鳥無き里の蝙蝠☆改

独り言書いてまーす

【読書感想文】『コンセント/田口ランディ』読了

2016-01-26 03:16:57 | 感想文

田口ランディの小説で処女作。

彼女の作品を読んだのはこの『コンセント』が初めて。友人に勧められたのがきっかけ。

近年、若者の結婚離れやTV離れと同様に「活字離れ」も騒がれている。

本を読むと一言にいっても、漫画やラノベというパターンもある。確かに周りには本を読む習慣がない人はかなり多い、というか10人いても1人も読書する習慣を持っていない。

そんな世間なので、この『コンセント』を勧めてくれた友人は俺にとってかなり貴重で希少なのである。勧めてくれた本は白石一文の『僕のなかの壊れていない部分』とで2冊目。どちらも初めて聞く名前だった。友人曰く親の愛読書だったとか。読書家からすれば有名なのかもしれないが、俺は読書家というほど読んでいる小説の数は多くない。強いて言えば学問的な本ばかり購入して読んでいる。なので田口ランディも白石一文もその時まで全く知らない人物だった。


さて本題の感想。

第一印象は、とにもかくにもエロい。良作を探す際にアテにしているとあるブログの主も歴代トップクラスにエロいと評している。男性作家による性的なシーンも確かにドキドキするが、『コンセント』のエロさははっきり言って別格。女性作家が描いているからだろうか、という推察が最初に浮かんだがきっとそれだけではないのだろう。今のところ女性作家による小説を読んだのは人生でこれが初めてなので今後女性作家の小説を読んでいくうえではっきりするだろう。もう一つ思うのは、美少女アニメを作るのは大概男性であって、男性である俺からすると、スタイル抜群超美顔で運動神経も人当たりもよくユーモアに富んだ美少女アニメの美少女キャラクターが赤面したり胸を揺らしたりパンチラするのは欲情のトリガーになるのはそれが架空の存在であろうとも当然なのだが、はっきり言って「リアリティがない」。田口ランディのように実在する女性が作品の中で女性主人公が自身の欲求を表現するというのは美少女アニメの対極の存在といっても過言ではない。男性作家がいくら女性の性の実態を語ろうとも、俺からすればもとい男性からすれば確証バイアスに翻弄されているふうにしか思わない、てか思えない。

エロスだけが、この作品の良さを支えているかと思えばそんなことはない。実際のところ『コンセント』や『アンテナ』の官能小説顔負けの超ド級なエロさをまずリスペクトする読者は少なくないとは思う。不本意ながら前人にならったということになるのか。

エロさについては置いておくとして。一応本作のジャンルは「性的オカルト」らしい。字面的には、官能とオカルトのハイブリッドという感じだが、今しがた読み終えた俺からすれば人間の性(さが)の深い部分というか核について語るうえで、性的な描写またはセックスを抜きに語るのは難しいと思うので本質的にはオカルトであり、性的という呼称は不要だと思う。人間に限らず生命の営みは快と苦によって翻弄される宿命なのは自明なことだからだ。つまり、性的な描写は必然的に為されているのではないだろうか、と俺は思うのだ。美醜効果を目的としたとはどうしても思いたくない、というのが正直なところだ。なぜかといえば、本作に出てくる精神世界の描写、いわゆるオカルトチックあるいはスピリチュアルなお話は、そうしたものに今まで全く興味のなかった俺に新たな視点を与えてくれたからだ。オーラだとか幽体だとか魂だとかという単語を妄言や狂言の一括りにしていたが、人間の精神の限界・科学や論理の限界について最近考えることが多い俺からすれば、科学が発展した末にはいつか訪れるかもしれない「情報や記憶だけでなく人の魂や意志が光や音の粒子だったり波長となって巡るような世界」への好奇心をより一層強めてくれた。肉体という器から抜け出す時が、死が先か、科学が先かといった感じだろうか。

これまでにそういったオカルトチックなお話を一度も聞いてこなかったわけではない。肝試しスポットにまつわるエピソードはどのコミュニティでも一定以上共有されているし、そうしたTV番組も昔は今以上に放送されている。不思議なことに、なぜ今回『コンセント』を読むことであたかも目が覚めたかのようにそのジャンルに興味を抱いたのかは謎である。残留思念だとか幽霊だとかポルターガイストだとかは一切信じず理詰めが好きな俺である。特異能力あるいは超能力を持った平均的な人間の、ある意味での上位互換的存在だからこそ持ち得る価値観からしたら量産型の俺が抱くような幸福とは全く別次元の"先"を見据えていることだろう。俺はそれが気になっているのだと思う。最大多数の最大幸福だとか子孫の繁栄だとか平和だとか子沢山だとか幸せな家庭だとか、そういう平均的な良い悪いの基準を超えるどころか異次元のなかにユキ(主人公)のような彼らは存在していて、それはもはや知性や科学で推し量れるものではなかったりして、だからこそのオカルトであり精神病の類だったり異常とされる所以なのであろうけども、つまりはそういう世界観が俺にとって盲点だったということだ。

