鳥無き里の蝙蝠☆改

独り言書いてまーす

【考察】気分+状況=心理状態 〜アメニモマケズ〜

2016-12-24 04:51:11 | 考察

気まぐれ。人の思いというものは、常にままならないものである。

高揚の時は万能感を得てなにをするにもやる気に満ち溢れることがあれば、気分が落ち込んでいる時には些細なことにも消極的になる。

上機嫌な時に選んだことを、不機嫌な時に後悔するというのはよくあること。然るに、元気な時に選んだことを、疲れている時に後悔する。

朝と昼と夜と、晴天と雨天と、夏と冬と、明るみと暗闇と、高いところと低いところと、広いところと狭いところと、静かなところと騒がしいところと、etc。男性であれば思春期と射精。女性であれば生理と出産。

楽しみな未来を想像してわくわくしている時、不安な未来を警戒して張り詰めている時。問題に立ち向かおうとしている時、障害を乗り越えて解放感で満たされている時。

十人十色千差万別複雑多様極まりなく数え切れない要素達の作用によって人の気持ちは常に動いている。

Q.「いつどこでの自分の意志(選択)を尊重するべきか?」という問いについていつも考えていた。
A.「そもそも問い方が間違っている」これが先ほど至った結論である。

強い意志と信念によって選ばれた決定は、"気分にも状況にも"覆されることはないはずである。もしくはそうあるべきである。なぜなら、冒頭から述べているように人の気分というのは実に浮ついたもので、何かと目先の利害に振り回されてしまうものだからである。本能をアテにしてはならない、というのは過去の記事でもくどいほど書いてきたことである。

"いつどこで"という基準が正しくない理由は、その状況と場所と気分と時期という4つの要素を前提にして決まってしまうからである。例えば、夏の晴天のとある休日の朝に気持ちの良い目覚めと健康とそこそこのお金さえあれば、誰でも多少のリスクを恐れずにいろんなことに挑戦しようと思えるだろう。ちょうど年明け頃に全く達成されない抱負をいくつも設けるのと同じように。何かに挑戦しようと思えるような"とても良い状態"というのが1年のうちに何度かは訪れることだろう。そんなスーパーコンディションの日には、確かにやる気に満ち溢れて有意義な時間を過ごせるかもしれないが、人生とは苦あれば楽あり禍福は糾える縄の如しで良い状態ばかりなわけがない。

不安に押しつぶされそうな日も、仕事や約束に忙殺されてしまう日も、雨で寒い夜に転んで泥だらけになる日も、普段なら許せる親友のジョークが彼女と喧嘩した後では関係に亀裂が入ることになる日もある。

前置きがむやみやたらに長くなるのはこのブログではご愛嬌。おかげで読者ゼロ。

つまりどうすれば良いかといえば、「アメニモマケズ」である。雨だろうと眠かろうと苦しかろうと疲れていようと、一度決めたことはやり通す。やり終えれば次に行ける。やり終えれば「やらなかった後悔」をせずに済む。

思い立った時に〇〇しておけば今頃・・・。弦楽器や鍵盤の練習にもっと集中して取り組んでいれば動画投稿してそこそこの再生数を稼げるようになったり自分にしかできないアレンジだったりをしてたかもしれない。プログラミングの勉強をしていれば、英語の勉強をしていれば、絵の練習をしていれば、スポーツの練習をしていれば、etc。たった今この瞬間からそれらをしない限り、「〇〇していれば」という思考の先には絶対に進めない。常にその言葉を脳内で繰り返し再生するだけである。

なんとつまらないことか。悲しいことに自分に対する罪悪感と情けなさが自分を余計に憂鬱にさせる。良いこと無し。

俺はずっと「自分に必要なアイテムのようなものがあるはずだ」とばかり思っていた。義足のように足りないところに足すべき何かがあるんじゃないかと。しかしそうじゃなかった。強い意志という最初から自分の中にあった無限の可能性をもつツールの起動スイッチを押すだけでよかった。

