鳥無き里の蝙蝠☆改

独り言書いてまーす

【考察】パフォーマンスの保ち方

2016-02-10 05:26:42 | 考察

今更言葉にするほどのことでもないかもしれないが、「過度な緊張は肉体的にも精神的にも能力の低下を招く」。

適度なストレスとリラックスはあらゆる場面で、最高のパフォーマンスを発揮するための不可欠な条件である。

スポーツする際のウォーミングアップは、怪我防止に次いで暖気運転のためである。スポーツに限らず思考力についても当てはまる。

平均的な人であれば筆算が必要な数桁×数桁の計算を、寝起きから1分以内に解くにはかなり苦労するはずだ。


「それらがどうした?そんなことは言わなくてわかっている。」

これを読んでいる人(いればだけどw)も、勿論俺もそんなことはわかっている。

今回書きたいのは、人々が意識しない部分についてである。



「体が重たい」「頭が回らない」「手がかじかんで力が入らない」

緊張や萎縮している時の自分のパフォーマンスがいかに低下しているかを自覚するのは容易い。

しかしパフォーマンスが平均の時、そして平均以上と絶好調である時に関しては、自分自身がどんな条件を満たすことによってその時の状態を維持しているかについて自覚することは難しい。せいぜい最近の生活規則が安定しているからだとか、最近良いことがあったからだとかそんな程度だ。

俺は個人的に、環境から受ける影響に敏感だという体質を自覚しているのでよく考える。例えば発情している…いわゆる欲求不満な時に目の前に異性がいる時は胸部の膨らみや露出している肌や唇などに、明らかに意識が向いてしまう。性行為への発展を期待して異性との時間をつくっているわけではないので、そうした要素ははっきりいえば邪魔なのである。とある友人はこれに似た理由から、異性と会う時は必ず発散してから臨むことにしているという。確かにそれは納得できるやり方である。他愛ない会話を楽しみたいだけなので、理想としては全神経を「会話を楽しむために」注ぎたいわけだ。

そこで、思考力が鍵となる。

喫煙者であれば、その人に見合った適度なニコチン摂取によって思考力を維持するとか高めるというやり方は理にかなっている。眠たい者にとって甘味料やカフェインを摂取することだったり、度を越した空腹に苛まれている最中の者にとってドカ食いではない適度な食事が血糖値低下による注意力散漫を解消してくれる。

ひたすら運動すれば否応なく暖まる筋肉とは違って、思考力の温め方というのは単純な方法ではうまくいかない。作家のような職種の場合、ひたすらデスクで唸っていればアイディアが浮かんでくるなんてことはまずない。勿論絞り出るものが全くないというわけではないが。

思考力、或いは計算力と呼んでもいい。この計算力というのは、人が思っている以上にデリケートでシビアな代物なのだ。それを実感したいのであれば、運転しながら暗算で2桁の数字同士をかけてみればいい。視界の中にある注意を向けなければいけないものが驚くほど見えなくなることに気づくだろう。他にも、スポーツをしている最中に見たメールの内容が、家族に深刻な事故が起きたことを告げるものだったり、交際中の異性から別れを告げるものだったりすれば、再開したスポーツに身が入らなくなるといったようなことを誰しもが一度と言わず何度も経験したことがあるだろう。

逆に、トイレで携帯をいじったり本を読んだりする場合はその作業への集中力が高くなることに気づいているだろうか。仮説だが、俺が思うにこれはトイレという空間の中では排泄行為以外に行えるものがないから、加えて外部からの情報つまりは自分の集中力を妨げる要素が少ないからではないか。例えば、密室空間に自分と1冊の本以外が何も無かったとしたら、とりあえずはその本の内容に全神経を注ぐはずである。

