鳥無き里の蝙蝠☆改

独り言書いてまーす

【考察】人生にとってのTVゲームとBLACK WORKER

2017-02-13 00:24:43 | 考察

というのは、まあ趣味がゲームの人の人生について、という意味のテーマですかねざっくり言えば。

1/19の『GRAVITY DAZE 2』発売日からつい先々日あたりまでまあほとんど時間の許す限りプレイしてきたわけですが、それが自分の人生にとってどんなプラスをもたらしたかというと、殆どゼロどころかマイナスになるんじゃないかというレベルでして。とはいえ、過去の記事を見ればわかる通り楽しくプレイしたのでそれでしかないわけですが、本体価格¥6000という金銭と90時間というプレイ時間は明らかに消費しているわけですよ。ゲームやりすぎで腰も痛くなったし、目も疲れやすくなった気がするし。

はてさて。その90時間と¥6000を別のことに費やしていたらー…。

¥6000あれば少なくとも6回は親しい知人と食事会に行けたでしょう。90時間あれば難しい本でも2冊は読めたでしょう。映画ならもっと観れたでしょう。アニメでもいいしTVドラマでもいいし。今まではそういったことを考えずに新しいゲームを買ってプレイしてきたわけですが、その都度満たされたことを除いて他に一体なにが得られているのでしょうか。厳密に言えば、知人との食事会にも同じことが言えるわけですが。

こうしたものを金銭が伴うかどうかを問わず買い物と呼びましょう。90時間+¥6000を支払って断続的な快楽を得ました。それが今後の俺の人生で何か得につながるかといったら答えは限りなくNOです。将来ゲーム開発をするとか、ゲーム考察の記事がアクセスを稼ぐとかそういう土台を持っている人ならまだしも、全くそんなことはないのですよ。『GRAVITY DAZE 2』愛好家の集いで人脈作りのきっかけを得るとかそういう超ローカルなところから利益を得られるわけでもないですし。

こんなことを言うと「考えすぎ」と言われるのが関の山、というかもう既に周りから散々言われてますが。果たして実りのある活動あるいは行為というのはなんなんでしょう。常にこうした年収の増加に貢献できることかどうかで物事を分け始めたら、人生というのはそれはそれはつまらないものになるのでしょう。週一で通うスポーツグループの会だったり、定期的に食事会をする知人との時間だったり、それらは短期的にその人の精神衛生面を良いものにしているという意味で価値のあるものかもしれません。しかし、¥6000のゲームを90時間プレイするのとなんら大差ないという事実は揺るぎません。

このように、無駄か否かで分けたら"衣食住のために行わなければならないこと"即ち仕事以外は無駄となります。はっきり言ってキリがありません。朝起きて仕事をして夕方に帰ってきて風呂に入って晩御飯を食べてさっさと寝る。生物としてはこれで十二分に幸せなはずです。よほど不健康な労働環境でもない限りは食事管理と十分な睡眠があれば大きな病気にはならないでしょう。事故に見舞われる可能性はありますが、よほど悲惨なものでなく且つ豪遊していなければ十分な貯金でなんとかなるはずです。

なにがいけないかといえば、不摂生・睡眠不足・運動不足・ギャンブル・喫煙・スマホ依存・夜更かしなどなど。要は「行き過ぎな快楽」ということです。明らかに不健康なジャンクフードや味付けの濃いものを食べながら運動不足の日々を過ごしているのにどうして健康体のつもりでいるのか、逆に不思議に思います。

自身の収入への不満と勤めている会社への不満をごっちゃにしている者がするべきことは仲間を集ってのストライキ(日本だとほぼ無い)か、或いは普通に考えて貯金→技能習得→転職という方法であり、その場限りの快楽に身をまかせることでは無いはずです。というのも、個人的な見解では、日本における"快楽水準"が所得の少なさに関わらず平均水準が高いだからだと感じる。低所得層なのに無理をして高級車(お金のかかる車・維持費のかかる燃費の悪い旧車など)を所有したり、身の丈にあっていないブランド物を買い集めたり、スマホゲームに万単位の課金をしたり。それらは本来所得の数パーセントでするべき買い物であって、低所得層にとっての数十パーセントでするべき買い物ではないはずであると考える。

