで待たせることもあるので、それを考慮したもの。です。
客側では、3分過ぎても延長料金の請求はない。となります。
店側は、カウンターで3分待たせることは無いので、3分ぎりぎりで来ても、それは猶予時間でしかないのだから、過ぎたら延長。
客側は、カウンターに来た時点で誰もいなければ待たされることなく時間に間に合うのだから、自分は間に合っている。
同じ文章でありながら、双方の認識はズレてしまっています。
なので、客側としては、「3分までは大丈夫」と言い、店側は「3分までは猶予時間」とぐるぐる回ってゆくのです。
基本的に、こういう時は、だれしも客として考えがちですが、店側としては、考えると、どうあろうと3分であるため、差異が生まれていると言えます。
そういった「差異がある」という事を理解できない(片方の認識の身持つ)と、どうあがいてもお互い理解し合えないわけです。
で、ここで同性愛の話を持ち出したのは、非常にわかりやすい、現在起きている同性愛差別への、双方の考え方となるからです。
同性愛における差別・否定派の意見はおおむね、
「自然の摂理に従っていない」(自然説派)
ただし、動物の世界では、同性同士の交尾ではないSEXや、ある鳥はオス同士がつがいとなり、メスが産んだ卵を育てる例もある。
しかし差別・否定派は、それを「エラー」としているが、人間に一番近い霊長類に同性同士の行為があり、また、同性のつがいを持つことがある鳥は、
ひなが巣立つ確率が高いとされており、自然で語る場合自然の偉大さに反論されることになる。
「少子化が増える原因、婚姻制度が憲法で保障されていない。」(政治派)
誤解されても困るので注釈するが、憲法では婚姻制度に書かれているだけで、そこに性別に関して書かれているわけではない。
少子化は子供を(複数)育てる家庭が減っていることであり、そもそも同性愛の方は、余程でなければ異性と子供を作らないため、
もともと少子化の要因とするには弱い。
「神が許していない」(特定の宗教派)
一部の派では認められていたり、人間以外を畜生とする所でも、動物の結婚式を請け負う協会もあるので、一概には言えない。
宗教を否定するわけではないが、極論を言えば、宗教を理由に正当化するのであれば、9.11のテロの事を良く考えるべきである。
宗教は目標であって、手段ではない。
「気持ち悪い。自分に向けられたらいやだ」(自己心理派)
感情的な話であり、セクハラ論議同様、感情論では感情論であると反論されるも納得しない、一番厄介な部分。
自分が正しい。それは構わない。だが、間違っていないと思っている一番厄介な存在。それゆえ、
「間違いがあったらそれを正すことのできる、正しい人間」ではなく、「ただの自己マンセー」となり下がっている。
「身内」や「同じ考えの人間」に逃げて接触を断つので、議論にならないし議論が続かない。
差別・否定派の考えはだいたいこんな感じ。
根本的な部分は最後の「気持ち悪い。自分に向けられたらいやだ」という、嫌悪感からのもので、
それが正しい理由を他に求めると言う、もはや意味不明の存在である。
ただし、中には、
「自分に向けられるのが嫌なだけで、自分に向けられなければどうでもいい」
という日和見が存在する。
これは、「自身に対して発生した場合、否定派か、肯定派か、そのまま中立化になる、まさに日和見の存在」である。
こういった事件があった。
同性に告白された青年が、断ったが、その後も変わらず友達でいようと言い、それで終わったが、
やはり一度意識してしまうと、危機感を覚えてしまい、告白した青年は依然と同様友人として接したにもかかわらず、
(とは100%言えないのは、それこそ異性間でもある話だが)、
友人たちに、「迫られた」ことや、「今怖い」、などを暴露してしまった。
そして、その同性愛者は、そのショック方から自殺してしまった。
詳しくはggr。
これはまさに、「日和見」が「否定」に変わった瞬間である。
危機感を覚えたとはいえ、この行動により、一人の命が失われてしまった。
それに対する意見も様々だが、目についたのは、
どちらに対しても「黙っていればいい」という意見だった。
・・・そんなの、結果論じゃないかと思うが、ともかく、日和見はそうやって立ち位置が変わる。
中には、「自分は無理だが、あなたが幸せになることを願っている」と、否定せず、多少庇護に回る人や、
バイであるため、OKしたりする人もいるだろう。
※注意点として、この同性愛に対する立ち位置で、バイは中間と言えるだけであり、どちらも行けるので「自分は」問題ないだけであり、
時として「自分以外」からの差別にさらされる可能性もある。
現在は、日和見はかなり日和見ではあるが、世の中の動きから、白黒つけようとする気配が出ているため、この日和見も引っ張り出され始めている。
この日和見が大多数だった時代では、むしろ、差別は存在せず、自分は嫌だがそっちは好きにやってくれ、で、均衡がとれていた。
それを崩したのが、双方の主張がつよくなったため、と、私は考えているが、もう、その段階は過ぎてしまっており、
話題が出るたびに盛んに議論されている。
さて、庇護・容認派であるが、
「自分がそうだから」(自己肯定派)
簡単に言えば、一番中心に存在するため。一番悩んでいるが、今の騒がしい時期が、一番認められる時代となっており、実際は複雑であろう。
盛んに同性婚が行われており、その姿も偏見である「汚いもの」ではなく、ただの愛であると、少しずつだが、知られ始めている。
個人的に、ブローバック・マウンテンが賞を取ったり、ついこの前も同じようなのが評価されたり、映画の世界でも受け入れられている。
特に、タイトルは忘れたけど、最近の奴は、あらすじやネタバレ見ただけで、全身を鳥肌が立ち、泣きそうになるほどの感激を覚えたほどである。
そのくせタイトルを忘れるとか、いつもの台無しである。
「ただの愛である」(アガペー)
愛し合う事に壁はないと思う人たち。むしろ、そういった壁を乗り越えたからこそ、強く結ばれる姿に、感動を覚えている。
多くの人がキリストの言う「アガペー」と言うものを持っており、その愛し合う姿は、憎み合う姿より遥かの尊いと思っている。
同性愛を賛否しているのではなく、ただ、愛し合う姿を見ているだけとも言える。
「ダイスキー」(腐女子、腐男子、百合好きなどの、同性物を愛でる派)
同性愛モノ好きの人たち。自分はそうではないが、BLや百合といったジャンルで萌える人たち。
自身がどうあるかはどうでもよく、ただ、それを尊いと思う人たち(BLスキー店員曰く)。
ただし、男で男(女)同士、女で男(女)同士を好き、と言う場合は、また別れることはあるが、おおむねすみ分けており、
互いに過干渉しないため、平和である。が、同性愛差別と言う話題に対して、少々疎い場合がある「日和見タイプ」も存在する。
逆に「もうだめだこいつ」も存在するが、どうあがいても「自分が好きかどうかである」存在なため、表にはあまり出てこない。
また、隠したがる傾向があることが多かったが、近年ではむしろ開き直って公言していることもあるが、ある意味、これは、
いくつかの漫画や小説、アニメの影響が少なからずあると思うが、まぁ、その辺は・・・・
「平等派」(権利派)
否定しない、と言うのが根底にあるタイプ。わかりやすく言うと、認めて認めて!と言う流れには乗らないのだが、
認めない!認めない!と言う流れには逆らうタイプ。ある意味では自己的な考えを持っており、
自身がどういう形であれ、他者に否定された場合は、しっかり立ち向かうタイプ。
否定しないが、大っぴらに賛成はせず、黙認と言う形を持っているため、実際は最大の庇護者。
日和見だと思われたり、肯定しないから否定していると思われがちだが、いざ詰め寄ると手厳しい反論をする。
特に、「お前が関係なければいいのであれば、お前が騒ぐ必要はないだろう。お前が関係したならば、そいつらだけと話して、ほかの奴らを巻き込むな。」
と筋が通っているため、差別・否定派は関わってしまうと逃げる兆候にある。
関わらす、さりとて否定せず、観ず、さりとて見捨てず、と言う、敵に回すと怖いタイプ。
正論派がこの位置にいることもあり、正論で論破しようとするが、感情で話す人間と、理論で話す人間が、なかなかわかりあうことは無い。
と、これらが、先のグルグルを繰り返しているのである。
差別・否定派を悪く書いているが、その裏にはトラウマが有ったり、
宗教への信仰が高い故(同性愛を認める=認めない宗教の否定=自己否定につながるため)と、それぞれの事情がある場合があり、
一概には悪く言う事は出来ない。それもまたやはり、言論の自由であると言える。
その点で、しっかりしている人は、はっきりと「自分は否定するが、自分でなければ関係ない」と、ある意味リアクションのある存在でもある。
だが、悪く書いているタイプは、反発しかしないため、それに飲み込まれた緩いタイプも、過激な方向へ引っ張られてしまっているのだ。
でだ、また一つ事件を思い出したが、先日、白人至上主義団体のデモに、カウンター(反撃)として居た黒人青年に、暴行を加えて重傷を負わせる事件があった。
さて、これを見て、白人至上主義に悪いイメージを持つが、簡単に言うと、白人至上主義には、3つのタイプが存在する。
「白人として頑張るぞい団体」
多数の部族人種の中で、白人負けないもん頑張るもん!と言う、解りやすく言えば共同体と言える、本来のKKKの姿。
支え合うのが本質であり、今知られているような過激な存在ではなかった。むしろ、過酷な環境下で共に生きようと言う、良いものであった。
「白人様が至上なのだ」
自分ら以外の・・・アンスロサクス人だっけ?その特徴を持つ「白人」以外を、劣った存在だとした思想主義団体。
現在良く知られるKKKであり、ある意味では暴走したコミュニティの良くわかる姿。自分以外を劣っていると考えないと、
自分の足元がおぼつかない、他人のせいにしないと気が済まない、と、悪く書けばそうなるが、いくつかは、
白人以外の労働者に仕事を奪われたり、犯罪に巻き込まれたりと、何かを奪われた、奪われたと思っている人たちだったりもする。
そのため、過激な行動を行っても、自身が正義であるため、反省をしないと言う厄介な存在、らしい。
スポンサーがいると言う話はあるが、そのスポンサーは上記の共同体のスポンサーだったりして(本当に差別主義者かもしれないが)、
それを巻き込んだりと、他方に迷惑をかける存在となっている「一部のKKK」である。
活動が過激なので良く表に出るが、実際は、暴動を起こしている集団と大差なかったりする。
詳しい事は、自分で調べてね。私も多少なりとも偏見はあるし。
「ノブレス・オブリージュ」
検索して、どうぞ。
まぁ、ある意味では、「我々は素晴らしいのだ。だからこそ、民を導く義務があるのだ。」と言う、よくある美化されるノブレス・オブリージュである。
これは、貴族・王族で「自分らは至上」である、と言う、「白人至上主義」と変わらないものだが(貴族は基本白人らしいし)、その至上たる自分らが、
民の先頭に立ち、自らの姿をもって世を導くと言う、誇り高いものである。
今でも王朝が民に愛され、存続している姿は、ノブレス・オブリージュを体現した姿と言える。
古くはローマ時代から、奴隷制度はあったものの、尽くしてくれる奴隷は家族同然に扱い、時には文学を与え、ともに繁栄の道を模索したこともあるほどだ。
ただ、社会的に黒人を奴隷として扱う時代があり、植民地時代もあって、やはり奴隷に対する扱いは悪かったが、
一部では尽くしてくれる奴隷に、感謝の意を込めたり、家族同然に大切にしたりと、ノブレス・オブリージュをもって人々に触れる者もあった。
そして現代において、そのノブレス・オブリージュは、生き続けているのである。
語るに落ちるのでここまでにするが、白人至上主義でありながらも、模範となって正しい道を示す姿は、まさに「素晴らしい白人」である。
ちなみに現代では、貴族の銘をいただく人種は、もはや決められていないのである。日本人でももらってるしねぇ。
とまぁ話がそれたが、要は、白人を至上と思う人たちでも、やはり、同じ言葉で認識が違うのである。
「白人」を「至上」にして誇ろう。
「白人」は「至上」である。
「白人」として「至上」であろう。
これもまた、認識の差異なのである。
このように、認識の差異で、互いがぐるぐる回ることになっている問題は、そこら中に存在するのである。
それこそ、隣人とのトラブルもそうだったりと、身近な部分である。
そして、これが、一番難しい問題なのである。
一部の人は、「差別主義者に親切丁寧に説明する必要はない」と考える、と言うより、「差別が悪い事がなぜわからない」と言った方が解りやすいかな?
