wikiより引用
フラッシュバルブ記憶(英:Flashbulb memory )とは、個人的に重大な出来事や世界的な重大事件に関する非常に詳細な記憶を意味する。閃光記憶。「写真のフラッシュを炊いた時のように」鮮明な記憶。この用語は Brawn と Kulik の論文(1977年)で最初に使われたもので、強烈な感情を伴った記憶が時間が経った後でも鮮明に思い出せることを示した。例えば、多くの人々がアメリカ同時多発テロ事件やケネディ大統領暗殺事件、ジョン・レノン殺害などのニュースを聞いたときのことをよく覚えている。
そのように鮮明に思い出せる記憶であるが、フラッシュバルブ記憶が普通の記憶のように記憶され続けるわけではないことが、いくつかの研究により示唆された(例えば、Talarico, 2003)。一般にフラッシュバルブ記憶は通常の記憶よりも正確かつ鮮明に思い出せると考えられているが、その理由として、人々がそのような重大な出来事を話題にすることが多いために記憶が強化されていることが指摘されている。Neisser(1982年)によると、フラッシュバルブ記憶が長持ちする原因の1つとして、報道によって定期的に記憶が補強されることを挙げている。
記憶の劣化スピードにはバラツキが生じる。その原因の一つが、印象の度合い。
社会的にも世間的にも大きな出来事を、人々は長い間忘れることがない。出来事の印象の強さは、イコールでそれを会話の中で話題にする頻度に直結している。
印象の強さ=話題になる頻度=記憶の劣化スピードということになる。
エビングハウスの忘却曲線によれば、とある出来事を想起すればするほど記憶として定着するとのこと。
つまり、出来事が長期に渡って人々に記憶されるかどうかは、それが起こった時点では確定していないということだ。
同年代の人同士のうち世代ネタについていけない者がいたとしたら、その人の環境ではドラゴンボールネタで盛り上がる環境を得られなかっただけということだ。
人間の体は、必要なものと不要なものを速やかに判断しエネルギーを効率良く運用するようにできている。記憶も同様に、数日後も数ヶ月後にもアクセスのなかった記憶が不要とみなされてしまうのは当然のことである。現に我々は2日以上前の朝食の内容を思い出せないことが極めて多い。これに対し2日以上前でもディナーの内容を割と思い出せたりするのは、朝食ほどワンパターン化していないからである。
遅くなったが今回の記事の本題に入ろうと思う。
フラッシュバルブ記憶と呼ばれているが、蓋を開けてみれば名前がつくほどのものでもないような気がする、というのが本音である。
記憶が長期に渡って鮮明なまま保持されるのは、記憶の想起頻度が高いという条件が主に必要であり、出来事が大きいほどその条件を満たす可能性が高いだけ。いかに出来事自体が人類史にその名を刻もうが、何日間もニュースで取り沙汰されようが、それを一度見たきり想起する機会を得なければ当人にとっては一昨日の朝食と同じなのである。
このように誤解、あるいは錯覚してしまう認識ということは日常に本当によく溢れている。
今回、フラッシュバルブ記憶という名前の単語を知った際に思うところがあったので執筆した次第だ。
余談。誰とも共有していない自身だけの記憶と確証バイアスの組み合わせの堅強さを打ち破れる意志というのはなかなか稀有だと思う。
合理的な判断をするためには、精確な認識が欠かせない。しかし精確な認識ができたところで、目的が不明瞭では合理的な判断のしようもない。
友人との他愛のない食事会では、粗末な認識で、不合理な判断力で、目的のないなんとも危険な意志の疎通がされていると思うと、なかなか怖いことを平気でしてるんだなって実感する。
フラッシュバルブ記憶(英:Flashbulb memory )とは、個人的に重大な出来事や世界的な重大事件に関する非常に詳細な記憶を意味する。閃光記憶。「写真のフラッシュを炊いた時のように」鮮明な記憶。この用語は Brawn と Kulik の論文(1977年)で最初に使われたもので、強烈な感情を伴った記憶が時間が経った後でも鮮明に思い出せることを示した。例えば、多くの人々がアメリカ同時多発テロ事件やケネディ大統領暗殺事件、ジョン・レノン殺害などのニュースを聞いたときのことをよく覚えている。
そのように鮮明に思い出せる記憶であるが、フラッシュバルブ記憶が普通の記憶のように記憶され続けるわけではないことが、いくつかの研究により示唆された(例えば、Talarico, 2003)。一般にフラッシュバルブ記憶は通常の記憶よりも正確かつ鮮明に思い出せると考えられているが、その理由として、人々がそのような重大な出来事を話題にすることが多いために記憶が強化されていることが指摘されている。Neisser(1982年)によると、フラッシュバルブ記憶が長持ちする原因の1つとして、報道によって定期的に記憶が補強されることを挙げている。
記憶の劣化スピードにはバラツキが生じる。その原因の一つが、印象の度合い。
社会的にも世間的にも大きな出来事を、人々は長い間忘れることがない。出来事の印象の強さは、イコールでそれを会話の中で話題にする頻度に直結している。
印象の強さ=話題になる頻度=記憶の劣化スピードということになる。
エビングハウスの忘却曲線によれば、とある出来事を想起すればするほど記憶として定着するとのこと。
つまり、出来事が長期に渡って人々に記憶されるかどうかは、それが起こった時点では確定していないということだ。
同年代の人同士のうち世代ネタについていけない者がいたとしたら、その人の環境ではドラゴンボールネタで盛り上がる環境を得られなかっただけということだ。
人間の体は、必要なものと不要なものを速やかに判断しエネルギーを効率良く運用するようにできている。記憶も同様に、数日後も数ヶ月後にもアクセスのなかった記憶が不要とみなされてしまうのは当然のことである。現に我々は2日以上前の朝食の内容を思い出せないことが極めて多い。これに対し2日以上前でもディナーの内容を割と思い出せたりするのは、朝食ほどワンパターン化していないからである。
遅くなったが今回の記事の本題に入ろうと思う。
フラッシュバルブ記憶と呼ばれているが、蓋を開けてみれば名前がつくほどのものでもないような気がする、というのが本音である。
記憶が長期に渡って鮮明なまま保持されるのは、記憶の想起頻度が高いという条件が主に必要であり、出来事が大きいほどその条件を満たす可能性が高いだけ。いかに出来事自体が人類史にその名を刻もうが、何日間もニュースで取り沙汰されようが、それを一度見たきり想起する機会を得なければ当人にとっては一昨日の朝食と同じなのである。
このように誤解、あるいは錯覚してしまう認識ということは日常に本当によく溢れている。
今回、フラッシュバルブ記憶という名前の単語を知った際に思うところがあったので執筆した次第だ。
余談。誰とも共有していない自身だけの記憶と確証バイアスの組み合わせの堅強さを打ち破れる意志というのはなかなか稀有だと思う。
合理的な判断をするためには、精確な認識が欠かせない。しかし精確な認識ができたところで、目的が不明瞭では合理的な判断のしようもない。
友人との他愛のない食事会では、粗末な認識で、不合理な判断力で、目的のないなんとも危険な意志の疎通がされていると思うと、なかなか怖いことを平気でしてるんだなって実感する。