成長過程にある人間所謂、新生児〜義務教育の過程である若者達が育つ環境の質向上及び改善は望まれるべきものであり優先して行われるべきものなのは明白。だが超高齢化社会である日本の現状においては、それ以上に"優れていない大人"の処遇について検討されるべきだと日々痛感している。
高度経済期の金利上昇率を前提とした保険掛け金だけで安心した老後を迎えられる筈だった"いまの老人"は、まるで一発屋芸人が調子にのって都内の高級賃貸に移り住むようなもの。将来のリスクを具体的な形で自身の精神に負わせていこうという志はなかなか見上げたものだが、これがもし投資の世界であれば大した博打である。
子供は親を選べない。先天的な要因によって成長幅に明白な個体差があるとはいえ、ポジティヴに考えるのなら「どんな子供にも、その若さゆえ可能性に満ち溢れている。少なくとも成長できるチャンスを愚かにも見逃してきた大人達に比べれば」である。
だというのに、年齢だけ社会人という定義の愚かな大人達は、その愚かさゆえに子供達の成長を妨げ明るい未来の芽を踏みにじっている。悲しいことに老害はその一つの例でしかないのだが、日本においてまず大きな問題に目を向けるのであれば優先するべきはやはり老人の処遇で間違いないだろう。
介護施設から受け入れを断られる高齢者を、やむをえず家族が自宅で介護することになる。老化による認知機能障害、内臓や手足の機能障害etc、祖母や祖父の世話をしたことがある人や、介護の経験がある人なら分かるだろうが、高齢者の世話というのは本当の本当に大変である。
大人として模範的な人格を保っている高齢者の世話であれば、それは単純な筋肉疲労やちょっとした時間の消費程度の心的コストで済む。しかし、三十代や四十代ですらまともな人格の獲得ができていない人は少なくない。更には、年を追うごとに傲慢になったりひねくれたりするということもあるのだから手に負えない。
老人に限ったことではないが、明らかに厳罰対処を受けるべき行動をとる大人達も多い。犯罪ではないが配慮のない言葉や知性理性に欠けた言動で相手を精神的に攻撃する者も多い。とにもかくにも他者が存在する"外"では、同胞というよりかは敵のほうが多い気がしてならない。動画サイトにはドライブレコーダーで録画された数々の悪質運転の映像が投稿されていて、「悪いところだけを集めた」ように思うかもしれないがこれは人々の日常に数え切れないほど溢れているものである。スポーツカーや日々進化を続ける便利な現行車に思いを馳せることがあるが、"ストレス過多な日本の道路"においてはどれだけ良い車に乗ったところでハイリスクローリターンな買い物にしかならないと思っているほどだ。車が通れるほど広くても歩道を通れない自転車や、信じられないタイミングで道路を横断してくる高齢者などなど、中でも最も普及している危ない運転シリーズといえば「高速道路走行車線上での逆走、または停車」だろう。運転免許証の試験合格基準を大幅に難しくするべきであり、悪質運転車への厳罰や取り締まりの強化を望んでやまない。
さて前置きが長くなったが本題。
運転免許資格取得条件の高難度化と同じように全体レベルを引き上げるべきである。敢えて主語を抜いて言ったが、要するに国民の理性や教養の平均レベルを上げるべきだということを言いたいのである。攻殻機動隊風に言えば「上部高層へのシフト」だ。それが口でいうほど簡単ではないのはわかっている。だが昨今とても思うのだ。なぜ人に危害や損害を与えてまで気持ちよくなりたいとは思わない人が、そうではない人の食い物にされなければいけないのだろうか?と。子供にとっての毒親やDV、若者にとっての老害、陰キャにとってのDQN、過剰反応するモンペやクレーマー、自分勝手な運転手、承認欲求を満たし損ねた大人、and more。挙げたらキリがない。
お人好しな人間は貴重な存在であり、断じて"浪費"されて良い心などではない。偏りのある利益が生まれた時点でそれは商売ではなく、搾取であったり詐欺であったり、つまりは泥棒のような悪人の仕業と同じである。
これは一体なんなのだろう?俺は本当に外へ出るのが嫌になった。他人と関わるのが本当に嫌になった。買い物や気晴らしに出かけたいと思っても、車の走る道路には負の爆弾があちこちに転がっている。友達との食事会は他者や外界への不平不満による愚痴で満たされている。レストランでは明らかにマナーの悪い客に遭遇する。家族の話はお隣さんや同じ家族への不満などで溢れている。そうした負の情報に人一倍敏感な自分のセンサーが悪いというのは重々自覚しているのだが、仮にそうじゃなかったとしてもひどすぎやしないか?と思う毎日である。
安全地帯はないのだろうか。思いついたのは海外だった。どこの国へ行ったところで治安の差はあれど「良い人がいれば悪い人もいる」。けれども日本よりはマシだろうなと思った。なぜなら日本人のやり方が気持ち悪いからだ。働き方改革や熱中症対策やBIという言葉の普及率を見て、日本の"腫瘍"が改善されつつある傾向を感じてはいるのだが、それでもなお気持ち悪いなと思う。オープンな欧米人に比べて圧倒的に消極的すぎる日本人の気質に気にくわない部分がとても多い。欧米人にも日本人にも良い部分と悪い部分はあってどちらかであるべきだと言いたいわけではない。理想論だが悪い部分を摘み、良い部分を守るべきである。サービス精神が評価される日本だが、「お客様は神様」によって客が踏ん反り返っているような風潮は現地の日本人からすればこれは身内の恥である。悪いものは悪いとはっきり言えなくてはならない。資源の自給が難しい狭い島国である日本の昔には、客である外国をもてなすことで繁栄を獲得してきた歴史は確かにあるかもしれないが、先進国と戦える技術を獲得した今となってはどうだろうか。現地の同じ日本人に対して、同じような振る舞いが必要だと果たして言えるのだろうか。
話が逸れたな。安全地帯の話だったね。
安全地帯などというものはおそらく存在しない。運動能力、知性、理性、人格の差は必ず生じるものでありこれをどうにかすることはできない。先天的にも後天的にも差が出てしまう。しかし競争や適材適所によって、"その差自体の"価値は保証され続けるはずだ。問題はそこではなく、理性・知性・人格が望まれる水準を下回る者にある。
・反社会的行動
・大人としてあるまじき行動
・指導者、教育者としてあるまじき行動
・親としてあるまじき行動
・悪質な危険運転
・根拠のない感情先行型攻撃的意見発信
・集団いじめ
・自殺
・時代風景に適していない古い労働観念
and more.
これらを犯してしまう人々とそうでない人々がどうやって共存していけばいいのだろうか、という問題である。
今の日本は、時代の節目にあると感じている。△△な人と□□な人のどちらかが死に絶え、どちらかが生き残る。悪霊が集まって巨大な闇となって押し寄せて若者や子供達の将来を飲み込んでいく。その闇は"老害"と呼ばれた…。
これはある種の淘汰圧のようなものだと感じた。目まぐるしく進歩する技術や変化する環境に適応できている多くの若者は、どうにかしてこの淘汰圧を乗り越えなくてはならない。これは強制イベントであり、強襲イベントであり、強制レベルアッパーである。
毒親から逃げ延びなければ生き残れない。異常人格者から離れられなければ殺されるかもしれない。老害に振り回されることによってジワジワと毒に冒されるように死んでしまうかもしれない。自暴自棄になってしまった狂人の行動に巻き込まれるかもしれない。過った国の統制に搾り取られて干からびるかもしれない。
現実にもネット上にも、悪意や卑怯や傲慢が溢れていて逃げ場なんてない。誰も助けてくれない。
確かな情報とそうでない情報を区別できなくてはならない。優れた個人と愚かな個人を見極めなければならない。道路を走っている車が民家や歩道や店に突っ込んでくることを警戒しなければならない。夜道や暗がりを避け、すれ違う相手から荷物を遠ざけなければならない。事実とデータと有益な情報を自ら探して蓄えなければならない。
いまや格差社会から逃れる術はない。貧富は無論、コミュニケーション能力の格差、モチベーションの格差、知識の格差、文明の格差、容姿の格差、あらゆる分野に格差が生じる。この格差の溝は極めて深いものとなる、がしかしその先へいかなければ淘汰圧によりその人は滅びて永久に失われることになる。人々のアップデートが始まる。古い機能、悪い機能は一度抹消され、新しくて良い機能がその座に変わる。
老害を筆頭に"悪くて愚かな人たち"という淘汰圧は、人々へ[UPDATE or DIE]という選択肢を強要している。安全地帯は無い。
学ばなければいけない。成長しなければならない。それができないのならどのみち地獄めぐり、敗者と愚者と悪人に埋もれる人生なら死んだも同然である。