Fantomeが発売されてから随分経ったが、今更ながら感想を書く。
初めて聴いた時から今に至るまで俺を魅了して止まない曲の一つである。暗い曲なのにとても癒しがある。これは宇多田ヒカルの歌だからとか、『忘却』だから、という理由で癒しを感じているわけではなく、昔から暗い音楽のほうが身に馴染むというか聴いていたいと思う体質なのだ。とはいえ『忘却』は『桜流し』には劣るものの俺にとってはとても大切に聴きたい曲であることには間違いない。
彼女は滅多に「幸せ」を唄わない。主観かもしれないが、喜びや感謝を唄う曲はあっても、それ以上に憂いや儚さや悲しみへのふるまいを形にした曲の方が遥かに多いと思っている。言うまでもないことだが、苦しみがあってこその喜びである。光と影がコインの表と裏であるように、彼女の歌にはまず絶望があって初めて形作られる。
絶望を嘆き、立ち尽くして、立ち向かう。この世界には救いがあると信じて。全ての終わりや祈りに報いがあらんことを。その景色を美しいと感じているからなのだろうか。濁った世界に疲れた時に、彼女のような人が祈る姿はこの世のどこにもないほど純粋に誠実な姿をしているからだろうから心を打たれるのだろうか。
宇多田ヒカルには別の世界が見えているような気がしてならない。みんなより多くのものが見えていて、だけどみんなよりも多くのものを見ないで生きていこうとしているような。わざとみんなに合わせているかのような。きっと人の一生で行ける果てを彼女はある程度知っていて、でもそこには空っぽの宝箱があるだけで、それをみんなは知らずに生き急いで取り合っていて、彼女はいつも虚しそうに遠くから眺めている。或いは悲しそうに。
この一連の感想も、俺が彼女に抱きたいイメージを勝手に抱いているだけなのかもしれない。他人のことを語るようでいて自分の理想を語っているだけなのかもしれない。もしかしたら自分のことを語っているだけということもあるかもしれない。
大空いっぱいに葉を広げた木や、足元で賑やかにしている草達を見ると、俺たち人間が複雑に営んでいる時間をとてもシンプルに過ごしていて、それに比べたら人間って滑稽だなって思えたりして。
女が出産を諦められず、男が女を追いかけずにはいられない。でも最近すごく思うのは、性欲に限らずそういった本能や欲求という支配から逃れたいだけなんじゃないかなって。
俺たちって本当はもっと他のことがしたいんじゃないかなって。青春だとか育児だとか、老いの中で誰かに何かを託すことに喜びを感じるとか、切迫した時間とか、そういったやかましいあれこれにうんざりしている。『忘却』の歌詞からは、なんだか『Show Me Love(Not a Dream)』とは真反対な現実逃避欲求を感じる。
ちなみに俺はShow me sweet dreamとにかく良い夢を見たい。そうすれば明日も頑張れるから。
おわりっ