鳥無き里の蝙蝠☆改

独り言書いてまーす

【負の能力】矛盾の中の平穏

2015-12-31 09:10:36 | 日記

「割り切れないもの」として割り切る。
「人はみな不平等」という平等。


>>多くの精神療法家が好んで引用する言葉に、キーツの詩に出てくる「負の能力」という言葉がある。負の能力とは、「不確かさ、不思議さ、疑いのなかにあって、早く事実や理由を掴もうとせず、そこに居続けられる能力」のことです。もともとは、詩人にとって不可欠の能力としてキーツが語ったものだが、精神療法家にも同じ能力が必要だということです。何かができる能力ではなく、何もできない無力感や空しさに耐える能力のことです。
※中島義道「明るいニヒリズム」より抜粋


強引になら、白黒つけることはできる。しかし多くの人々はそれをしない。

見たく無いものを見ようとしない。それを誰も責めることはできない。ドMなやつが自分で自分を責める時以外。



水清ければ魚棲まず、人至って賢なれば友なし。

不確実性、あるいは不確かな部分が存在することを許しておかなかったり、かと思えば時に曖昧だったりグレーな状況であることを許したり・・・
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【考察】『Goosehouse』

2015-12-25 02:49:21 | 日記

Goose house(グース ハウス)は、日本の音楽グループ。しかしながら普段からユニットとして常に活動しているわけではなく、シンガーソングライター、異なるミュージシャン同士が「ハウス」と呼ばれるシェアルームに集まって音楽活動を行っている。
 ※wiki参照

https://www.youtube.com/watch?v=ddgcjiFfrd4
@何度でも/Dreams Come True(Cover)

Q . 音楽を楽しむうえで、”映像”の存在意義とはなにか?

昨今の音楽業界のヴィジュアル主義は今に始まったことではない。可愛い子、綺麗な子、イケメンに歌わせて消費者を酔わせ、釣る。

よくないね。ヴィジュアルと一言に言っても、俺が今回の記事で指したいのは、プロモーションビデオのような映像ではなく、YouTubeなどでプロではなく、そして営利目的でもない一般ユーザーがUPしている動画に使われているような映像のことだ。

よほど洗練された映像技術がなければ、あるいはその手の企業の協力などがなければ凝った動画の制作はできない。しかし定点カメラで歌っている姿だけを撮影するなら、社会人の収入で十分に手が届く。

冒頭で説明をしたグースハウスだが、今回ピックアップしたのは彼らの作品について改めて感動したからだ。そしてドリカムの『何度でも』をカバーしている動画をチョイスしたのは、俺が推したい要素が特に濃い作品だと思ったからだ。

その要素というのは、"楽しそうに歌っている"というポイントだ。

これが音源だけだったらどうだろう?彼らの表情は伝わらない。手振りだったり全身でリズムに乗ったりする姿が見えなければ、どれだけノっているかも伝わらない。

いつも不思議に思うことなのだが、「ただ歌っているだけなのに、とても嬉しそうなのだろう?」と。もちろんしっとりと歌う曲であれば歌唱中に表情が綻ぶことはないかもしれないが・・・。

機嫌、あるいは気分というものは伝染する。良いものも悪いものも極めて容易く。

楽しそうに歌う姿は、見る者を楽しい気分にさせる。映像があることの価値を実感する。

グースハウスの彼らは心底楽しそうに見える。音楽好きな友人が少ない俺からすると至極羨ましい限りである。余談だが、特に竹渕さんの技量は目を見張るものがある。俺が気に入るグースハウスの作品にはほぼ全部彼女が出演している。歌が上手い人をタイプとか関係なく無差別に好きになってしまう性格もいかがなものかと思うが素直に魅力的だと感じる。



相も変わらず整頓のされてない記事になったな・・・。

まとめようかね。

本当に良い音楽は"音だけ"で聴く者を圧倒するはず、という主張だった俺がグースハウスを見ていてついさっき映像ありきの音楽を肯定し得るヒントを得た、という記事ですねハイ。

顔の造形や露出や衣装でゴリ推しの昨今のヴィジュアル主義な音楽には否定派なのは変わりませんが、グースハウスのような手法は素晴らしい。

純粋に音楽を楽しんでる。その姿を届けようと言うのならカバーが多くなるのも当然といえば当然。カラオケでなるべくみんなが知ってる曲を歌うようなものだから何も悪くない。