今時の低所得層の人は、沢山働かなければいけないので時間がありません。快楽に費やすお金が多いのでお金がありません。お金も時間もないので自分の体を労わる余裕もありません。つまり忙しくて不健康な貧乏人なのです。なのに娯楽だけは立派なのです。バス通勤で済むところを維持費の高い車で通い、体調を崩して休日を棒に振るほどのお酒を呑んで、空いてる隙間時間と貴重な睡眠時間をスマホゲームに費やす。そんなことをしているくせに社会や政治に不満を言うのははっきり言ってただの我儘としか思えない。自業自得もいいところである。ブラック会社は現代の流行語だが、あれはあれで奴隷救済システムと言っても過言では無い気もする。個人の生産力の平均が、その国の発展に比例して上がるのは先進国なら然るべき現象であり、その上昇に置いていかれるものが淘汰されるのは当然といえば当然なのだ。低所得層の我儘層が悲惨な処遇を受けても文句は言えない。なぜなら這い上がる方法が無料で手に入り、選ぶか選ばないかは自由だからだ。

幸せというものの定義は個人にとって千差万別。一つの言葉で言い表すことはできなくとも、その必要条件ならある程度はっきりしている。健康と時間は絶対条件です。愛する家族や気楽に過ごせる友人との時間。そして健やかな心身。そのためには、処遇の悪い労働環境からは抜け出すのが最善の方法です。貯金はその第一歩。まずは技能なり知識を得るためのお金を蓄えること。そのためには長期的な利益を見込めない超々短期的な娯楽への消費を一切無くすこと。幸せのための必要条件の一つは富です。お金があれば叶うことははっきり言って多い。というのも、お金がないからできない=諦めていることが多いからです。「広い部屋に住みたい」「自分の大切な車を納められるガレージが欲しい」「自分でグランドピアノを所有したい」言い出したらキリがありません。その程度であれば多少の貯金を数年続ければ叶うかもしれませんが、その貯金を、他でもない「お金を生み出せる自分の肉体」に投資したら効率的にそれらの夢を叶えることができる。

と、ここで「あれ?またなんか自己啓発的な記事になりかけてんじゃん!」と気付いたので路線修正。そんなことはみんなわかっている。ぶっちゃけ口で言うほど簡単ではない。なぜなら先述した超々短期的な娯楽への消費を無くすことこれこそが最大の難関だからである。

とある人も言っていたことなのだが、「生活レベルを下げれた人を見たことが無い」。極端な話、独り身がリストラからのホームレスという流れ以外にはほぼ全ての人が生活レベルを下げることに多大な抵抗を感じてそれに耐えることができないだろうと思う。自ら揚げ足をとるなら、ホームレスになってしまった人がまるでストレスなしに生活レベルを最低まで下げたような言い方をしているがそんなことを言いたいわけではない。

結局はそこなのだ。人はフィードバックが身近であればあるほどそれを得ようとする。TVゲームなんていうのはまさにその最たるものである。モンスターを倒してレベルアップする。その間わずか数秒である。これが語学学習となると、成果が収入に結びつくまでの時間はTVゲームの何万倍以上になる。不摂生を改善するときも同じである。健康であることを自覚するのは快楽ではないからだ。老いたり五感のどこかを日常に支障をきたすほど悪くして初めて健康の価値を知るのが若さであり、脳の構造的にも快楽を生むシステムは備わっていないはずだと憶測する。

目の前にあるチョコレートやアルコールやタバコを我慢できないのも同じ原理である。遠い未来の損よりも、手に届く快楽を求める。知り合いの中で流行っているゲームでいち早くハイスコアを出そうとするのも同じである。同僚たちとの会話で盛り上がりそうなネタに対して感度が良くなるのも同じである。関わる頻度の高い相手が価値が高いと感じるものを、自分も価値が高いと感じるようになるのも同じである。1日の中で赤い人と青い人とそれぞれ同じ時間を過ごしたらその日の自分は紫色ということである。赤い人との時間が増えれば赤みが増し、以降その人と会わなければピンクになってやがて透明という自分色に戻る。

