社会性、協調性、絆、仲間意識、コミュ力、最大多数の最大幸福・・・etc、etc。
『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』はライトノベル原作のアニメ。数年以上前に見て以来、"自意識"や"メタ認知"について少し考え事をしていて「自意識の化け物」と呼ばれた当作の主人公八幡をもう一度見たくなったので、つい先ほど12話まで見終えたところ。
刊行:2011年3月~
アニメの放送:2013年4月~
主人公の八幡の主義主張、そして台詞の一つ一つがどれも痛快で爽快極まりないことこの上ない。
徹頭徹尾「社会が悪い、俺は悪くない、俺は変わらなくていい」
ヒロインのユキノが言ったように「あなた(八幡)を見ていると、(周囲や環境のために)変わろうとすることが馬鹿らしく思えるわね」という台詞には極めて同意。
インターネットが普及し、PCやスマホが1人1台が当たり前になり、2chやネットでの発言や交流も当たり前になった昨今では、「ぼっち」「根暗」「非リア充」「引きこもり」「ニート」などなど、つまりは組織や集団において少数派だった人達のそういった属性に関しては「え、でもお前友達いないじゃん」という決まり文句でオチがつくなど、自虐という行為によってネタとしての価値に還元されていたりもする。
『(略称)俺ガイル』では、ぼっちで根暗でひねくれ者で悲観主義な八幡が「究極の開き直り」をして物語が進む。視聴者はそこが痛快なのだろうと予想する。共感力という意味では、これほど視聴者達の心理をクリティカルに突いた作品はなかなか無いのではなかろうか。
アニメ全体としての総合評価はぶっちゃけそれほどだと思う。萌え豚歓喜狙いとしてはいまいちなキャラデザとクオリティだし、色気もない。作画に関してもまあ制作費相応といったところだろう。そういう意味では非常によくまとまっている作品とも言える。
所詮は原作がライトノベルと言えば、情報を受信しやすいという意味でアニメ化は重宝されるだろう。なぜなら活字から多くを読み取らずに済むからだ。迫力満点のアクションシーンやド派手な崩壊シーンがあるわけでも無い限りは、ぶっちゃけかかとが浮いてひざが軽く曲がって、つまりは廊下を歩いている最中の絵を一枚映しておけば、人物の足を動かす必要も髪を揺らす必要も無いはずなのだ。
困惑した表情で目を潤わせながら口を何度もパクつかせることもない。なぜなら静止画で済むはずだからだ。そしてその静止画を登場人物達の台詞やBGMや効果音と共に移し替えていけば「動く絵」なんてものは合理的に考えれば必要ないことがすぐにわかる。合理性を極端に追求すれば紙芝居ということになる。それはそれで今の人たちには受け付けないけどもw
それがどうしたかといえば、つまり『俺ガイル』のようなアニメに関してはキャラデザ作画お色気その他もろもろといった要素を求めるのは"筋違い"だということ。制作費が少なかったのだろう。それでオーライ。二期では見違えるほど綺麗な絵になってるからそれでいいじゃないか。
余談だが、『化物語(物語シリーズ)』はこの作品と似ている部分がかなり多い。主人公八幡は阿良々木暦と同じく友達がいなくてぼっちで女の子が大好きで自己犠牲心が強い。ヒロインの雪乃は、戦場ヶ原ひたぎと同じく才色兼備でサディスティックで自意識過剰。
設定だけかと思いきや、日常会話ではありえなさそう且つ数回噛みそうで更には打ち合わせが必要なんじゃないかと思える台詞は両作で共通している。
おまけに「失礼噛みました」だったり、化物語の制作会社シャフトの独特なキャラの動きが完全に一致するようなシーンもあったりするからさすがにこれは誰かの意図があったに違いない。
パクリ説云々はここまで言っといてなんだけどぶっちゃけどうでもいい。
仮にパクリだったとして、或いはとても似ているとして、では両作の差はなんだろうか?
・化物語は怪異譚であり、異能系として括られてもおかしくない。
・俺ガイルは完全に現実の世界であり、異能やお化けは登場しない。
しかしどちらも青春をテーマに学生達がなんやかんやと賑わう作品である。
個人的に好印象なのは俺ガイルのほうだ。西尾維新のファンではあるが、なぜか俺ガイルのほうが身近に感じられる。まあ現実世界のお話なのだから当然と言えば当然だが。
化物語は冗長的なのだ。言葉遊びはうまいし、台詞の中には含蓄を感じるものも多くて考えさせられることが多い。
書いていて気付いたぞ。俺ガイルの悲観主義的なところに俺は虜になってしまったのだろう。
化物語はなんだかんだ言っても明るい話だ。対して俺ガイルはベースが暗い。性に合っているということなのだろう。
なるほど。勢いで書き始めたせいか、割と書くことが無いw
なので本題(いまさら?!)
タイトルのベーカムについて。
ベーカムによって社会に迎合する必要がなくなる。無理に他者や周囲や環境にあわせなくてもよくなる。
八幡にとってこれほど嬉しい世界はないだろう。
少数派や価値観の違う者同士のどちらかだったりが愛想笑いをする必要がなく、ご機嫌とりをする必要がなく、各々が自分たちの好きなことをしていても誰にも迷惑がかからない。それのなにがいけないのだろう?
それはベーカムが導入された時の話。
俺ガイルのような作品では、つまりは理不尽に苦しめられた者と不要に苦しめた者が誰なのかというテーマを視聴者に訴えている気がする。個人的にそれは有意義なものだと思うし、社会にとって必要なことだと思う。
鈍感で無知な人間がどういう結末を迎えるかは毛沢東の知識層の撲滅の結果ですでに明らかだ。
すべての人に神経質になれというわけではない。ほんの少し想像力を働かせて他者の気持ちを想像し、自分の中の欲望に自覚的になれば、人々の不快指数は劇的に減ると思う。
戦争なんかせずとももっとうまいこと社会がまわって足りない人のところに余っているものが行き届けば不平等も減る。
理不尽な苦しみが減るのだ。めでたしめでたしだよぅほんとに。
まあそれがないと成長できないってんなら必要なんだろうけどもね。