おーわり







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【考察】フラッシュバルブ記憶

2015-12-22 03:11:46 | 考察
wikiより引用

フラッシュバルブ記憶(英:Flashbulb memory )とは、個人的に重大な出来事や世界的な重大事件に関する非常に詳細な記憶を意味する。閃光記憶。「写真のフラッシュを炊いた時のように」鮮明な記憶。この用語は Brawn と Kulik の論文(1977年)で最初に使われたもので、強烈な感情を伴った記憶が時間が経った後でも鮮明に思い出せることを示した。例えば、多くの人々がアメリカ同時多発テロ事件やケネディ大統領暗殺事件、ジョン・レノン殺害などのニュースを聞いたときのことをよく覚えている。

そのように鮮明に思い出せる記憶であるが、フラッシュバルブ記憶が普通の記憶のように記憶され続けるわけではないことが、いくつかの研究により示唆された(例えば、Talarico, 2003)。一般にフラッシュバルブ記憶は通常の記憶よりも正確かつ鮮明に思い出せると考えられているが、その理由として、人々がそのような重大な出来事を話題にすることが多いために記憶が強化されていることが指摘されている。Neisser(1982年)によると、フラッシュバルブ記憶が長持ちする原因の1つとして、報道によって定期的に記憶が補強されることを挙げている。



記憶の劣化スピードにはバラツキが生じる。その原因の一つが、印象の度合い。

社会的にも世間的にも大きな出来事を、人々は長い間忘れることがない。出来事の印象の強さは、イコールでそれを会話の中で話題にする頻度に直結している。

印象の強さ=話題になる頻度=記憶の劣化スピードということになる。

エビングハウスの忘却曲線によれば、とある出来事を想起すればするほど記憶として定着するとのこと。

つまり、出来事が長期に渡って人々に記憶されるかどうかは、それが起こった時点では確定していないということだ。

同年代の人同士のうち世代ネタについていけない者がいたとしたら、その人の環境ではドラゴンボールネタで盛り上がる環境を得られなかっただけということだ。

人間の体は、必要なものと不要なものを速やかに判断しエネルギーを効率良く運用するようにできている。記憶も同様に、数日後も数ヶ月後にもアクセスのなかった記憶が不要とみなされてしまうのは当然のことである。現に我々は2日以上前の朝食の内容を思い出せないことが極めて多い。これに対し2日以上前でもディナーの内容を割と思い出せたりするのは、朝食ほどワンパターン化していないからである。


遅くなったが今回の記事の本題に入ろうと思う。

フラッシュバルブ記憶と呼ばれているが、蓋を開けてみれば名前がつくほどのものでもないような気がする、というのが本音である。

記憶が長期に渡って鮮明なまま保持されるのは、記憶の想起頻度が高いという条件が主に必要であり、出来事が大きいほどその条件を満たす可能性が高いだけ。いかに出来事自体が人類史にその名を刻もうが、何日間もニュースで取り沙汰されようが、それを一度見たきり想起する機会を得なければ当人にとっては一昨日の朝食と同じなのである。

このように誤解、あるいは錯覚してしまう認識ということは日常に本当によく溢れている。

今回、フラッシュバルブ記憶という名前の単語を知った際に思うところがあったので執筆した次第だ。

余談。誰とも共有していない自身だけの記憶と確証バイアスの組み合わせの堅強さを打ち破れる意志というのはなかなか稀有だと思う。



合理的な判断をするためには、精確な認識が欠かせない。しかし精確な認識ができたところで、目的が不明瞭では合理的な判断のしようもない。

友人との他愛のない食事会では、粗末な認識で、不合理な判断力で、目的のないなんとも危険な意志の疎通がされていると思うと、なかなか怖いことを平気でしてるんだなって実感する。
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【考察】モデル不在

2015-12-21 02:02:59 | 考察

自然主義的誤謬。我々の祖先が共食いをしていたからといって、現代の我々も共食いをするべきだといったような推論が必ずしも真ではないこと、またはその誤り。

『私たちは今でも進化しているか?/マーリーン・ズック』を読了して、俺の中で判明したのは、「どの時代でも致命的な脅威に対し我々は進化し続けてきて生存と繁栄を最大化していくことには成功しているが、環境に完全な適応をしたことは一度もない。」ということ。