これで一つのことがはっきりとした

 パフォーマンス = 「集中力」 ー (「外部からの情報量」「行える活動の選択肢の数」

なるほど。であれば外部からの情報を0にしたら集中力を向上させることができるかといえば否。真っ暗闇の中でも時間が経てば目が慣れてきて見えるようになる視力と同じで、例えば無音に近い状態になると聴力は僅かな音でも拾おうとして過敏になる。突然聞こえた物音に集中力を無意識に割いてしまうことになる。人間の生命活動の大半はこうした自動メカニズムによって支えられているので、意志によってこの機能のON/OFFを切り替えることはできない。なので集中力を維持するためには、それなりに自分で環境を作らなければならない。(因みにだが、こうした環境づくりがなくとも高い集中力を発揮できる人は少なからず存在する。これは世に言う天才だと思う。)

「行える活動の選択肢の数」の方に関しては、先述したトイレのような空間を作るだけで解消できるであろうことは誰でもわかることだと思うので割愛。


「作業興奮」というものがある。やる気の有無を問わず、やりたくないことでもやり始めたら止まらなくなる時の「気分の興奮した状態」のことである。トイレ掃除やシンク掃除は一度始めると、最初は予定していなかった清掃箇所以外の汚れが気になって気づいたらキッチン全体やトイレの便座以外も徹底的に綺麗にしてしまった経験が誰しもあるだろう。あれこれ考える前にやり始めてしまうというのは、面倒くさがりな人間がいろんなことを先送りにしてしまって結局なにも進んでいない状況に陥るのを防ぐにはもってこいの手段である。

選択肢がいくつあろうとも、なにをするか迷わずに済むというのは、これは実はかなり人間の精神エネルギーを節約するために一役かっている。そもそも選択をするというのは、前提として「迷う・考える必要がある」ことを含んでいて、その状況に臨むための精神エネルギーというのは一日の中で使える量が限られているらしいのだ。(※wikiより@決断疲れ)「迷っている人間」の内面では多くの場合、葛藤が起きている。AとBの長短を比較してより合理的なほうを選ぼうとするが、「欲しくてたまらない」だったり「美味しそう、楽しそう」というのは数値に変換できない。つまり、時間や金銭との計算式には組み込めないのである。ゆえに葛藤をする。「選ぶ・選ばなければいけない」という状態は、人々に気づかれずに精神エネルギーを大食いしているのだ。じゃあ、この大食いモンスターにどう対処すればよいのか。ここで救世主「選ばなくていい環境」の登場である。

作業空間では、できる作業の数を減らす。図書館や喫茶店に一人で赴き、バッグの中には1種類の参考書とノートとペンだけが入っている。間違っても4冊も5冊も参考書を入れたり、勉強道具以外に小説や携帯ゲーム機などを入れたりしてはいけない。「そもそも選べない状況」をつくるのである。冷蔵庫の中のお茶は麦茶だけで、緑茶やウーロン茶や紅茶などは入れておかない。ビールの銘柄も一つだけ。理想を言えば、俺だったら着る洋服も限りなく少なくていいと思う。ダサすぎず奇抜すぎず無難すぎずなファッションで、洗濯機の故障や天候や汚れに対応できる程度に用意しておけばそれでいいと思う。平日のほとんどは仕事用の服が2、3着ローテーションするだけであとは寝間着なのだから。ファッションに拘るのは美男美女だけでいい。ブサな方はやるだけ無駄だというのにそんなことのために貴重な精神エネルギーを浪費するなんて考えられない。

食べ物、飲み物、着るものというのは生活の中で必ず直面するものであり、例の大食いモンスターが最も信頼している狩場でもある。どれもこれも一種類で過ごせだなんて極端なことは言わないが、今のご時世なら趣味や自己実現のために精神エネルギーを節約しておいたほうが日々が充実すると思うのだ。

「選ぶ」ことの何から何までを悪とみなしているかといえばそういうわけでもない。重大なプロジェクトを複数の人間で進めていくなかでは意見が別れることがあっても不思議ではない。さらに、恋人同士であれば「選ぶ」過程そのものを楽しむこともある。要は、選ぶ価値のあるものとそうでないものがあり、人々は気づかないうちに精神エネルギーを大量に消費していることに気づくべきだということだ。もし「選ぶ」ための精神エネルギーを使い果たしてしまうとどうなるのか。衝動買いや暴飲暴食など、些細なことから重大な決断まで、あとになって後悔するような結果を生むことになる。そのために「選んでいる」わけだが…何気にパラドクスなわけですね、ええはい笑



話が大いに逸れたので軌道修正。

因みに(懲りないなw)、こうして文章を執筆している最中も着々と集中力は低下している。文字数と時間と集中力をグラフにしたら一つ山を築いた後は最後まで右肩下がりなんだろうw

環境に変化はほとんどない。突然寒くなったり暑くなったり暗くなったり明るくなったり静かになったりうるさくなったりはしていない。強いて挙げるとすれば眼精疲労、腰の痛み、タイピングする手や腕の疲れが時間の経過とともに蓄積していくということぐらいか。俺自身も今この瞬間体感しているように、思考力が低下している原因ははっきりとはわからない。最初に書きたいことがあって、その説明のために書かなければいけないことが鼠算式的に増えていって収拾がつかなくなっているざまだ。伏線を大量に散りばめておいて一切回収せずに終わるミステリー小説なんて聞いたことがないが、まさしくそんな感じである。とはいえ、何度も画面をスクロールしては脱線しないようにと努めていることはわかってほしいw要は、思考が下手なのであるw理路整然というのができないのだ。散らかっていて手の打ちようがない。書いているうちに納得できる結論にたどり着けるとかそういうタイプでもない…はずだ。ことこうした非生産的な、しかも趣味でしかないブログ投稿に明確な「良い・悪い」の評価を求めるというのも難しい話かとも思う(開きなり)。


いい加減はなしを戻すっ!w

環境・状況は否応なくその人の肉体と精神に影響を及ぼす。俺のような体質はそれを受けやすい。相手の口調やしぐさや主張にも影響を受ける。その人の主義や考え方さえも、意志ではどうにもならないままに入り込んでくる。そして気づかぬうちに俺とその相手との境界線が曖昧になっていく。こうして自分で書いた文章を見るという行為でさえも、自分で吐いた唾を飲み込みまた吐いてはと繰り返しているような感覚さえある。どの時点での唾も同じものは一つとしてないようである。

他者との会話だったり、映画だったり、小説だったりから受ける作用は大きい。登場する人物やその口調や台詞が映る。例えば、そうして映ってしまった口調のままに知人との食事会に出向くべきなのかどうかよく考えてしまう。YouTubeで気に入ったお笑い芸人の動画をいくつも繰り返し見たあとに知人と会って会話する時は、見ていたお笑い芸人の癖が残っていることもある。

集中力の話とは無関係かもしれないが、こうした「自分のブレ」みたいなものをどうやって調整するべきかを考えてみたい。

自分の求められ方というかなんというか。もし気に入られている自分がいるのならなるべくその状態でつきあっていければと思う。それと計算力は結びつかないが、日常の中でも寝起きや眠い時や空腹時や疲れている時などで常にバラついているはずで、俺としてはそれすらも自覚と調整ができればと思っている。日々のやる気というのも非常にムラがあって、自分自身ですらその起伏に嫌気が指すことだってさえある。

その原因は、
・単純な疲労に比例しているものなのか。
・摂取した栄養素のバランスによるものなのか。
・日々見聞きした情報に左右されているものなのか。

いずれにしても、あの時この時の自分が明日をつくり未来をつくっていることは間違いない。
いずれにしてもというか、おそらくは沢山の要素が複雑に絡み合っていて一つだけをつまみ上げたところで、その要素だけではなんの説明もできないというのが正しいような気もする。



こんな感じで、結局なにもまとまりませんでしたwww

書き始めるとやっぱり思考がとっちらかるのよねん…

とりあえずおーわりっ
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【映画感想文】『インターステラー/クリストファー・ノーラン』見た(ネタバレ注意)

