ハートウォーミングなヒューマンドラマ。スクールカースト。同調圧力。弱者と強者。社会とハンデ。罪と償い。誠実とペルソナ。思いやりの果てに。
強い意志は弱さと後悔から生まれる。痛感に痛感を重ねて再確認し続けても俺みたいな無能が大成しないのは、「強い後悔」や「弱いことを自覚する体験」に遭遇しないからなのかなって。つまりそれは、俺がいる時代と環境が"平和で恵まれているということ"でもあるんだろうなって。五体満足であり健康であることも大いに含めて。
見苦しさを予感して視聴を躊躇ってしまう作品が多いなと感じる今日この頃。すぐに思い浮かんだのは「花より団子」や「この恋を思い出してきっと泣いてしまう」である。前者も後者もすれ違いが非常に多く、それは人為的だったり突然の雨のような運命のいたずらによって引き起こされている。それがどう文脈に沿うかと言えば、キーワードは"じれったさ"である。
『聲の形』では、耳が不自由な西宮に対して、コミュニケーション能力の低い石田がお世辞にも上手とは言えない立ち回りで彼女との時間を過ごそうと努力する。視聴者は「こうすればいいのに
」とか「こういう言葉を使えばいいのに」のような「志村うしろーっ!」と叫びたくなる心境になる。『花より団子』では、視聴者は早い段階で道明寺と牧野との間にすでに強い絆があるのを感じ取れているので、ちょっとした誤解やタイミングの悪さが最高にもどかしくなる。『この恋を思い出してきっと泣いてしまう』でもだいたい同じような展開に陥る。
とはいえまぁ、ある程度成熟して感覚の肥えた…特に、コテコテのミステリーや脳みそフル回転カオストリップ系SFに慣れてしまっている大人の鑑賞に耐えられる構成を『聲の形』のような類に期待すること自体がそもそも間違っているのだがw
うろ覚えだけど、だいぶ過去に週刊マガジンにて連載していて軽く読んでいたので、気になっていたのをこの度視聴するに至りました。
ショウコもそうだがユヅルもそう。君達はなんて素敵な心を持った子達なんだ。お婆ちゃんやお母さんのおかげなのかな?そういえば主要人物の父親って一人も登場してないね。もし自分がユヅルのような子の父親だったら感心してばかりで涙もろくて心配性で、困った馬鹿親父になっていただろうなと思う。やっぱり下の子って要領良くなるんだねぇ。(染み染み)
西宮のライフスタイルは、構成やテーマ的にしょうがないだけかもしれないが、とてもシンプルだね。170万円を高校生がバイトで稼ぐ、という事実がイコールで「趣味や身の回りに費やす分が無い」という意味になる。おそらく小学校卒業から罪悪感と共に過ごす日々が彼に趣味や娯楽への興味を向けさせなかった可能性が高いわけだが、「本当に価値のあるもの」がなんなのかを、彼の生活を見ていると考えさせられる。それはこうした作品を観ていなくとも俺が日夜考えることだからである。
つい本日も日中にスターバックスで、どえらい高額で激甘なハッピードリンクを購入したんだけれども、あれってニコチンカフェインアルコールドラッグとほとんど変わらないよねーって常々思ってる。なにがって・・・快楽との距離がね。だってとにかく「手っ取り早い」よね?
手軽で手頃。
最近ね、あることの技術の習得に勤しんでいるところなのよね。手っ取り早い快楽達とは違って、それがドーパミンのような快楽物質として還元されるまでには、多くの時間・目や腰の疲労・大量のブドウ糖を消費しなければいけないわけ。数十分と小銭で手に入る快楽に比べてコストが凄くかかる。でも、刹那的な快楽とは違って、この技術を習得することによってその先の時間には彩に差が生まれる。創造的なアイディアが生まれる度、可能になった手段を用いてどんどん新しいことに挑戦していける。すでに血肉となったその経験値と技を利用することにコストは必要ない。
『聲の形』では鯉の餌やりや、花火大会を穏やかに慎ましくもしっかりと味わい楽しんでいる。各々が独りきりではなく誰かと。人々の営みがどれほどハイテクになって、方法がどれほど多様化したとしても、肝要なことはそうした「味わう器」や「相手」だったりするのかなと、思いたい。母親の誕生日を祝うためのケーキを一緒に作ろう、とても素敵だと思います。
「耳が不自由」や「いじめ」が主要なテーマなんだろうけど、俺ってば全然触れてないねw感心が全くないわけじゃなくて、最近のいじめに疎いという理由が一つ。身体的ハンデのほうに対しては、「まぁ子供に理解を求めるのって本当に困難なことなんだろうな」ってある程度のところで思考が止まってしまっている感があったから。登場した教師のふるまいには賛否両論あるだろうね。それを間違いだと言うのは簡単だが、じゃあどうするのが正解なの?となるのでなんとも言えない。隔離された(障害者支援的な)教育機関で学ぶのも有りだろうけど、温室育ちからハードモードの社会でやっていけるかどうかという不安は残る。そうしなかった結果として西宮はいじめ被害を受け、石田は孤立した。二人をどちらとも救う方法を、刻一刻と深刻化する状況の中で、教師が実働時間外でわざわざ思案するのだろうか?その人は薄給で副業しているかもしれないし、一身上の都合で日々を忙しく過ごしているかもしれないし、そもそも教育に対して積極的じゃないかもしれない。事態が深刻化してから黒板をぶっ叩いて容疑者を吊るし上げるのは得策か否か。俺にはさっぱりわかりません。コミュニティを築いて誰かを入れたり退けたりするのは、社会生物として平均的なふるまいである。それを子供達は小学校で身につけようとしていただけという見方もできなくはない。自分とは違う相手のことを受け入れるというのがどういうことなのか、どういう解釈が正しいのか、それはきっと良い歳した大人達も俺もわかっていないと思う。信じる、というのも要は「相手が裏切っても文句を言わない」という解釈になっちゃったりする。だから俺なんかは面倒くさくなって考えるのをやめちゃうのである。
今の俺は、「独り」が好き。自分のアクションに対して評価してほしい気持ちは人並みにあるけれど、そのために煩わしい諸問題を背負うくらいなら要らないと思う。そういう意味で人間関係というのは8割以上が糞。お人好しが食い漁られていくだけで、利己的な連中が精神的にも健康でと〜っても長生きしてる。嵐の波や土石流みたいな人間ばかりで、テトラポッドや堤防な人達があちこちで消費されて失われていく。クッションだとか潤滑剤みたいな人間を必要とする状況を作る輩が死ぬほど嫌い。だから西宮視点で描写される罰印には安心感がある。
無理に他人と仲良くする必要なんかな〜いのよ〜ぅ。
おーわりっ