現代の食生活は、肥満や糖尿病などといった過剰な栄養摂取によって健康を損なうもので溢れている。昨今の遺伝学などの科学技術の発展により明らかになった祖先の人類達の食生活のうちいずれかには、我々も習うべきものがあるのではないかと考える人達がいる。農業を悪だと断言するジャレド・ダイアモンドを筆頭に、パレオ式に傾倒する者達がその代表である。

どの時代の食生活を模倣するべきなのか?答えは、「どの時代にも存在していない」である。

「〜環境に完全な適応をしたことは一度もない。」理想のモデルは過去には存在しないということである。

人類は自分たち以外の生物・無生物を何から何まで利用する。大地に降り注ぐ筈だった太陽光を遮るソーラーパネル、増やしたり減らしたり改造される動物達や植物達、出会ってしまったが最後の核融合・・・etc。

自然を尊重し、守っていく?大いに結構。しかし絶滅した種は元には戻らない。かつての緑や青を蘇らせることはおそらくできない。人類が限りなく利己的かつ無差別に繁栄していくことは、果たして善か悪か?

我々が自分勝手に好き放題繁栄していくように、自然の猛威も自分勝手に好き放題に人類を蹂躙していく。生命に意味なんかないし、自然にも意味なんかない。

宇宙にも地球にも人類にも生命にも「高尚」は備わっていない。人類が目指すべき事柄なんてものは存在しない。惑星間の旅行が可能になったところで、銀河間の旅行が可能になったところで、きっと彼らの営みが変わるのは手段だけ。

誤解しないでいただきたいのは、俺は憂いているわけではないということ。ただただ虚無なのだ、我々の為すこと全てが無駄なのだと言いたいわけではない。

人類であろうと無生物であろうと、誰もが利己的なだけだということ。己の快苦が舵を切った果てに辿り着くだけである。つまり良いも悪いも存在しない。モデルはどこにもない。神なども存在しない。誰も決めていないということ。

つまり、良いと悪いを決めるのは個人であるということ。意志によって。

太古より刻まれている遺伝子の強制に対抗する力を、我々人類は持っているということ。
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【念願】iMac買いました

2015-12-18 03:35:30 | 日記

27インチ FusionDrive 1TB、保証含めて28万円也。た、高い・・・。

とはいえ支出額相応の品質とこの所有感。たまらないです。

画像超綺麗。画面超でかい。読み込み超早い。特に音質がすごい。内臓スピーカーでこんなにはっきりと低音が聞こえるPCって他にあるんかいな。

iPhoneやiPadで事足りるとはいえ、やっぱりキーボードをタイピングする効率は計り知れないね。敵わないよ。

プライヴェートのあらゆるデータがネットを介してほとんどのデバイスからアクセスできるのって不安な点もあるけどすごいよね。iPhone、iPad、iMacでアプリや連絡先や書類や画像、さらには曲、何から何までほとんどを無線で共有してる。

iPhone一台の時は何とも思ってなかったけど実際共有するデバイスが増えるといかに快適かというのを実感する。



読書ノートを前PCが故障してからは紙とペンでとってたんだけど、今はこいつ、iMacちゃそがあるのでこれでバリバリやろうと思ってるんだけど、仕事が終わってからはやる気が起きず、っていうかただ触ってるだけで気分がいいのでまー捗らないったらありゃしないw

目下検討してる目標は動画編集技術の習熟とプログラミングをかじりたい。

俺なんかに上達できるものかどうかはさておき、iMacでこそ叶う世界であることも含めて、何よりも時代が情報処理やコンピュータ技術の価値を前提とし、その価値の高さを保証しているので、予習というかおさらいというか・・・単純に言えばゲームデザインというものに長い間興味を持っているのでその世界に少しでも足を踏み入れることができればなと思った所存で候。

そのためには最新のiMac。分割払いであっても、購入する価値は十二分にあったと確信しております。



とまあ、そんな具合でiMacを間違いなく持て余すであろう私めでありますがこのたびはその報告のために投稿いたしました。

我ながらいつになくクソどうでもいい内容で、しかもくっちゃくちゃな文章読みづらい長いどうでもいい読む価値ゼロ。

目がシュパシュパしてるので終わりはぁと

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