会社と友人間と家庭というのが、多くの人にとっての「身を置いている環境」だと言える。その人の価値観はおおよそがそれらを含む円によって定められている。会社で流行っていること、同僚との会話の中で話題性の高いこと、友人間で流行っていること、家庭内で以下同文。それらがどうしたかといえば、彼らはそれを疑うことなく自分の感性だとして正しいものだと感じている点について言及していきたい。果たして正しいだろうか?会社の同僚たちの間であったり、友人間であったり、流行っていようが話題性が高かろうがそれらへの関心やフィードバックは、自分の人生にとってプラスになるだろうか?答えはイエスとも言えるしノーとも言える。転職してしまえばそれらに費やした時間と労力は半分以上が無駄になる。友人間でも同じことが言える。似たような人を探せばいいのだが、よほど運が良ければ見つかるだろうがそうそううまくはいかない。同僚に勧められた娯楽あるいは趣味を始めてみたところで、その当人がいなくなってしまえば無価値と化す。自分一人で長く楽しめるのであればいいが、シェアを前提とした娯楽が多い昨今においてなかなかないよねそんなもの。要は、同僚間や友人間との娯楽や趣味に対してコストを費やすのは、日々の充実に貢献はしても将来の実りには貢献しないということを言いたいのだ。終身雇用であればいい。友人が末長く付合ってくれるのであればいい。しかしそんなことはない。会社がいつなくなるかわからないし、自分も友達もいつ転職や転勤をするかはわからない。結婚や育児だってある。消耗品と言ってしまえばそれまでだし、一期一会を重んじるというスタンスの人もいると思うが、脇目への誘惑に耐えて今しばらくを耐えてからでも遅くは無いはずだ。一年や二年程度であれば変わらずにいてくれる人もいるはずだ。その最たるものが大学や専門学校である。社会人になってからその工程を行うという話である。そしてその第一歩が、身近な快楽を断つという選択である。

ここまで長々と冗長気味にくどく綴ってきたが、なぜそこまで字数を費やすのか。その思いの強さはどこからくるのか。お答えしよう。他でもない「将来への不安」からである。

人生でかつてないほどの奮起がなければ、俺の人生きっとあがることのない年収でこのまま独り身で、相も変わらずスマホゲームやTVゲームをぽちぽちしていることは想像に難くない。パートナーなんてのは夢のまた夢。自分勝手になれるのであれば、この人生に付き合わせる相手も見つけられるが、そこまで無責任になれたらどんなに楽だろうか。はっきり言って相手とその両親がかわいそうだ。こちら側の両親には申し訳ないがこの遺伝子はここで朽ちていく運命だったと納得してもらうしかない。

そんな葛藤をしながら、話題の新作ゲームを90時間プレイしていたわけである。厳密に言えば現実逃避という一面も含まれるのだが。TVゲームに限らず、親孝行や人助け以外のことをしているときは常に頭にあることだ。「こんなことをしてる場合じゃないのに」という焦燥感を、19歳のときから今に至るまでずっと抱き続けている。解放されるときが全くないわけじゃない。自身の成長を感じるときや、勉強や訓練の最中は焦燥感を感じずにいられる。それもそのはず、焦燥感を拭うためにしているのだから。

しかし、言わずもがなで、そういった勉強や訓練をするという選択には強いストレスが伴う。得られる快楽や報酬は何年も先であり、目の前の手の届くところに「濃厚こってり豚骨ラーメン」や「友達がみんなやってる大人気のスマホアプリ」といったすぐに気持ち良くなれるものがいつでもそこにあるからだ。


結論は書くまでもなく、考えるまでもなくわかっている。

それは「強い意志」という一言である。それだけで全てが片付く。むしろそれ以外ではぜっっったいに片付けられない。目標が明確で、その報酬が大きいというのに達成できない原因は、いつだって「弱い意志」であり「強い意志の不在」である。

偉大な成果の「偉大さ」を保証しているのは、成果が強い意志を前提としているからである。掲げるだけの目標や、口先だけの思いに誠意や情熱なんてなにもない。

書けば書くほど蛇足が長くなるだけなので、今更な気もしますがこのへんで

おわりっ










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【ゲーム考察】#05 『GRAVITY DAZE 2』トロコン直前

2017-02-08 16:43:06 | ゲームデザインについて独り言

ぶっちゃけトロコンに興味ゼロ。

ストーリーミッション、サイドミッション、チャレンジミッション(all金)は全部終わった。デルブール採掘海溝も深度30までクリアしたし、キトゥンの能力もあと1つでカンスト。あとはチャレンジミッションの戦闘系でハイスコアを狙うことぐらいか。もちろんそれにはタリスマンの厳選作業も伴う。


サイドミッションもチャレンジミッションも謎の労力を強いるものが多くて疲れた。

・上層編にてキトゥンの追憶中に廊下の意味不明な行き来とパズル
・チラシ配りと影武者の判定の有無がまあわかりにくいったらありゃしない
・探し物系全般

これがやらなくてもいいものだったらいいんだけど、なかにはクリア報酬としてキトゥンの能力値上昇があるから困る。


とまあ、とりあえずここまでやったのである程度の文句を言える資格を得たかなと思い執筆。

デルヴール採掘海溝は難易度と報酬の価値が比例してて素直に楽しいと思った。採掘したいけど強敵がうじゃうじゃしてるから殲滅せざるをえないのもイイネ。俺ってばチャレンジミッションをほぼ無視してきたからデルブールはドレインなしでやったのよ。使ってみて感じたけど、「これあったらさぞかし楽だったろうな・・・」って。26~30がなんだかんだで一番楽だったかも。エリミネーターのとこは楽というよりも楽しかったし。今まで培ったものを全て要求される感じが熱かったね。

