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テキスト主体

懐中電灯と双眼鏡と写真機を
テキスト主体で語ろうとする
(当然、その他についても、語ったりする)

倫敦の寿司

2012-01-30 21:36:51 | 本、小説、漫画、動画、映画、音楽等
・・屋さんを映画で観てきた。
絵、とはいえ、まことにカラフルで、ブリリアントなお寿司達と回転する灯籠のような提灯照明の下にぶら下がった、あかいおとと(もちろん一緒に回っている)、がやたらと印象に残っています。
ゴカイマネキ回避の為に云っておきますと、お付き合いで、運転手兼財布として、ワタシの懐の深い理解力を発揮して来たのに過ぎません。

もっとも、愛着のあるキャラクターは居て、
キングオブいもうと、無類のサポート能力と理解力と包容力を高次元で併せもつ、菩薩の顕現のようなキャラ、憂さまであります。
世の中の23%くらいが憂さまのようであったら、世界は平和、慈愛にあふれた人類社会が実現すること間違いなし、なのです。

ハナシはかわって、映画料金が世界一高いと云われる日本ですが、もっと高いのが、飲食物持込禁止の映画館にあって暴利を貪りつくしている売店、ポップコーンやら、コーラやら、ぽてとやら、チュロスやら、を超高嶺で売り付けている悪徳機関であります。
まともなコーヒーならたとえ紙コップでも一杯350円してもおかしくないと思うのですが、コーラとポップコーンのセットが750円なんて、公取委が摘発しないのがフシギです。
日本語を解し、アニメ文化に非常の造詣の深いガイコクジン(オタクガイジン)でも、上記のドリンク&フードの価格には全身全霊で抵抗するといいます。何故、排斥運動や焼き討ちが起こらないのか、一揆という日本の伝統文化は無くなってしまったのか、と憤慨しておられます。
まさに印度人も吃驚!です。


古式ゆかしいオチですみません

究極超人あ~る

2012-01-29 16:48:58 | 本、小説、漫画、動画、映画、音楽等
納戸の古い段ボール箱を整理(っつーか、探しモノ)しておりましたら、9巻揃って見つけちゃったので、当然、読みふけってしまいました。
春風高校光画部(いわゆる写真部)にやってきたアンドロイド、R・田中一郎を取り巻く奇矯な人物絵巻です。
25年前のコミックなので、時代背景もそれなりに古く、ケータイが無く、国鉄が走り、F-1とF3が写真機のフラッグシップであり、セミドロップハンドルの自転車が登場します。当時のことを懐かしく思い出していたら、♥ CHICK・A・BOON・BOON TIGER FEET -どうせ私は綺麗です♪(県立地球防衛軍)、戦え!!イクサー1などの柿沢美貴さんの歌がなぜかアタマの中によみがえりました。
音源はもう持ってないので、いろいろと調べてみると、柿沢さんって今は社長業されておられるようで、時の経過をいみじくも感じながら、笑ってコミックを読み続けたのであります。

33 1/3、45、78。

2012-01-19 23:45:17 | 本、小説、漫画、動画、映画、音楽等
記事タイトルの数字を見て、何のことか分からない、あるいは78?って何?
と思わなかったヒトは、間違いなく中年です。
因みにアナログレコードの回転数(毎分)の規格で、78って云うのは、SP盤(StandardPlay)の回転数でありまして、ワタシも対応プレーヤーは使ってましたが、実際にSP盤を掛けて愉しんだことはありません。
4チャンネルステレオのセット(Lo-D)はあって、ほんの一時期の間でしたが、対応のレコードを面白がって掛けてました。

先日、ウチのターンテーブル(アナログプレーヤー)が不調だという話をしましたが、いろいろ調べてみると、中共ではまだまだアナログプレーヤーが生産されてるみたいで、何故?と疑問形です。

