自然主義的誤謬。我々の祖先が共食いをしていたからといって、現代の我々も共食いをするべきだといったような推論が必ずしも真ではないこと、またはその誤り。
『私たちは今でも進化しているか?/マーリーン・ズック』を読了して、俺の中で判明したのは、「どの時代でも致命的な脅威に対し我々は進化し続けてきて生存と繁栄を最大化していくことには成功しているが、環境に完全な適応をしたことは一度もない。」ということ。
現代の食生活は、肥満や糖尿病などといった過剰な栄養摂取によって健康を損なうもので溢れている。昨今の遺伝学などの科学技術の発展により明らかになった祖先の人類達の食生活のうちいずれかには、我々も習うべきものがあるのではないかと考える人達がいる。農業を悪だと断言するジャレド・ダイアモンドを筆頭に、パレオ式に傾倒する者達がその代表である。
どの時代の食生活を模倣するべきなのか?答えは、「どの時代にも存在していない」である。
「〜環境に完全な適応をしたことは一度もない。」理想のモデルは過去には存在しないということである。
人類は自分たち以外の生物・無生物を何から何まで利用する。大地に降り注ぐ筈だった太陽光を遮るソーラーパネル、増やしたり減らしたり改造される動物達や植物達、出会ってしまったが最後の核融合・・・etc。
自然を尊重し、守っていく?大いに結構。しかし絶滅した種は元には戻らない。かつての緑や青を蘇らせることはおそらくできない。人類が限りなく利己的かつ無差別に繁栄していくことは、果たして善か悪か?
我々が自分勝手に好き放題繁栄していくように、自然の猛威も自分勝手に好き放題に人類を蹂躙していく。生命に意味なんかないし、自然にも意味なんかない。
宇宙にも地球にも人類にも生命にも「高尚」は備わっていない。人類が目指すべき事柄なんてものは存在しない。惑星間の旅行が可能になったところで、銀河間の旅行が可能になったところで、きっと彼らの営みが変わるのは手段だけ。
誤解しないでいただきたいのは、俺は憂いているわけではないということ。ただただ虚無なのだ、我々の為すこと全てが無駄なのだと言いたいわけではない。
人類であろうと無生物であろうと、誰もが利己的なだけだということ。己の快苦が舵を切った果てに辿り着くだけである。つまり良いも悪いも存在しない。モデルはどこにもない。神なども存在しない。誰も決めていないということ。
つまり、良いと悪いを決めるのは個人であるということ。意志によって。
太古より刻まれている遺伝子の強制に対抗する力を、我々人類は持っているということ。