2016-02-07 06:27:54 | 感想文

2時間49分ぐらいもあったのか。なかなか長い…。

よかった。すごく。泣いた。

既知と未知について考えさせられた。四次元だとか五次元だとか高次元の話は難しくてさっぱりだったけど、とても刺激的だった。

地球人は地球から一歩も外に出ない限りは地球の規格で生きているということを痛感した。これはSF作品を見れば同じように実感できることかもしれないけれど、『インターステラー』は俺の見てきた限りではもっともそれを強烈に印象付けた。

映像技術とそれを駆使した表現は、まことに筆舌に尽くしがたい。科学的・論理的な根拠が勿論あって表現されたものなんであろうけども、人間に知覚できるか否か定かではないもの…例えばワームホールの中身だったりガルガンチュア(ブラックホール)の中身だったりを、実際ほんとうにそういう形をしているのかすらわからないもの達を表現するにあたって、その困難さを考えると俺なんかにはとても想像が及ばない領域で仕事をした人達は素晴らしいというかもう、凄まじいよね。それをフィルムに閉じ込めて作品にして、視聴者にしっかりと伝えることに成功しているのだから。

巧みな撮影技術・編集技術・CG技術の最先端によって完成したであろうことは間違いない。俺は見ていて馬鹿なりに「どうやってこういう映像を完成させたのだろう」と考えたが、そこはまあ言った通り馬鹿だからわかんないけども、宇宙船や宇宙のシーンは間違いなく実際のそれではないことは間違いない。まあそんなことどうでもいいか。どうせ考えたってわかんないし。とにもかくにもすごい。美しいっていうか、炬燵で見てたんだけど身を乗り出して文字通り食い入るように見てしまったよ「高次元の空間」のシーン。


宇宙は遠い。地球上であれば、いくら遠くても無理をすれば会えるかもしれない。けど、遥か宇宙の彼方となるとそうはいかない。

死んでしまって二度と会えないのとどれくらい違うのだろう?何度も考えた。時間の流れも違う。アルマゲドンと同じくお父さん死んじゃうエンドかと思ってたのに生きてた。どっちにしても泣いたけど。

人類どころか生命の存在すら無いどこぞの惑星で独りというのは、社会の喧騒に疲れ果てて自ら独りを選ぶとか無人島に独りとはまるで違う。そして、真っ黒な宇宙空間の中を進む密閉された宇宙船内部も、地球上の密室とは全く違う。同じ青空のもととか絶対に言えないレベルの物理的距離。真空という絶対的で極限の空間。だからといって、閉所恐怖症や暗所恐怖症が軽く感じるとかそういう話じゃないけど、スケールの違う話というのは本当に刺激的だ。見終えて余韻に浸りながらふらっと外へ出て夜明け前のうっすら明るくなってきた空を見上げて感じることは、『インターステラー』の視聴前後で信じられないほど違う。

諦めないこと、信じること、愛すること。今更考えさせられるようなことはない。けど、娘のたくましさとか強さに、そして父が死闘の末に帰り着けたことにとても感動した。どれだけ再会を強く願ったのだろう。想像するだけで涙が出た。腕時計の秒針でモールス信号を送ったシーンでは思わず両手を合わせて息を呑んだ。

娘の「ユリイカ」が人類の未来をつくったのを見ると、人類は人類のままでも希望はあるのかもしれないと、少し嬉しくなった。それはちょっとネガティヴ過ぎるかな?w

そんな感じかな。

ちなみに、前回の投稿で書いた『コンセント/田口ランディ』を勧めてくれた友人が教えてくれたのがこの『インターステラー』。まあわざわざ教えてくれなくても話題になったのを知っていれば見ていたかもしれないが、その友人が感動していなかったら俺は今頃これを見ていないので重ね重ね感謝の極みである。因みにちなみに、『インターステラー』を見るちょうど直前に『プリディスティネーション』っていうこれまたかなり内容が似ている作品を見ているのよね。見る順番は正解だったけど、連続したのは間違いだったwまあまあ結果オーライということで。

おーわり。


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