「古代の回想・刀伊入冠」マゾン電子書籍紹介。
1019年寛仁3年3月28日、刀伊の賊徒が五十余隻の船団を組んで、壱岐・対馬に襲来して壱岐守藤原理忠を殺し、4月7日筑前国怡土軍・志摩郡・早良軍に至り。略奪・強奪・放火に及んだ。さらに博多湾に侵入し、那珂郡能古島から、同11日、船越津に現れ、わが将兵の反撃にあい、同13日肥前国松浦郡を襲い、逃走した。賊船は長さ八尋から十二尋(平均十五メートル前後)かいを、3、40もち、5,60人乗りでであった。一帯は100人前陣2~30人が太刀を持ち、後陣は7~80人、弓矢・楯を持つという布陣で十隊、二十九隊と組んで上陸した。権師藤原隆家の反撃、賊徒襲来の報せは4月7日に大宰府に届いた。この時大宰府には道長との争いに敗れた中関白の伊周の弟隆家が権師として赴任していた。武力に長けていた隆家は悲報を京都に飛駅使をもって伝えるとともに、府の官人を警固所に配して防戦した。7日には能古島で前少監大蔵種材・藤原明範らが応戦し、隆家もみずから兵を率いて士気を鼓舞した。ただ兵船の準備が遅れたが、10~11日ににわかに北風が烈しく吹き荒れて戦闘中止の間に兵船38隻を整え逆襲した。12日船越津で検非違使財部弘延らが戦い、大宰府少弐平致行ら種材らが兵船追撃し、13日松浦郡では前肥前介源知らが応戦したため高麗方面に逃げた。刀伊とは朝鮮語で蛮夷を意味し、高麗では北方を境に接する女真を指していた。女真族は、東北満州ツングーンの民族と言われ、渤海国治下、黒龍江口の南北辺から沿岸一帯に居した。刀伊はこの頃しばしば高麗沿岸を襲ったため、高麗はこの対策に力を入れて入り、その余波が我が国及んだ。