CDやMP-3、AAC、WMAの時代になって、ずっと忘れていましたが、ワウフラッター、セパレーション、スクラッチノイズあるいはヒスノイズ、これらの低減や向上のために数万~数十万円を投資せざるを得なかった時代のまっただ中、アタリマエに感じていた倍音成分のトランジェント、は、逆に今の時代になって、なかなか感じることが出来なくなってしまいました。
音楽をイヤホンで聴くのがデファクトスタンダードの昨今、重低音、というこれも多大な投資が必要だった音楽の骨盤すらも体験したことのない世代のヒトが沢山いるようです。
物量が必要な低域再生に較べると、倍音等、音の艶、色気は、たとえば、アップルロスレスやSACD等でカイゼン出来ているので、デジタル記録媒体の高密度化が高速で進む昨今、もっと追求して欲しくもあります。
映像メディアがDVDからブルーレイに移行したように、音楽メディアがCDからDVDに移行しないのは何故?と思っています。
SP以前の時代、クラシックの楽曲を再生するため、SP盤が何枚も入ったブックレット形式が由来である、”アルバム”ですから、音にコダワリ、良いモノを提供する音楽家がいてもいいんじゃないかと感じます。

西尾維新≒新井素子

2012-01-13 21:02:24 | 本、小説、漫画、動画、映画、音楽等
実はこのタイトルとは全然別の視点で記事を書いていて、あらぬ方向へ結論がたどり着き、どうしたもんだろう、と眠気に身を委ねて、没記事の憂き目に陥ろうかとしていた幸薄い文章であることを、お詫びしておきます。

西尾維新と云いますと、出版界におけるラノベの主幹らしい。さる高校の女子図書委員にうかがったトコロでは、貸出率でトップだとのこと。
三十路を超えても精力的に厨二病の聖典のような小説を、書き下ろしでドンドン発表されている。決して嫌みやこき下ろす意図はなく、感嘆しながら、好意を持って評価しているツモリです。リスペクトといっていいかもしれない。

筒井康隆翁が、その昔、笑える文章(ギャグ)にかつて無い価値を付与したように、ラノベの文体、文章、過剰な形容詞や感嘆詞、これらがラノベ以外の小説とは相容れない新しい価値を生み出しているとも思う。

かつて、新井素子が精力的に活動していた頃、あの文章、過剰に説明的な文章が折角のSF的アイデアをスポイルしているという意味合いの批評がありましたが、いわゆる”キャラが立った”登場人物が主体の小説にそんなことを云うのは野暮だよぉ、と思っていました。

西尾維新の一連の一人称の語りのハナシのなかで、女性が語る話をいくつか読んで、飾らなくて、読者の意識をさわさわとくすぐり、内輪ネタ満載な同人誌のような小説、読み手を裏切る(驚かす)ことを信条とし、読み手を気持ちよくすることを目的とする、ラノベの中では変わらぬスタンスで書かれていると思うし、読んでいてちょっと愉しい、その感じが、かつての新井素子風かなと。








HPL

2012-01-11 23:23:17 | 本、小説、漫画、動画、映画、音楽等
H.P.ラヴクラフト、コズミック・ホラーの元祖です。
人類に先立ち、宇宙の深淵、地球の海底や極地で蠢いた邪神のような生き物と、その末裔、それらを信奉するヒト、それらと混血しメタモってしまう怪異を描き続けた作家です。
といっても生来病弱だったラヴクラフトは、生前の世間の評価は高くなく、46歳で夭折したあとに、オーガスト・ダーレスらがラヴクラフトの造った世界観をまとめ上げたクトルゥフ神話大系によって、その非凡な才能が評価されることになりました。

ラヴクラフトの作品は、創元のラヴクラフト全集9冊と怪奇小説傑作集3の「ダンウィッチの怪」でほぼその全貌に触れることができ、このことは、日本の出版業界の偉業のひとつだと思っています。
昨今の多種多様なメディアで提供される軽いホラーのなかでよく登場するクトルゥフ神話、はたまた、コミック化されたりもして、浮ついたブームの様にも思える状況なのですが、かの全集の初版は1974年であり、30年以上に渡って積み上げられてきた紛れもない”ラヴクラフトの本(作品群)”なのです。

食べ物としての海産物が、嫌悪、といってよいくらいキライだったらしく、その性向が例えば「インスマウスの影」のなかの”インスマウス面(づら)”などと云う表現にも顕現している様にも感じます。