本当にバカだよね。できている人にとっては空気や水の存在よりも当たり前なことなのにこんなに字数を費やさなければ確かめられないことだったなんて。

おわりっ





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【考察】明日の世界の解像度

2016-12-18 03:11:52 | 考察

ゲーム内のキャラの装備をいくら充実させたところで。

一日中レベル上げに徹したところで。


翌日に見る世界は変わらない。膨大な時間と労力をつぎ込んだところで、通勤路は変わらないし、人との会話も変わらないし、話す話題が増えるわけでもない。(極端に言えば、同じ畑の人間同士間では増える)

レアアイテムを探し続けるゲームや、育成型のゲームには総じて「作業」が多い。こうしたTVゲームに限らず、いつもと同じ相手とばかり交際を重ねているときでも似たような状況に陥る。なぜなら話題が増えないから。(もちろん全くというわけではないが)

個人的には、知人との笑談というのは蓄積していたネタを使うという意味で「消費」に該当する。そこで新しい何かが生まれる可能性が無いわけではないが低い印象がある。とはいえ気の知れた仲間と食事をしながら楽しむ会話に全く意味がないと言いたいわけではない。そこでのひと笑いが他の人との会話で活きることもあるし、感性への刺激にもなるし。

何が言いたいかといえば、「広がり」を求める活動としては非効率な部類であって、他にコスパの良いものがあると思うのだ。


といったようなことを最近ずっと考えていた。

というのもなぜかといえば、自分が日々していることの不毛さに強い葛藤を感じていたからである。ネットサーフィンや動画鑑賞やスマホアプリやTVゲームなどといった、頭脳的にも肉体的にも労力を必要とせずに娯楽として心身を癒してくれる部類のそれらはもはや生活の一部となっていて、しかし一方で生産性のある活動かといえば愚問だということが明白なのだ。それらが1年後5年後10年後の俺にとって価値のあるものなのか。

「何かの役に立つ」とか「幸せ」を定義する必要性が生じてくるのでそのあたりが極めて複雑で深刻なのだが、それらについては省く。

俺が今回言いたいのは、「広がり」を生む活動というのは突き詰めていくと結局は「知識」であるというのが結論である。そしてそれを保証するのが「好奇心」である。

知りたいと思うためには前提知識が必要である。好奇心というのは既知という球状に接する空白の「未知」な部分との接触面で発生する。つまりその球自体が小さければ小さいほど好奇心は生まれにくいものとなる。然るに、その球が大きいほど好奇心は生まれやすくなる。

それがどうしたかといえば、「広がり」を求めるのであれば前提知識を増やすことが近道なのだということを言いたいのだ。最もその効果を感じやすいもので身近なものは「語学」だと睨んでいる。

第一言語の日本語のみの場合は、翻訳済みの言葉や文章でしか英語で構成された情報を受信できない。そこで英語を学んでいた場合は、英語で構成された世界を知ることができる。翻訳機械があれば敵うことかもしれないが、全ての情報が翻訳されているわけではないし、翻訳が可能なわけでもない。翻訳された本は高価だし、原本の意図を正確に伝え切れている保証は100%ではない。コミュニケーションツールとしての英語の特質を知るには英語を学ぶしかないし、外国人とのコミュニケーションをとることで感じられる文化の違いだったり新たな刺激はやはり英語を話すことでしか得られない。

科学の場合は、日々口に入れるものや、目に映った木々や葉っぱや虫、毎日の天候、窓ガラスの結露、電子機器の物理的トラブル、etc...に対する見え方や解釈が知識量に比例してその姿を多様化させていくことだろう。応用が効くほど知識が豊富であれば他愛のない日常でも隣の人の役にたったりすることもあるかもしれない。

数学の場合であれば、物事の変化をグラフに変換して数値の推移から洞察を深めたり、歩数歩幅・道路の白線などと時間の関係から効率向上や時短に貢献できるかもしれない。

文学の場合であれば、見聞きする言葉から感じるものが人とはひとつもふたつも変わってくるかもしれない。勿論自分が発する言葉にもその知識が活きることには疑いがない。


学問に限らず、兎角知識を増やすメリットは計り知れない。しかし、だからといって「広がり」の生まれにくい活動を悪役と決めつけたいわけではないことは先述したとおりである。なので次は、「広がり」のほとんど対極に位置する活動について書いていく。