23~25あたりになると強力なタリスマンがざくざく手に入る。聞いたことのない名前の輝きを放つ原石も1つだけ手に入った。掘りまくって完全武装したキトゥンでチャレンジミッションのランカー達とどこまで競えるか楽しみだ。(やるかやらないかは別)


この類の記事で一貫して言っていることだが、やはり「もったいない」。テーマやストーリーやキャラクターが愛されているのはよぉくわかった。けどそれらの良し悪しもアクション性がある程度裏付けるものなんじゃないかなと思う。くどいようだが重力操作という唯一無二のアクションを制限したミッションは90%いらないと思う。パズルもいらんし影武者もバトルナースもいらない。俺からしてみればフォト勢が歓喜してる理由もよくわからん。キトゥンとクロウがキュートなのはよくわかるが、写真がどうしたって感じ。トレジャーハンティングとプレスジャムにしても、確かにプレイヤーを「散策」に誘導できているが、ある程度操作に慣れていればあとは作業になってるとも言える。

そんなとこかな〜

おわりっ


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【考察】農業という基礎的産業

2017-02-02 14:33:23 | 考察

ぱっと思いつきでの執筆なう。

自家用車のオイルとバッテリー交換の際、待ち時間の間近くにいたおじさんたちがしてた会話が「ミョウガについて」だった。内容はうろ覚えだが、要約するとこうだ。「ミョウガは生えている近くの農作物をダメにしてしまう恐れがあるが、雑草対策として用いることができる」。つまりミョウガは生命力が強く、植えたところはたちまちミョウガ畑と化してしまうほどなので、雑草を生やしておくぐらいなら茗荷畑としておいたほうが遥かに有意義だということだ。

それがどうしたかといえば、我が家の敷地内にも雑草ばかりで夏には蚊の住処となる場所が多数あり、そうしておくぐらいなら自分たちも茗荷を植えてわずかといえども料理やおかずの足しにするのも一考の余地ありだと思った。


産業の中でも農業というのは、誰に取っても身近であり、手頃な部類だと思う。事業の拡大に伴い大型農耕車両だったりビニールハウスだったり作物を保管しおく倉庫だったりが必要になってくるが、それでも工業や芸能界に比べれば庶民にとっても手軽だと言える。というのも、消費財として売り込む必要が必ずしもあるわけではなく、食費を浮かせたり、知人や親戚に配ったりといった「支出を減らす」という意味で得をする方法があるからだ。

それに、必要なのは日照と水、厳密に言えばプランターだったり肥料だったりもするが、それらには特別な機械だったり技能や知識が必要になることはないからだ。せいぜい中高で学ぶ科学の知識で済む程度で、あとはインターネットで不足分を補えば済む話である。農作物を管理する環境にしても、木材で枠組みを作ったり、大きめのビニールで超簡易ビニールハウスだったり…etc、それらでさえも現代ならホームセンターでほとんどのものが揃うしハンドサイズの加工機械ならレンタルだってできるから、素人でもどうにかなるのである。

そもそも土と水と太陽に依存した産業であり、そこから富や糧を得るというのは地球に生きる生物として超々初歩的あるいは基本的な営みであるということ。それと同時に、経営の基本でもある。

種(或いは苗)を植え、それを育てて成果物を買ってもらう。どれだけ得をするかは、イコールでどれだけ効率化できるかに比例する。それはどんなビジネスにも通じる。


とまあ、わざわざかきおこすほどでもないことを書きました。僕らはいつだって不労所得の臭いに敏感です。泥と汗にまみれる畑仕事に楽なイメージはありませんが、憂鬱でやりがいのない会社勤めよりかはよほど精神に負担のない世界だということはおそらくどの時代でもほとんど変わらないでしょう。

社会の歯車として主張や信念を曲げるのか、それともおじいさんおばあさんのように腰を曲げても笑って過ごすのか。



なにがいいたいのかわからずに終わろうかと思いますが、それもそのはず、だって思いつきで書いてるんですもの。

思いつきじゃなくてもまとまって終わることなんてあったのかって?だまらっしゃい!w

おーわりっ
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