ラヴクラフトは少年の頃から天文学に通じ、またその作品中で、同時代の他の作家やその作品を登場させるあたり、現在のオタク文芸同人に通ずるところがあり、もっとも古い時代の厨二病患者ではなかったかとすら考えています。

私的な話ですが、何度も登場するアーサー・マッケンの「パンの大神」によってマッケンに興味をもち、「夢の丘」という小説、そのなかの子犬が子ども達に殺されるくだりは、読んだときに吐き気をもよおし、読まなきゃよかった、と後悔させられた強烈な印象があります、嫌いな本では無いんですけれどね。


ライ・クーダー

2012-01-10 22:34:27 | 本、小説、漫画、動画、映画、音楽等
もっとも好きなギタリスト、ミュージシャンであります。
ワタシの音楽のルーツは、すでに解散していたビートルズでした。
まだ習う前の英語の単語をひとつひとつ追いかけ、エアチェックした歌をききながら口ずさみ、それがきっかけとなり、レッドツェッペリンその他、洋物の音楽ばかり聴きながら育ったのであります。
当時、パイオニアのカーステレオ、ロンサムカーボーイのCMにライ・クーダーのアクロス・ザ・ボーダーラインという歌が使われ、来日した彼が、レコード屋で自分の歌が流れているのを耳にして、耳まで赤くするほどテレた、という逸話を聞いて、イケイケ奇矯な人物が多いミュージシャンのなかで、ちょっと変わったヒトだなあと感じたことを憶えています。

スライドギターの名手であり、アメリカの古い歌を好んで取り上げ、しかもライ・クーダー節にしてしまう、音楽に対して非常に真摯に取り組むヒトで、クラシック系でしか使われていなかったデジタル録音(PCM録音)をロック系で最初に行ったバップ・ドロップ・デラックスなど、前向きでもあります。

いくつかの歌は、いまでも、いつ聴いてもワタシの心を震わせ、ギター、ハーモニカ、パーカッション、技巧と情熱で奏でられるシンプルなメロディーとリズムが鮮やかな感動と愉しみを感じさせてくれます。

いまではウチに満足に稼働するターンテーブルが無いので、聴くのはもっぱらCDかMP3ですが、最新作のプル・アップ・サム・ダスト・アンド・シット・ダウンはLPレコード(3枚組み!)でも発売されているのを知り、古いトーレンスのターンテーブルをオーバーホールしようとして、昨年国内の代理店が取り扱いをやめ、細々と修理のみ受け付けている状況になっているコトを知り、NEC CD-803に飛びつき、いろんなCDプレイヤーを変遷しまくったワタシではありますが、寂しく感じたりも致しました。


追記

ライ・クーダーさんですが、なかなかバブルガムをふくらませることが出来ず、何回も失敗を繰り返したという逸話を思い出しました。
なんか、ステキでしょう?

音楽

2011-12-22 21:38:18 | 本、小説、漫画、動画、映画、音楽等
ハイファイ、というか、オーディオに傾倒したのは比較的遅く、ハタチを超えてからでした。

大きなシステムはほとんど手放してしまいましたが、いまでも手許には、重量27kg(スペック)を誇るプリメイン(A-10 IV)や、小粒でも凝ったエンクロージャーの素直な2Way(S-101C)などがあり、普段使いのBOSEとはひと味違った音楽を聴かせてくれます。

音楽は、何でも聴きますが、思い入れがあるのがディーリアス。
イギリスの作曲家で日本では三浦 淳史さんや出谷 啓さん市川千尋さんら、熱心なディーリアンによって、紹介されてきました。
ディーリアスの音楽の特徴は叙情だと感じています。
静かで清々しい熱情、緩やかに流れる技巧、強く訴えかけてくる小さな音、
これらの特徴が、エルガーら他のイギリスの作曲家にも共通する雰囲気を持って、たゆたう、そんな曲が多いのです。
かつて出谷 啓さんのFM番組、”でーやんの音楽横丁”のなかで、ディーリアスを好きになる人には、心に悲しい傷を負ったり、深い挫折を経験したりした人が多いという趣旨のお話しがありましたが、精緻におおらかに流れるメロディーが聞き手の感情を大事な、大切なモノとして包みこんでゆく。
ほんとうに美しい叙情を惹起する。
碌でもない日常、現実から、少しばかり良い方角へと誘ってくれる。
そんな曲の数々が私のお気に入りです。