その多くは、「趣味」である。例えばバイク。バイクという趣味は、車やバイクに興味がない者や知識のない者にとっては全く分からない世界の代物である。バイクに限らないのだが。なぜバイクを例に挙げたかといえば、バイクの世界に対する知識をいくら深めたところで、バイク以外のジャンルへの広がりがほぼ皆無だからである。せいぜい同ジャンルの車ぐらいか。結局のところ、「広がり」の対極に位置している理由はそれでしかないのだ。バイク以外の世界には広がらないジャンル。バイクに限らず、TVゲームやスマホアプリなんかもその筆頭である。

「改造を極めすぎて革新的な燃焼システムを発明してしまった」とか「ゲームが好きすぎて自分でメガヒットするゲームを作れちゃった」とかまでいけば話は別だが、そんなのは本当に超少数派だろう。しかしそういった意味では水平方向への拡大が全くないわけでもない。ゲームの基本構造はプログラミングだし、車やバイクの整備改造をするには多少の力学や化学の知識は必要だからだ。

前置きが長くなったが、では「趣味に没頭する」ことのメリットというか意義はなんなのかという話について。それは「楽しい」という感性に還元されることである。人間はつまるところこの「楽しい」を求めて活動するのである。それを「快感」と呼んでもほとんど問題無い。

お金をたくさん所持すること自体に安心や優越という「気持ちよさ」「嬉しさ」「楽しさ」を持つ人もいるもしれないが、大多数は旅行だったり高価な買い物だったり豪遊だったりで大金を「楽しさに"還元"する」だろう。

高価なブランド品を身につけること自体に価値があるのではなく、身につけることによって生じる優越感だったり、身につけていることによって示される社会的地位だったりといったような物体に還元できないものに人は気持ちよさを感じていると言える。とにもかくにも物体は副産物であり、肝心なのは「楽しい」や「気持ちいい」といった感性なのである。バイクでとにかくかっ飛ばしたい人にとってはメーカーで選ぶ必要は皆無だ。


長くなったが、じゃあ俺氏はこれから主にどういう過ごし方をするの?と疑問に思う人が0人ぐらいはいると思うのでお答えしようと思う。

まあぶっちゃけ相も変わらず体たらくで楽な方へ楽な方へと流れて目先の利害に迷いまくることこの上無いのだが・・・とはいえ「明日の目に映る世界の解像度が少しでも増えるためにできること」をなるべく優先したい。これは割と常日頃から思っているので、つまり明日見える景色が一ミリも変わらないような活動は減らしていこうと思っている所存でありまする。

おーわりっ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【宇多田ヒカル】30代はほどほどに。【視聴感想文】

2016-12-16 13:54:44 | 宇多田ヒカル

くぅぅぅ〜〜〜〜っっ!よかった!!!!

久しく聴いてなかった「KISS & CRY」だったり「FOR YOU」だったりのRemixも凄く良かった。DJという存在への好感が強まった。


まず第一印象から。

ヒッキー緊張しとるかな?

NEWS ZERO出演時の肌の衰えはどこへやら。まあそもそもあの時のスタジオは明るすぎっていうのもあるかもねw相変わらずお綺麗だった!そんなんどうでもいいけどwとはいえ髪型ひとつでここまでかわるもんなんだねえ。長くファンやってると、くどいようだけど気にならなくなるから全然どうも思わないんだけどw


久々のTV出演の時はかなり強張っていたけど、今回はそんなことなくて良かった。もっとほぐれてる時の状態が見れたらなと思うwそれこそKUMA POWER HOURの時みたいなw

最後に流れた「光」の最新Remixにしても、この企画自体も、思い返してみるととても感慨深い。宇多田ヒカルという概念(www)が今に至るまで(当然ながら)息をしていて、そして「光」という曲自体もRemixされまくってもう何度目になるんだっwって感じだし、20代はイケイケから10年経ってるわけだし。

とにもかくにもその時の流れというものを感じながら「光」を聴いていたら泣きそうになったゾ、とw


自分の生まれた時代に宇多田ヒカルがいてくれて本当に良かったと思う。

おわりっ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする