「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「生麦事件・薩英戦争」アマゾン電子電子書籍紹介。 幕末の外国人殺人事件。文久2年(1862)9月14日、当日、街道に出ることを控えることとした幕府の通告

2019-11-01 05:01:09 | 温故知新
「生麦事件・薩英戦争」アマゾン電子電子書籍紹介。
幕末の外国人殺人事件。文久2年(1862)9月14日、当日、街道に出ることを控えることとした幕府の通告を知らずに馬で遠乗りに出かけたイギリス人4人が、神奈川県近郊の生麦村で、勅使大使大原重徳を擁して幕政改革を朝命を伝達して京都に帰る途中島津久光の行列と遭遇。行列を乱したとして奈良原喜左衛門ら薩摩藩士により上海商人リチャードソンが殺害され、貿易商人マーシャルとハード商会のクラークが負傷、ボロデール夫人は難を逃れた。事件を知った横浜居留民団は激高し、報復を要求をしたが、イギリス代理公使ニールは冷静に対処し即時交戦を回避。翌年4月に、幕府に謝罪と賠償金10万ポンド(焼く40万ドル)、第二次東禅寺事件の賠償金と合わせ11万ポンドを要求、幕府は賠償金支払い、7月3日に解決を見た。薩摩藩には犯人の処罰と貴族負傷者への慰謝料2万5000ポンドを要求、幕府は賠償金を支払い、7月3日に解決を見た。薩摩藩には藩に処罰と遺族・負傷者への慰謝料2万5000ポンドを要求しクーパー司令官指揮の下イギリス艦隊7隻が鹿児島に遠征し交渉したが決裂、8月15日16日、薩英戦争を引き起こした。
薩英戦争、生麦事件に端を発した翌1863年6月27日イギリス東洋艦隊司令長官ALキューパーは7隻で鹿児島湾に侵入、翌日犯人処刑と前記償金の支払いを求めた。しかし交渉は進展せず、7月2日イギリス艦隊は薩摩藩の汽船天祐丸など3隻wp拿捕した。薩摩藩の天保山砲台はじめ各砲台も発砲、旗艦ユーリアラス号では艦長ジョスルング大佐、副長、水兵名が戦死し、6名が負傷した。旗艦の弾薬庫前に幕府償金の箱が積まれていたので、砲撃が2時間も遅れたという。翌3日も小戦闘が続いたが、4日に至りイギリス艦隊は、食料、弾薬、石炭が欠乏し、船体朱里のために退去、横浜に帰った。イギリス艦隊の旧式方の4倍の所定距離を持ち、集成館、鋳造所や城下町の一割を焼亡させた。死傷者は、イギリス側の戦士13名、負傷50名に及んだが、薩摩藩側は戦死5名、負傷十数人にすぎなかった。しかし薩摩藩側ではイギリス海軍の威力を認識し、無謀な攘夷を反省する機運が生まれた。講和は、薩摩藩が大久保利通、重野らを交渉委員に立て、償金を幕府立て替え払いで支払い、イギリス側も薩摩藩の軍艦購入の斡旋することなどの条件で成約した。以降、薩英関係が急速に緊密になっていった。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