その認識と、
「自分が認めないんだから認めなくて何が悪い」と考える、と言うより、「それが間違っていると言っているのになぜわからない」かなぁ。
との認識のぶつかり合いである。
「差別反対」の人は、「それは間違っている」と言い、
「差別」の人は、「それは間違っている」と言っているのだ。
互いに互いが「間違っている」と言い合いながらも、その主義主張が違うのだから、グルグル回るのである。
分かりやすく言えば、
「差別と言う行動・言動は、現在の人間社会において、存在してはならないものである。」
※注意点として、やはり、かつての植民地政策による奴隷差別や搾取する政策が、間違っていたと言える人らでもある。かといって、
自身の国を卑下することは無く、また、他の国を卑下することなく、「今で今を」で語っている。
「自分が間違っていると思っていることが、世の中の当たり前と同じなのだから、自分は間違っていない。」
※注意点として、平均を重んじると言うより、自身が平均であることに安堵を覚え、異端を排斥するタイプ。
自分が中心で、世の中心にいあるから間違っていないと言う考えのため、たとえ自らの国が間違っていたと言われても、
「今の」自分は間違っていないと言う、「自分の今」を語っている。
この二つのぶつかり合いなので、互いの意見がそうそう交わることは無いのだ。
今回は同性愛にシフトしているが、差別を反対する人たちは、あらゆる差別に対して考えている。
しかし、同性愛の差別をしている人たちは、それが別にシフトすると「自分は関係ない」と声を上げなかったり、
自分が差別の対象になると(多くの場合は思い込み)、途端に差別だと騒ぐのである。
まぁ、こういった話は、ある国の話で良く聞いていると思うが。
※私個人は、基本的に個人を見て判断するので、国で判断はしないが、そういうことをやっている人らは、そういうことをしなかったり、
日本で静かに暮らしている人らに、多大な迷惑をかけていることすら考えていないことが多い。ゆえに、そういった連中は、私は嫌いである。
自分=世界と言う、なんとも誇大妄想の果てな存在であるため、ブーメラン投げまくるのである。
で、思考実験の話に戻すと、実際分かりやすい。すごくやすい。
客と店を差別者や反差別者どちらに見立ててみ同じだが、互いの意見がほとんど理解できていないくせに、その反論として自分の主張を繰り返すのである。
そうやって、グルグルグルグルと無駄ともいえることを繰り返しているのだ。
で、私はなんとか、店長から、「お客様にスッと腑に落ちる一発で決める説明を欲しい」を聞き出そうとしても、
「繰り返すしかない。」
と言うのである。
これが、今回の思考実験の結果の一つである。
「自分が間違っていないと考えている以上、それ以外の事を考え付く事すらしない。」
と、双方が思っている限り、
差別、に対して、
「差別はしてはならない。」
「間違っていると言って何が悪い」
の繰り返しになってしまっているのである。
「間違っていないと言っている相手に間違っていると言っても、間違っていないと言うだけである。」
さて、では、「自分は正しい」と思ってはいけないか、というと、そうではない。
私が思う「自分は正しい」は、
「自分は正しい。だが間違っていないとは言わない。だから間違っていたら間違いを正す。だからこそ、私は正しいのだ。」
なのである。
実際、差別を無くすのは簡単である。差別は罪となればよい。
だが、それは「思想の弾圧」につながるのである。差別する側にも言い分があるのだ。
だからこそ、「思想を弾圧するのではなく、互いに差別に対する認識を統一することで、差別と言う存在自体根絶するのが最も正しい。」
と、私は、深く思うのである。
さて、そろそろ一万文字なので、ここらでまとめを。
「人を殴る資格があるのは、殴られる覚悟のある人だけである。」
人を差別するならば、自らが差別されることを、覚悟しなければならない。
そして、その差別に立ち上がると言うのならば、まずは、
「自らの差別と言う思想を捨て去ることから始めなければならない。」
人はおろかである故、私も、無意識な差別をしているやもしれない。
なればこそ、私が差別されたのならば、私が差別していることを思い知り、その差別を、自分の間違いを正し、差別に立ち向かうだろう。
そして声高高に宣言するのである。
「差別など、存在しない、ただの妄想である。」と。
いかがでしたか?久しぶりなので疲れましたが、結局1万文字ほど書いてしまいました。
ちょっとしたことからこれは面白いと、思考実験を始めたおかげで、素晴らしいネタに出会えました。
最近はツイッターにアカウントを誤って作ってしまったので、いい機会だとニコニコニュースやらで小さくネタを拾ってはネタやらで返しているので、
よろしければそっちも見てみては?オススメしないけど。
ハッシュタグ?そんなもんかつけるくらいなら文章を伸ばすわ!(ハッシュタグって、文字制限にかかるんだっけ?)
と言うわけで、これにて。
ああ、ただ一言。
「私が差別している、と断言できる存在は、差別している存在に対してである。」
ではでは~
注釈!
現在では、同性愛者と言う言い方はせず、L?G?Bなんたらとか言うらしいが、私からすると、
「同性」を「愛する」者と、「異性」を「愛する」者に、差を感じていないのである。
ちなみに私は、異性愛者・・・・ではなく、愛せればどっちもOKかもしれない、である。
だって、愛しちゃったら、ねぇwそんなもんじゃないの?wwwww
『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』
フリードリヒ・グスタフ・エミール・マルティン・ニーメラー作。
この詩を知れ。