きっと心の底から同胞を救いたいと思えば、とても大きな力を伴って事を成し遂げられそうな個人は沢山いる。けれど、我々大多数の庶民は、彼らから見て「救ってあげたい」と思われるに値する存在だろうか。答えはNoなのだろう。
水は低きを流れ、人の心もまた低きを流れる。善悪を問わず力を持つ者によって扇動され、利用される。自分たちだけ得をしようという者のほうが動機無き英雄よりも遥かに意志を固く持ち、実行力に優れている。
救世主の気を引きたいのであれば、弱者である大多数は自らを厳格に律さなければならない。そして苦しくてもそれを諦めず何度転んでも立ち上がり歯を食いしばって戦わなければならない。彼らはそうすることでやっとこちらに気付いてくれるかもしれない。
搾取され、利用され、踏みにじられる側であった我々は隣人との絆を見直し、強めて、遥か昔の村落のような繋がりによって強固な監視社会を築き、侵略せんとする者の脅威から家族や友を守らなければならない。個人が悪事を働かないのは、小さな集団であればすぐに露見しては叱りを受け、最悪の場合は排斥されるからだ。集団の規模が極大化した令和においては、露見が敵わず、しても逃亡が可能だ。お人好しや弱者を騙しては浮浪するほうがゲームとして合理的なのだ。
だが、こと日本という島国において、海の向こうから悪意ある余所者が先住民を蹂躙してのさばるようなら話は別だ。奈良の鹿が意図的に攻撃された時、その場にいた殆どの日本人全員が結束して当人の行為を防ぐなり団結して警察へ届け出るなりすれば良いのだ。たった1人の勇者だけでは名前と顔を覚えられて報復を受けることになってしまうが、その場にいた大勢であれば悪党は標的を定められない。集団リンチせよなどと言っているわけでは決してない。たった1人の勇者に全てを負わせるべきではないということ。
令和においてそうした結束力が今の日本人達の中にはどうしても湧いてこないのだろう。根本にあっても今一歩が踏み出せない。あれほど同調圧力に弱い人種だというのに全くもって嘆かわしい。
外国人や難民に対し排他的で攻撃的なわけがない日本人。我々が極めて遺憾なのは、日本人の殆どが息をするように守っている暗黙の規律を尊重してもらえていないことだ。
観光するもよし、住むもよし、働くもよし。同僚なら絆を深めて持ちつ持たれつの関係になるだろう。隣人なら笑顔で挨拶をするだろう。日本に限った話ではない。
自動販売機が壊されない日本の性善説を愛している。ひとたび崩壊したらばその復興と人類絶滅はどちらが早いだろうか。
日本国民の大多数である弱者や庶民は試されている。日本という国の価値を改めて知らなくてはならないし、日本という国を護るために必要な方策を見つけるためにそうしたことへ無関心だったことによるツケを払わなければならない。
文明や技術や事業は強かった。しかし教育や社会制度をあまりにも蔑ろにしてしまった。愚民政策による被害者だといえばその通りかもしれないが、今の時代では甘えることはできない。泣き言を言ってももう選択肢はない。ファイトオアフライト。比較的安心できる国へ移住するか、知識を身に付け力を蓄え団結して戦うか。その二択。
奮起する国民が増えれば、力ある者の動機もえられるかもしれない。勇ましくて思いやりに溢れ誇り高い日本が再びその姿を表してくれるかもしれない。