オカルトと呼ばれるのは、常人と呼ばれる人間には理解できないものを理解しているから。天才が変態と紙一重なのと同じような理由である。

誤解しないでほしいが、俺はオカルトな世界を肯定しようとしているわけではない。しかし全否定するわけでもない。娯楽の類だとか変人という言葉で片付けるのはちょっとつまらないのかもしれないと思い始めたのだ。

「母なる海に帰る」という言葉からは、死に対してポジティヴに向き合っている人を連想する。物語終盤に出てくる「世界と私は一つ」という台詞は近いことを意味していると思う。奇才が描いた漫画『ホムンクルス』の終盤でも、「俺はお前だったんだ」つまり主人公も登場人物Aもその他の人類全ても"おなじ"だったと言うようなシーンがある。そして我らが女神(!!?)宇多田ヒカルも『点 - ten-』にて自分という存在の内と外の境界線を消すことを「窓を開ける」という言葉で表現している。彼女曰く、「ニュートラルな存在でありたい。なんでもないと同時に全てでありたい。すでに自分はこの世界の一部なのだから、万物と共感、融合することは決して自己の喪失ではない」俺のような若輩にはまだまだ解釈が難しくて全く理解に至らないところなのだけれども、田口ランディ・山本英夫・宇多田ヒカル、彼らが言わんとすることには共通するものがあるように思う。


ミステリー小説、恋愛小説、推理小説なら普段から読むが、今回の(一応そうジャンル付けされているので)オカルト小説は初体験。ジャンルなんてどうだっていいんだけどね。最初は主人公が体験する不思議な感覚を追うという過程はミステリーや推理小説の謎解きと似ていると感じたが、読み終えてみたらいやはやそんなことはない。謎への興味の種類が違うと言えばいいのかな。感動をグラフにできるとして『コンセント』は不思議な曲線を描いていると思う。終盤のどんでん返しが売りの作品ならば必然興奮の度合いは尻上がりなのだろうが本作は違う。山場なんてあったのだろうか、というのが本音だ。欲情の度合いをグラフにされたらそりゃもう性的な描写をされるたびに天井突き破ってるわけだが。そうじゃなくて全体を通して。

個人的には、心理学に触れている部分が地味に嬉しかった。支配と被支配の関係について語る部分とカウンセリングについても勉強になった。

間違いなく生と死に向き合っている作品なのだが、"生よりも死"という概念のほうが際立つのは、どちらも現象であるが、我々は前者に対してそういう見方に慣れていないからだろうかと思った。生きているという状態に対して人々はそれを現象としてカウントしていないからだろう。しかしひとたび死んでいる状態を目にすれば、二度と動かない表情や眼球や唇や手足から生前していた動きをいろんな風景とともに想起する。思い出せる記憶の数だけ生をカウントする。俺は他人の死後をよく想像する。今視界に写っている君やお前がこの風景の中に二度と現れない未来は必ず訪れる。その時俺はどう感じるのだろう。心はどうなっているのだろう。悔やみきれない思いは提出期限を過ぎた宿題と同じで、今しなければいけないこと、あの人やこの人にしてあげるべきことをせずにしている自分を未来の自分が憎む時が来るのではないか、そういうことは数え切れないほど多くあるのではないかと、よく自戒に至る。生死への関心が強いのは蠍座の宿命だろうかとつくづく思う。星座占いを信じるなんてアホらしいと思うけど。因みに相手の性格からその人の星座を当てることに成功できれば俺は星座の性格占いを信じると思う(笑)。

『コンセント』は生と死の物語。最愛の人が自分のために愛のために死ぬなんて…ぐすんナミダみたいなドワナクローズマーイズ的作品とは異なる。謎解きや駆け引きやエキサイトな作品とも違う。世にも奇妙な物語とも違う。未来少年コナンともフランダースの犬とも違う。なんていうんだろう??借り物の言葉で言えば「強烈なオカルト」で「ロジックのある狂気ではなく、感性をベースにした狂気」。愛読しているブログでは「ぜひともこの作品でトリップしていただきたい」ともある。なるほど!

