2000個のビー玉を使用した楽器 - ピタゴラスイッチ
作成期間3ヶ月!?トリックが天才すぎるドミノ倒し
2000個のビー玉を使った楽器の動画、これすごい。いつの日か人類が滅びたあとの別の文明にそのままの形で発見されて超驚いてその凄さを知ってほしい。
ドミノ倒しのほうもまぁすごい。そもそもドミノ倒しって物理そのものだよね。最初の一押しであとは力が伝わるだけ。ザ・質量保存の法則って感じ。
動画の凄さに関してはどうでもいい。すごいにはすごいけど、なぜだか世界にはすごい人がいるということにはもうあまり驚けない。ネットの悪い一面だね。それを補って余りに余るメリットがあるからいいんだけど。
ドミノ倒しの動画を見ていて感じたこと。
欲を言えばメイキングビデオが見たい。トリックが凄いのはもう見ていればわかる。けど気になったのはその設計の仕方。例えばガムテープを転がしてその先にあるドミノに倒すトリックは、角度の調整を何度か繰り返したはずだ。
コロンブスの卵と同じで、悩む前に知ってしまうというのは、それがどれほどの難易度だったかに対して無関心を招く。まあそれについてもどうでもいいか。
俺が知りたいのは、このドミノ倒しの設計の仕方。作成者は設計図を用紙に書いてはいないかもしれないが、まあそれは別に脳内で済ませていようともどうでもいい。
なぜ設計の仕方を知りたいかと言えば、このドミノ倒しの素晴らしいトリックを生み出す才能はどこで役に立つのだろうか、それをふと疑問に思ったからだ。
浅い知恵で無いアイディアを絞り出してみよう。せいぜいジャングル内で地形を利用したトラップとかだろうか。木を切断する刃物とそれを支えるロープ、そして最後に欠かせないのがドミノ倒しのトリック。書けることはあるけど長くなりそうなので省く。
2000個のビー玉を使用した楽器の動画に関しても、あの楽器を作成する能力はどこで活かせるかについて考えた。
そもそもだが、「活かす」というのは、社会に貢献できるか否か、だ。
人々と社会はなにかと実利主義で、金になるか否かでその能力を評価する傾向がある。金になるかどうかは、つまり社会への貢献度によって多くが決まる。まあそれ以外もあると思うけど省く。
人々の心労が報われるべきは、それが感性に還元されるときだ。なんでもそうだろう。家族を養うためにせっせと日夜働くのは、家族を養えないことは苦しいからだ。養えていれば精神が安定するからだ。
美味しい料理やお酒、素敵な異性のために働くのも同じこと。欲しかったフィギュアや、好きな歌手のCDやコンサートチケット、などなど。末端にあるのは”気持ちよさ”だ。
ずらりと並んだフィギュアを眺めてうっとり。好きな歌手の曲をきいて気分が良い。美味しい料理を食べることができて気分がよい。素敵な異性にプレゼントを渡して交際を始められたら凄く嬉しい。
嬉しさ、楽しさ、気持ちよさ、安心、満足感、達成感を求めることによって、筋肉痛や腰痛や寝不足や節約への忍耐力を得られる。
ビー玉の楽器もドミノ倒しも、視聴率や注目や再生回数が欲しくてやったわけじゃない。楽器の設計の過程にある成長が欲しくてやったわけでもない。トリックの考案も、なにかのついでやなにかの副産物ではない。
コンテンツとしてどれだけ利益を生めるかなんてことを彼らは一切考えもしなかっただろう。
実利が伴うかどうかなんてどうでもいいはずだ。
つまり俺が言いたいのは、世の中の注目や評価の多くは、「活かせるかどうか」や「社会への貢献度」や「生殖相手として優秀か否か」によって決められている気がするということだ。
別に悪いことではない。人類の未来をさらに良いものにするためには必要なことだろうし、無自覚であろうとも大衆がそういった目で見ていること自体は人類の未来にとって悪いことではない。むしろ推奨されるべきですらあるとも言える。
しかし、俺が思うに、ビー玉楽器の凄さやドミノ倒しの凄いトリックには、その先がなくてもいいんじゃないかと思う。予感や期待は「感動」の中の重要な構成要素かもしれないが、社会への貢献とか活かすとか活かさないとかそんなのは、もうこんだけ人口増えてんだし躍起になる必要なくね?と思うのだ。
情熱だけで過ごしてもいいんじゃないか?それを言いたいのだ。情熱から生まれたものを買いたい人がいるなら買えばいい。その人が得た金は、更なる情熱が消費するだけだろう。また新しいものが生まれるかもしれないし生まれないかもしれない。
なにかのために頑張る。やりたいから頑張る。
その結果、最後にあるのは「楽しい」や「気持ちいい」という感動だけ。そこで終わりでもいいじゃないか。
とある休日に、明日や何年後かのために訓練勉強練習するってのは勤勉で推奨されるべきことかもしれないが、その一日を美味しい料理や素敵な音楽を「味わうためだけ」に費やすことのなにがいけないのだろう?
成果主義、実利主義、効率主義、成長主義な社会では、無自覚な自己欺瞞が溢れている気がしてならない。
目的と努力と結果、繋がってないよぅ全然。もっと利口にやろうぜって思うこと多々ありゆえ書きました。