ただ、邦盤は少なく、ディーリアスの音楽に欠かせない指揮者、サー・トマス・ビーチャムの管弦楽曲とあとは数えるほどしかなく、シャンドスその他の海外盤を輸入レコード屋さんであさりまくった記憶があります。
いまではAmazonなどでも、デュプレのチェロ協奏曲含め、色々と手に入れやすくなっていますので、オススメです。

デュ・プレについて一言、
この史上もっとも才能あふれるチェロ弾きの女性は、多発性硬化症に襲われ、夭折してしまいましたが、発病のちょうどそのとき、演奏会のために来日していました。だけど、彼女の身体は演奏できる状態になく、帰国。夫のバレンボイムの看病も空しく、結局彼女のチェロの響きが日本で奏でられることはありませんでした。今もって残念極まります。


ウィンターズ・テイル

2011-12-19 23:59:06 | 本、小説、漫画、動画、映画、音楽等
古い、調べてみたら、1983年のハヤカワFT(ファンタジー)文庫での発刊です。
19世紀から20世紀にかけてのニューヨークが舞台のお話しで、主人公(?)のピーター・レイク、ヒロインのベヴァリーの恋愛は、読後20年以上経ったいまでも、壊すことが出来ないきれいな形のまま、記憶に残っています。

ことさらに、ベヴァリーが死んでしまった後のピーター・レイクの深い喪失感は例えようもなく厳しく突き刺さり、今でも活字の並びで憶えているそのいくつかのセンテンスは、半ば肉体的に胸のあたりをキュっとさせる、印象的なモノです。

長らく絶版のままなのですが、私の持っていたのは、表紙が取れボロボロだったので、この間、古本で購入、加えて作者のマーク・ヘルプリンの短編が載ったアンソロジーをいくつか買いました。

この本は好きな人にはたまらなく好きで仕方が無くなるお話しらしく、映画脚本家のアキヴァ・ゴールズマンが初監督作品として映画化を目論んでいるようで、小説で本当に好きな作品は映画化して欲しくない主義の私ですが、このウィンターズテイルに関しては、知名度のあまりの低さ、絶版のままでなく、なんとか復刊して読まれるようになって欲しいという思いから、願わくば原作のイメージを壊さずに映画化して欲しいと思っています。

私の読書歴のなかでは「ジェニーの肖像」(ネイサン)の切なさや、「利腕」(フランシス)の読了感を併せ持ち、登場する白馬アサンソーは「まえがみ太郎」に登場する神馬ツバメトビ(声・池田昌子)を彷彿とさせ、主人公ピーター・レイクの”タグボートめ!”という科白は、どことなくカフカちっくであり、加えて、ニューヨークのバッテリーパークに、こよなく憧れをいだかせる、そんな小説です。

現代アメリカの文壇の力を私に思い知らせたきっかけの本の一つでもあります。

”ねじまき少女”

2011-11-10 23:52:46 | 本、小説、漫画、動画、映画、音楽等


早川、創元、サンリオ、この3社のSF文庫本がウチにどれだけあるだろう、
でも、性懲りもなく買って読んでしまうのが、幼い頃から罹病した本の虫病の症状であるから仕方ない・・


この本は、石油資源が枯渇し、カロリー企業という、セブンシスターズに取って代わり、
穀物メジャーを内包した新たな、そしてより強力な世界企業たちが支配する、
(ステレオタイプな)温暖化後の地球上で、伝統と自前の遺伝子資源である種子バンクのおかげで、
カロリー企業の影響の少ないとある国でのお話しである。

上昇した海面の影響による洪水から、堤防と、聖なる排水ポンプで守られた都市で、象から遺伝子改造された使役動物によって得る物理的エネルギーを、海藻から抽出した物質等による効率の高いゼンマイに貯め、動力源としている、そんな社会のなかで、日本の企業によって生み出された人造生物、”ねじまき(遺伝子改造された人造クローンみたいなアンドロイド)”は、違法ではあるが、場末の歓楽街で、人間に混じって密やかに暮らしている。