確かにトリップしていた。疑う人がいるならちょっと画面をスクロールして上のほうの文章を読んでみれば一目瞭然じゃないか!笑

俺ってば科学や知性の限界だとかほざいてやがるぜ!つまりはそういうことなんだ。感性をベースにした狂気によって生身の感覚のほうが侵されてしまって理性に違和感をもってしまった!理性によってこの作品の形を見定めようとしてもうまくいかないのはそういうことなんじゃないの?!(誰に向かって言ってるんだろう笑



よし。

トリップ小説(毒強め)と命名しよう(!?)




てな感じですかね!

あー疲れた。久々にがっつり書いたぁ。

今まで一度も文章書いてても何文字書いてるんだろうとか気にしたことなんてなかったけど・・・

4000字書いてんだねw多いのか少ないのか知らんけどw

おーわり^q^
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【読書感想文】『僕のなかの壊れていない部分』読了

2016-01-18 22:43:16 | 感想文
僕の中の壊れていない部分 読了

主人公と親しい雷太が、靖国を参拝した宇田川首相を刺した場面で浮かんだ疑問がある。

「テロについて」だ。

雷太曰く「首相が死んだところでこの国は変わらない」。結果的には株式市場で日本株が底知らずに下落したりと、色々起きているのだが、それも一過性に過ぎずその他諸々含めても一国の変化の節目になり得ないことは確かに雷太の言う通りである。

雷太の犯行動機は、「靖国参拝イコール戦争肯定、首相が靖国へ行くことは何があっても許せない」とのことだが、取り調べの際の供述は視聴者に確かな影響を与える筈だ。

歴史に名を連ねる悪名高き犯罪者達の中には、テロ意識を持って大量殺人を行う者が少なくない。テロリズムの根底にあるのは、新世界創造への期待、「お前らには任せておけない。お前らの管理、統率はこの俺様が仕切るべきだ」というような、つまりは革命願望である。

カッターナイフでもバターナイフでも、自作の爆弾でもなんでも、凶器と狂気を手にすれば、たった一人の人間が何千万以上の人々に強い影響を与えることができる。

倫理的にも法律的にも決して正しくはない方法で行われた首相殺害事件だが、これを機に改められた意識(テロ対策だったり危機管理など)や社会構造が後の社会で見直すべき改善点の多くを大衆の眼前に引きずり出すことに成功しちゃったりして結果的に良い影響をもたらすことになったとしたら?

1人のテロリストは、インフルエンザの予防接種が「一時的な感染を経て耐性をつける」ような役割を果たしていると、言えなくもないだろうか。

テロ行為を肯定する、またはテロリズムの芽をせっせと育てるような真似をするつもりはさらさらない。しかし、雷太のような人間が奇しくも課せられた使命感の出自は、大衆の怠慢にこそあると言っても過言ではないと思わずにはいられないのもまた事実かと。

閑話休題。

本書の感想。著者である白石一文の著書の多くには、解説文によれば「生きるということの本当の意味みたいなものに対して懐疑的である」というテーマが存在していると言う。

「真の幸福とは…」と主人公が語っている場面がある。個人的に俺は、生死への哲学的な興味を厨二病真っ盛りな時ほどは持っていない。宇多田ヒカルの「桜流し」の歌を聞いたことによって、大切なものが何かについて、そしてそれに対してどういう考え方であるべきかはもう殆ど完熟してしまったようなものだからだ。それに加えてすっかりダーウィニズムの虜になってしまったこともある。

なので主人公あるいは白石一文が読者に伝えたいメッセージを聞き入れることはできていないと思う。

この本は知人の勧めがきっかけで読み始めた。勧められた際に期待していたのは「主人公の異常人格ぶりと絵里子の異常人格ぶりと、気持ちの良くない終わり方」だった。しかし、率直な感想としてはそのどれもが期待外れだった。その点は残念だったが、全体を通して村上春樹の本と雰囲気が似ているので好感が持てた。

酩酊した主人公が夜中に絵里子の家を訪れて場面。彼女は玄関を開けてしなだれかかってきた主人公を何も言わずに介抱し、ベッドのうえで目が覚めた主人公がおもむろにキスをし、さらにそのまま舌を入れようとするのだが、彼女は「まだお酒くさいよ」と微笑しながらそっと拒む。はぁ…。なんなんですかねぇ。普通なら「酒臭っ!やめろ!」ぐらい言われてもおかしくないんじゃないんですか?そんな聖母みたいな女性いるんですか?普通に羨ましかったです。

三股することや、両親への考え方や、絵里子への態度、それらを異常とは思わないし否定する気はない。十人十色だから否定しないという意味ではなく、少数派というだけで社会的弱者だったり異常者の括りになるのが気に入らないから否定しないだけ。兎にも角にも主人公にあまり共感できる部分がなかったのは俺がまだまだ子供だからだろうか…。

そんな感じですかね。
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