タイトルにもなっているエミコは、そんな”ねじまき”のひとりであり、造られた当初の所有者から捨てられ、いまは、ブレードランナーのプリス的な役割で生活している。
だから、いくら原題がThe Windup Girlだからとはいえ、ねじまき少女はいただけない。
”ねじまき少女”というタイトルの所為で、場末で身を売るエミコに対して不要な憐憫がかき立てられてしまう。
Girlという単語には、女性一般を示す意味もあるのだから、”ゼンマイ娘”とでもすべきだったかとは思うが、モー娘。以降、”娘”という語尾には変なニュアンスが付加されてしまっているので、しょうがないかなとも思う。

この本までの作品含めての作者の未来観だとは思うが、遺伝子改変によるバイオハザード、温暖化による海面上昇、都市の水没等、現代アメリカの、エコロジー主義者のテーゼが、結構鼻につく雰囲気があり、各SF賞を総なめにしたというのが、斜めに納得できるような感じでした。

ただ、この本で描かれている、高い堤防と高貴なポンプで、やっとのことで水没から逃れている都市って、タイのバンコクなのです。

わがままな遺伝子

2011-10-28 23:52:24 | 本、小説、漫画、動画、映画、音楽等


某ニュース番組で、小海途銀次郎さんと、その著作の紹介をしていた。
以前、日本放送協会の番組でも紹介されていた使用済み鳥の巣コレクターのヒトです。

野鳥をのぞき見する趣味を擁するワタシにとって、”巣”は不可侵領域なので、
「あ、その手があったか!」と感じてます。

なぜ、”巣”が不可侵領域かと云うと、特に営巣中の巣では、ヒト等の外敵の接近は場合によっては親鳥が巣を放棄する直接の原因になるからです。
バーダーなヒトにとって、双眼鏡、単眼鏡、超望遠レンズ、デジスコ、等は必須のアイテムで、要は、いかに大きく見たり撮ったりするかを競う風潮があります。
近づけば逃げる鳥と違って、巣や卵は、いったん見つけさえすれば、逃げることのない観察対象です。
で往々にして、近づきすぎてしまい、警戒した親鳥は巣を放棄する、ってコトが起きたりします。
鳥は、身近なツバメやカモ等に見られるように、ヒナに対する愛情が深く、子煩悩なように思われています。
なぜ、放棄するのか?
実は、遺伝子に組み込まれた本能のなせる技だと考えられています。
鳥に限らず、イキモノは子孫を残そうとします。
子に対する親の愛情は、その表れなのですが、根本のメカニズムは遺伝子を残すことです。
つまり、親鳥にとって、外敵に迫られ、きちんと孵して育てることができるかどうか危うい巣に固執して、その対価(親鳥による交尾、産卵、抱卵、世話)がむなしい徒労に終わる可能性が高まると、本能の命ずるところにより、巣を放棄し、別の機会にむけて準備をする。
効率的に、数多く、遺伝子を残そうとする機構の発動なのです。

似たような例で、さらに極端なのは、産まれたばかりの仔猫を食べてしまう母猫の話です。
昔々に読んだ「綿の国星」という少女漫画に、主人公のチビというかわいらしい少女猫が近所の仔を食べた母猫になぜ食べたのか尋ね、自分自身も、他の母性の強い猫に食べられそうになるというオハナシがありました。
そのなかでは、母猫にとって仔が奪われてしまいそうになる(≒遺伝子が残せなくなる)と、ワタシが喰わなければ、取られてしまうという情動が生じ、食べる。という描写になっていました。

母猫にとって自らの生活の大部分を注ぐことによってようやく産み育てることのできる仔猫を捕食者に捕られるなどの生死が不確かな状況におくくらいなら、自分の栄養にすることによって次の機会に生かす、これが母性愛の根底にある遺伝子による本能だというわけなのです。

ちなみに、記事タイトルは当然ですが、ドーキンスの「利己的な遺伝子」のもじりです。